すくえない

 次の日、モモはいつも通り登校してきた。女子制服に身を包み、背中を丸めながら。朝のホームルーム前、私はモモの前へ行き。

「モモ、放課後に来て」

 とモモに告げる。モモは一瞬訝しそうな顔をしたが、すぐに私の言葉を理解したらしい。薄く微笑みながら。

「わかった。場所は?」

 と私へ問いかける。私はすぐに。

「視聴覚室の準備室。この前の」

 と返す。ちらりと時計を見ると、もうそろそろ担任がここへやってくる時間。私はモモの頭をそっと撫で、自席へ戻る。

 昨日、モモの家から帰って来た私は、一睡もすることができなかった。モモの母親から聞こえてくる不協和音や、モモのぐしゃぐしゃになっていた身のことを思い出してしまっていたのと……モモを殺す、そのことについてずっと考えていたからだ。

 いつもなら眠い授業も、いつもなら退屈な授業も、全てがどうでもよくなり、すべての時間が遅々として進まなくなっていた。

 こんなに世界って色褪せていただろうか、こんなに世界って無音だっただろか、そんなことも考えてしまう。

 昼休みは何も食べる気にはなれなかった。昨日から一食もしていないけれど、お腹なんて空かなかった。だから、そのまま窓の外の景色を見続けるつもりだった。

 しかし。

「飯田さん」

 そんな言葉と共に、私の隣に椅子を持ってきたモモが、弁当を広げていた。いつも通りの弁当……だと思いきや、何とも女の子らしい弁当だった。

 小さな弁当に野菜中心の可愛らしいお弁当。

「ちょっと、食べて」

 そう言って、モモは私の肩へ寄りかかり、私にひじきと大豆の煮物を箸で掴み差し出す。

「……あんまりお腹空いてない」

「ボクが食べさせたいから食べさせて」

「…………普段はやってくれなかったのに」

「ボクなりの抵抗だよ。ボクはボクで居たかったから」

「諦めたの?」

「ええ」

 モモは私の口の中へ箸を突っ込みながら言う。

「今日、死ぬから、自分へ正直になってる」

 そう言って、モモは私へ微笑む。解放される寸前なのだ、モモが笑うのは自然なのかもしれない。



 昼休みが終わり、授業が終わり、帰りのホームルームが終わる。

 日常の一つ、何一つ変わらない、ただの学校生活。

 私とモモはゆっくりとした足取りで、鍵が壊れている視聴覚室の準備室へ向かう。モモは私の手を握り締めながら、私にくっついている。他人から見てみたら、仲睦まじい友人同士に見えるだろうか。

 そして、私とモモは目的地へ到着した。モモはすぐに扉をこじ開け、私を手招きする。私は周りを確認しながら入り、すぐに扉を閉める。

 中は相変わらず埃だらけであり、私はすぐに窓を全開にする。

「寒い?」

 私は彼女にそう問いかける。モモは首を横に振り。

「大丈夫」

 と返す。そして学生鞄を床へ置き、私を見つめる。

「飯田さん」

 私も学生鞄を床へ置き。モモと向き合う。私はモモと手を繋ぎながら、言葉を紡ぐ。

「モモ、最後にちょっとだけ、おしゃべりしよ?」

「覚悟が鈍らない?」

 モモが少しだけ不安そうな顔をしたが。私はすぐに。

「大丈夫。全部終わらせるから」

 そう言って、モモと一緒に床へ座った。

「……あ、そうだ飯田さん」

「何? モモ」

「ボクの学生鞄は見ないで」

「……なんでさ」

「なんでも。絶対に、駄目」

 モモの言葉に私は。

「わかった」

 そう言って、ため息を漏らした。



 それから私とモモは本当に、本当に他愛のない話をした。

 手を握り締めながら、自分のことを、自分の過去のことを話した。そんなおしゃべりの間、モモが時折、鈴が転がるような笑みを零す。本来モモはこんなに笑う子だったんだ。そう思わざるを得なかった。私の言葉を深く聞き、笑い、驚く。

 普通、これこそが普通のはずだったんだ。そして、この普通のまま過ごしているモモの音が一番綺麗で、澄んでいて、心地よかった。

 空は段々と橙色へ変わり、ホームルームが終わってから時間が経ったことを示していた。

 私は、そんな空を見て、深く深く息を吐く。

「モモ」

 私はモモを押し倒し、モモの首の上で親指を重ねる。モモは穏やかな表情を浮かべている。


 そして私は。

 力を込めた。


 ぎり、ぎり、と音が鳴る。目の前の物体に私の指が食い込む。決めたことなのに、わかっていたことなのに、私は恐怖に震える。もう冬だと言うのに、汗が滝のように噴き出す。指が白くなるほど、力を込め絞めつけているモモの首。新雪の様に白く、百合の様に細い、力を込めてしまえば、容易く手折れてしまいそうなモモの首だが、未だに折れることはなく、ぎりぎりと音を立てるのみであった。人間と言うのは、存外頑丈なものである。しかし、徐々に確実に、彼女の命を削っているのは明白であり、彼女の顔が白から紅になり、紅から青紫へと移ろいでゆく。そんなモモの姿に、今更、躊躇いを感じる。

