第3話

 自動運転システムにはそれなりの歴史があるらしい。

 やがて『日本』となる大地に人が現れたと同じくして八百万の神々が発現した。人々が自然の現象の中に自分たちとは異質な『神』と言うべき存在を感じ取り、畏怖の念を持つことで神々に生命を与えることになったのだ。人々によって創造された神々は人々の生きる世界とは違う次元に棲家を得た。例えば、道端の石でもそれが『御神体』だと人が思えば、そこに一柱ひとはしらの神が宿るのである。そしてその時代時代の精一杯捧げられる限りの『社』に祀られる。しかしそれはあくまでも『人』が想いの中に信じる姿に過ぎない。

 そうして神々は生命を与えてくれた人々を姿なきまま見守るようになったのだ。人々が浮世を幸せに生きるように、そして死後に恨みを引きずらぬように、心を満たしてすんなり『成仏』してほしい、という祈りを、神々は人々の生き死にを眺めるうちに抱くようになった。人々が『神』に祈るのと同じように、神々は『人』に祈ったのだ。思いを残すが故に浮世とあの世の隙間に落ち込み、さまよい続け、時には浮世の人々に『あやし』をもたらすこともある・・・。

 そこで神々は発想した。不幸に見舞われ、成仏できずにその隙間をさまよう人々の生き様を、幸福なものに交換できないか?

 縄文時代も末期を迎え、人々の『文明』が形を成してきた頃、神々の実験は始まった。

 最初のうちはさまよえる人々を全て救うことを考えた。もう一度、生まれた時点に差し戻して不幸が発生しないように環境を制御するのだ。もちろん、それで違う人生を歩むことになり、それはその時点の、まわりで生きている人々の人生にも影響する。しかし、環境の制御である限り、それがまわりに不幸を及ぼすことはなかった。

 だが、自然災害で不幸になった人々まで救うのは大変なことだった。いくら何でも大自然、大宇宙の営みを制御することなど、人々の想いの中に存在する生命体にとってはその力量を無限大に超えることだった。そして現実問題として、多少の不幸があっても素直に成仏して差し戻す必要のない人々の方が多いのだ。だから、精々、不幸が起こる前に、差し戻した人々をそういう環境から移動させることぐらいしかなかった。

 そんな中の一人が、今回講師を勤めてくれた縄文紳士だった。

 彼の場合、神々の想いの初期段階としてはあまりにも上出来な成功例だった。そしてその満足感を、人生の不幸を引きずって死に切れない人々を『生き直し』へと向ける広報者として伝えてくれないかと神々から打診された。もちろん、いつまでとも言われない。そしてそれは、彼自身は『成仏せず』に、後に来る人々のためにこの中間地帯に留まり続ける、ということなのだ。

 彼は引き受けた。一度目も二度目も、生きている間は、もちろん『神』は畏怖していたが、度重なる災害に遭った時も特に祈ったりお供え物などをしたことはなかった。どちらかというとそういう気持ちは薄い方だった。二つの人生を顧みて、彼は初めて『神』にお供えをしたのだ。自分自身を───。


 それから浮世の時代が進むに連れ、その『救済』は制度化され、救済の技術も進化し、ルールが構築されていった。いや、文明の進展に合わせて変わっていかざるを得ないというか。

 生き直している人々の中で、調子よく人生が進むことに乗じて傍若無人をやらかすヤカラが現れたのだ。もちろん、縄文紳士が『生き直しはこんなにすばらしいよ』という宣伝はするが、まだ講習も試験もなかった頃のことだ。希望さえすれば誰でも『生き直し』できた。

 神々は手を焼いた。そういうヤカラはまわりを不幸にするようなことばかりをやるのだ。その者が幸運に巡り合わせるような環境を作っても、それを独り占めするようなことをしたり、他の人を貶めたり・・・。その影響を受けて命を落とすようなことになった他の者が生き直しを希望した時には、そのヤカラと巡り会わせないような環境を作らねばならない───。

 そうやって時間のパターンが数えきれないほどできてしまい、どれが元々あった時間線なのか訳がわからなくなってきた。もっとも、最初の一人を地上に戻し、前回の人生と違うことが起こった時点から時間線など意味がなくなっている。

 どちらにしろ、神々にとっては時間線などはどうでもいいことだった。生き直しの人生で前の時間に上書きしてできた新たな時間線はそれはそれだけのもので、それが次々とどう変わろうと、上書きされたのだから現実的に並行して別の時間が同時に存在できるわけではない。そしてその時点から未来がどう変わるかなどその時点にいる限り誰にもわからない。制御した環境でどう転がっていくか神々に予想できるわけでもない。ただ、不幸になりそうになればまたそこで制御する、それだけのことだ。

 人々の時間の積み重ねである歴史がどう動こうが、神々には関心がなかった。神々の目的はただ一つ。

 一人一人が人生を悔いなく終え、思いを残すことなく成仏すること。

 ただそれだけだった。

 できれば人々が自主的にそういう世界を築いてくれるのが一番いいのだが。

 誰も二度目の人生など求める必要のない世界を───。


 それでも、神々が不幸な人々を二度目の人生でいくら無事に成仏させようと、浮世の大勢たいせいは変わらなかった。日本の外からやってきた『無関係』な人々がさらに無茶苦茶をやり出したからだ。もちろん、神々が日本独自で築き上げた救済措置なので、無関係な者まで救済する気はない。第一、無関係な者はこの『希望を聞く場』にはやって来ない。必然的に彼らの信じる神の方へ行くのだから、「お前はどこのもんじゃ?」と問う必要もない。そこで彼らが救われるかどうかも知ったことではないのだ。

 だが、その無関係な者達のせいで普通なら不可なく暮らせたはずの人々が脅かされ始めた。そして、想いを残しながらも「もうあんな世の中は二度とごめんだ」と生き直しを拒否してそのまま不毛に成仏してしまう人々が増え始めた。今までなら、生き直しをただ希望しないだけで納得して成仏する人々ばかりで、「拒否する」というような強烈な意志を感じられたことなどなかったのだ。

 神々は危惧した。外からやって来た者達の所業の影響もあって、更にヤカラも大量発生している。いずれ被害者救済も手に負えなくなるだろう───。

 神々は決断した。人々の知識や科学技術が発達し、社会構造も変態化してきた浮世に合わせて、この『救済』も厳格な制度としてシステム化しようと。救済を認める者と認めない者との線引きを明確化し、認める者には『ヤカラ化』しないように、魂の良識をきっちりと身につけてもらう。そのために講習を実施し、身についたかどうかの試験をし、合格した者だけにシステムに乗るための『免許証』を与え、生き直しの機会を与える───。

 そうすれば神々の環境整備が間に合わずに少々世の中の不条理に遭遇しても、免許証が魂のオーラとなって不条理に流されることを防ぎ、他の人からは「いい人」「尊敬できる人」として慕われる輝きとなる。こうして、『不運』や『理不尽』を寄せつけないツールとしての機能を免許証が果たすのだ。神々にとっては自分達をサポートしてくれるツールでもある。この免許制度は素晴らしいシステムに思えた。

 縄文紳士は、人々の進歩を観察し、その時代に合わせて自らの風貌も変えてきた。講習を担当するようになったこともあり、『生』とも『死』ともつかないこの空間では、馴染みのある姿を見せる方が人々を安心させられるからだ。

 それでも、ここに来た者が最初に通る『受付』の担当は、ここが浮世ではないという最低限の認識を持ってもらうために白い風船玉のようになっている───。


 

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