 これが人間の命を奪うということなのか。

 私は力を緩めたかった。今すぐ楽になりたかった。罪から逃げたかった。まだ、人間でありたかった。だが、彼女の細い両手がそれを許してくれなかった。私の手を包むように握った両手は彼女自身を確実に絞めつけている。どうあっても、彼女は私に殺されようとしている。

 彼女はただ、笑顔だった。

「最期に……最期に、あなたを呪ってあげるよ。モモ」

 私は、震える手を何とか抑えながら、モモに言葉を落とす。モモは苦しみながらも頭をほんの少し斜めにする。そんなモモを見て、私は。

「私は、モモのことが好きなんだ」

 その言葉に、モモはほんの少しだけ目を見開く。封じ込めていた想いが、言葉が、涙が、私の中から滲み出る。

「大好きで、大好きで、殺したくなくて、でもモモが望むから殺したくて。もう、わけが、わからないんだ」

 視界が歪む。これは涙か? それとも汗か? それすらもわからない。私は親指にさらに力を込める。強く強くモモを呪う為に。

「大好き……大好き。大好き。大好きなんだよ。モモが……」

 嗚咽が漏れる。モモの顔に涙が落ちる。もう、止められない。

「呪ってやる。モモが天国に行ってしまうように、あの世が虚無なんて、そんなこと、させない。幸せに、してあげる、苦しめて、苦しめて、苦しめて、幸せに」

 ふっ、と私の顔に何かが触れる。純白の指……モモの指が私の顔を触っている。どうやら涙を拭っているようだ。そして、私の涙を拭ったあと、そっと私の顔を包む。

「なに、嫌がらせ? 大好きな人間が死ぬ瞬間をちゃんと見ろって?」

 自嘲気味に私がそう言うと、モモは唇を動かす。喉は私が締めているため、空気は通らず、言葉は紡げない。唇は、『お』『う』『お』『あ』の形で動く。

「……無駄だよ、もう、モモの言葉なんか、聞いてあげない。二度と、聞いて……ひぐっ……あげない!!」

 モモは、私の言葉を聞き、満面の笑みを零す。死ぬ直前なのに、苦しいはずなのに。

 そして、がくん、と親指がモモの首に食い込んだ。こっ。と言う小さな声が漏れ、モモは脱力する。

「…………ぁ……ぁ……」

 私はそれでも首を絞め続けた。モモが帰ってこないように、もう、二度と私を呪えないように。

『ボクもだ』

 モモが残した呪いは。非常に強かった。

『ボクもだ』

 この呪いのせいで、私は後悔しているんだ。

『ボクもだ』

「ボクもだ、じゃ、ないよ……ちく……しょう、何で、何で……!」

 私は泣き続けた。モモの首を絞めながら、いつまでもいつまでも、涙が枯れ果ててしまうまで。



 モモを殺したあと、私はフラフラと立ち上がり、準備室の壁に背中を預ける。準備室の窓から見える風景を見て、私はため息を漏らす。あんなに眩しい橙色だった空は、星が煌めく紺色の空に変わっていた。校内はまだまだ生徒や教師が居るはずなのに、何故か私の耳には静寂が広がっていた。なんで、こういうときに限って、静寂が広がるのやら。いつもみたいに雑音が静寂を掻き消してくれたら、どんなに気分が楽になるか。モモは相変わらず微笑んだまま眠っており、それを見るたび、枯れたはずの涙がまた湧いてきそうだった。私は引きずるように足を動かし、モモの荷物……もう、遺品か。遺品を探る。絶対に見るなってモモは言っていたけど。

「一度呪ったんだ、二、三回バチが当たることをしても今更だよね」

 と自分に言い訳をしながら、モモのバッグを漁る。

 漁るとは言っても、モモの持ち物は非常に少なく、教科書どころか、筆入れすらない。無造作に突っ込まれたルーズリーフと、雑にルーズリーフにクリップで挟んでいるボールペンが一つ。高校生なのに、シャープペンシルの一つもないのか。

「いや、持たせてもらえなかったのかな」

 私は一人そう呟き、ルーズリーフを覗き込む。そこには授業中の板書を文字通り丸々転写したページや、写真みたいに精巧な風景画が出てきた。これは教室の風景だろうか。

「おいっ、なんで私だけヨダレ垂らしてるの。こんなにだらしなく寝てないって!」

 そんな小さな落書きがすぐに見つかるくらい、彼女の絵は緻密で、正確で、機械のようだった。そんな風景画がいくつか見つかったあと、一枚の綺麗に折りたたまれたルーズリーフを見つける。私は迷わずそのルーズリーフを開く。そこには。


『ボクは、ボクの意志で、飯田音亜に殺されました。彼女を罪に問わないでください。 蔵本李』


 と書かれていた。

 私はその紙を見て、手が震えた。悲しみではなく、怒りで、だ。

「なに、一人で逝こうとしてるの、逃がさないよ」

 低い声でそう言うと、私はそのルーズリーフをぐしゃぐしゃに丸め、私の制服の内ポケットにしまいこんだ。後でどっかに捨てておこう。排水溝とかそこらへのゴミ箱でも良い。いっそ、腹いせで紙を飲み込んでしまってもいい。

 そんなことを考えながら私は、ぷりぷりと怒りつつ、モモの死体と遺品を担ぐ準備をした。力を抜いている人間は重いとよく聞くけれど、どうやらそれは真実のようで、いつかに担いだ時よりも、モモは酷く重く感じた。まだ死後硬直も始まっておらず、ぐにんぐにんのモモの身体は酷く運びづらかった。

「なんか身体に括り付ける紐でも持ってくるんだった……どっかぶつけても、文句言わないでね、モモ」

 私はモモの尻を叩きながら、そう言う。もちろん、返事なんか返ってこない。……一瞬だけ、ほんの一瞬だけ私の中で悪い欲望が出てきてしまったが、それはあの世とやらまで預けておくことにする。

 ……モモのことだから、キスしても、無反応か、雑菌の交換だなんだって馬鹿にしてくることは目に見えているけれど。

 何とかモモと遺品を担ぎ、準備室を出て、私はゆっくりと廊下を歩く。たまに部活帰りか、補習帰りか、生徒たちとすれ違うこともあったが、ちらりと私達のことを見るだけで、通り過ぎてしまう。まさかモモが死んでるとは思ってもいないみたいだ。

 そして、私はやっとのことで、職員室に到着する。ここまでで何分かけたか。モモをもう一度担ぎ直し、扉をノックする。すると、中から先生が顔を覗かせる。確か、一年生の担任だったか。なんか見覚えがある。

 ま、誰で良いか。

「先生、私、蔵本李を殺しました」



 それから先生が大騒ぎし、警察、救急車、果てには消防車まで学校に訪れた。誰が呼んだのか知らないが、消防車まで来たことに私は呆れてしまった。教師たちに無意味に三発ほど殴られたが、すぐに他の教師に止められ、むしろ殴った教師が他の教師に叱られていた。口の中を切った責任を取ってほしい。私はモモと離れたくなかったが、救急車が来た時点で、引き剥がされてしまった。そのあと、警察が来るまで私は教頭室に閉じ込められていた。教師の監視が行き届いてかつ鍵付きの部屋がここしかなかったのだろう。

「飯田!!」

 すると、しばらくすると、担任が教頭室に入って来た。顔を真っ青にしており、唇は紫色に近くなっている。

「あ、先生。仕事増やしてごめん」

 私がそう言うと、担任は私に向かって近づき。

「何で、何でこんなこと……っ」

 担任は私に向かってそう言う。私は、目を逸らしながら。

「ウザかったから」

 と返す。

 殴られるかな。衝撃に備えて、目を瞑っていたが、担任は絞り出すように言葉を紡ぐ。

「……お前、蔵本の『家庭の事情』知っていたんだな」

 その言葉に目を開き、担任の顔を見る。そこには申し訳なさそうな表情を浮かべている担任が居た。

「すまない。私が、私がもっと早く対処していれば」

 そう言い、顔を両手で覆ってしまう。こんな担任の姿は初めてみる。

「私は、モモを殺したかったから、殺した。それだけ」

「違う、お前は、蔵本を殺したくなかったはずなんだ」

「違くない」

「だったら!!」

 担任は両手をどけ、私の瞳をしっかりと見据える。

「なんで、そんなに泣いてるんだよ……っ」

 その言葉に私は言葉を詰まらせる。何も言い返せない。先生はおそらく私の腫れた目を見て、泣いたと判断したのだろう。私は先生から目を逸らし、俯く。

「……モモは、私に殺されたがっていた」

 私は担任にしか聞こえない声で呟く。口の中の血を呑み込みながら、言葉を続ける。

「だから、私の手で殺したんだ。モモを終わらせるために」

「飯田……」

 担任は震える手で、私の手を包む。

「ごめん、ごめん……」

 いつもは気丈でしっかりとしている、大人なはずの先生が小さく見える。

 私はそんな先生を見ながら、言葉を紡ぐ。

「すべて、私が引き受ける」

「……飯田、お前何を」

「モモは飯田音亜によっていじめられていた。そのいじめの延長で殺された。これで誰にも迷惑をかけずに終わらせることができる」

「待て、お前……そんなこと先生は許さないぞ」

「私がモモを扼殺やくさつしたこと以外に証拠はない、から。それに……」

 私は自分の髪の毛と耳を触る。


「私はドロップアウトした不良ですから」

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