あえない
視聴覚室の準備室の一件から、それなりに時間が経過した。私とモモは一緒に居ることがなくなってしまった。
元々の居場所だった屋上がなくなってしまったから、モモのことを殺せないことをモモ本人に悟られてしまったから……と、原因は色々あると思う。
遠くでモモのことを見て、モモの音を聞くだけになってしまった。モモの音は日を追うごとに複雑な音へ変化し、彼女の中で何が渦巻いているのか、わからなくなり始めていた。
時折、モモが私のことをジッと見つめている時がある。私は手を振り返したりしたが、モモはそれを見ると、すぐにそっぽを向いてしまう。
モモに嫌われたのだろうか? そんなことを考えることも多くなった。
声を掛ければ良い。前みたいに誘えば良い。頭の中ではわかっているつもりでいる。けれど……。
「飯田ー。進路指導のプリント出しとけー」
「はーい」
急に担任にそう声を掛けられ、私は慌てて返事を返す。そう言えばそんなこと言われていたな……私はぐっしゃぐしゃになった進路指導のプリントを机の中から取り出す。
他人のことを気にしている前に、自分の問題を解決しなければ、モモのことは……。そう考えようとするが、どうしてもモモから目を離すことができない。頭の中の思考も、音楽も、モモのことばかりだ。
すると、私のプリントに影が差す。見上げてみると、疲れた様子の担任が目に入る。
「飯田、少しだけ話良いか?」
「えっ、ついに退学……?」
「んなわけあるか。髪色とかピアスとかは直してほしいがな。放課後ちょっと残っていてくれ」
「はーい」
担任はそう言いながら、髪の毛をガシガシとかきむしる。
「センセ、髪の毛痛むよ。女の髪は命って」
「お前ほど髪の毛いじめてないよ」
「確かに」
私は自分の髪の毛の毛先を触りながらそう返す。
「まずは、だ。さっきも行ったけど、進路指導のプリント出しとけ」
「……時期としては遅くない?」
「それでも出さないと先生の都合が悪いんだ」
「あ、悪い大人」
「悪ガキに言われちゃ世話ないな」
放課後、先生は人払いをし、私と対面で座っていた。机の上には学級日誌が開かれており、三秒で先生がコメントしたページが開かれている。
「大学進学、就職……それくらいは絞れないか?」
「えー……」
「あんまりこういうこと言いたくないが……日本なら大学も選択肢にはなるぞ。学園生活を無駄に延長させたいなら」
「先生が言っちゃう?」
「海外だと入るのは簡単、卒業するのが大変……なんだが、日本だと逆だしな」
「でもなぁ……そこまでして大学に行って楽はしたくないなぁ」
「じゃあ就職か?」
「働くのもなぁ」
「……まぁ、そうなるよな」
先生はため息を漏らしながら、頬杖を突く。きっと先生は何人も私のような生徒を見てきたのだろう。手慣れているというか、なんというか。
「ぶっちゃけると先生も進学って言ってくれた方がメンツを守れる」
「悪い大人だー」
「悪ガキがよ」
そう言い合い、お互いに笑う。私は椅子の背もたれに体重を掛け、天井を迎える。
……そう言えば。
「モモって、どこの大学行くんですか?」
私は先生に尋ねる。先生は首を傾げ一言。
「モモ?」
確かに、いきなり愛称で言ってもわからないか。
「
「ああ、李でモモか」
先生は苦笑いをしながら、腕を組み考え込む。
「あいつは確か……就職だった気がする。あ、これ内緒でな。今のご時世、個人情報出したらコンプライアンスだなんだって言われるから」
「就職……」
何となく、何となくの予想だが、これってモモの意思ではないのでは……?
「あとついでに、蔵本の話題が出たから蔵本の話題を出させてもらうけど」
「モモの?」
「そうだ。最近蔵本の様子がおかしいとクラスから声が出ているんだ」
「……そうですか?」
「なんか妙に落ち着いている時があるとかなんとか」
それ、素じゃないか。
私は思わずずっこけそうになる。私は頬を人差し指で掻きながら先生に言う。
「……あんまり言いふらして欲しくないけど、あれがモモのいつもですよ」
「…………マジ?」
「
私がそう言うと、先生は安心したような表情を浮かべ。
「じゃあいっか。解決」
先生はそう言うと、椅子から立ち上がり、反転させていた椅子の位置を元に戻す。そして、学級日誌を回収し、私に向かって言う。
「進路指導のプリント、お願いな。あと……」
一瞬先生は悩んでいるようだったが、すぐに言葉を紡ぐ。
「蔵本のこと、頼む」
下駄箱。上履きからローファーへ履き替え、外を見た瞬間、私は絶望した。
「雨じゃん……」
今日はずっと曇りが続いてたが、まさかここまで激しい雨が降っているとは思っていなかった。近くにコンビニがあるため、そこで傘を買っても良かったのだが、下手に傘の数を増やしてしまうと、両親に何を言われるかわかったもんじゃない。それに学生にとってはビニール傘は少し高い。
前は
だから私は……。
「走るか……」
体育以外では普段運動していないし、多分途中で力尽きるとは思う、が。これしか方法が思いつかない。スマートフォンを化粧ポーチの中に入れ、さらに学生鞄の奥深くへ突っ込む。完全に防水できるわけではないが、適当なポケットへ突っ込むより遙かにマシだろう。駆け出して一歩、ぐしゃと言う音と共に、ローファーに嫌な音と感触が広がる。
家に帰ったら新聞紙とかくすねないと、明日までに乾かなさそうだなぁ。そんなことを考えながら、道を走る。
実のところ、私の家からここの高校まではそんなに遠くない。と言うか距離が一番近い高校で良いと思っていたので、ここへ進学したと言っても過言ではない。だから大体歩いて十五分もあれば到着する。逆に言うと、走ればもっと早く到着する。
ただ、そこまで体力が持つわけもなかったが。徐々に足が重くなり、息が上がり始める。
こんなに雨って面倒くさかったっけ。どこか他人事のようにそんなことを考える。やがて私は自分の家の玄関まで到着した。
「ぐえぇ」
やっぱり傘を買ってきた方が良かったか? そう思わざる得ないくらい全身びっしょりだった。防寒具を貫通した雨粒が、私のことを冷やしているのがわかる。私はすぐに学生鞄から家の鍵を取り出し、解錠する。
玄関は消灯しており、誰もいない。私はすぐにローファーと靴下を脱ぎ捨て、洗面所へ向かう。せめてバスタオルが欲しい。私はバスタオルを玄関へ持ち出しながら、頭を拭いている。
その時だった。
「お姉ちゃん」
ふと、音苑の声が私の耳に響く。いつものように怒気は孕んでいない。気分が良いのか? 私はバスタオルをどかし目線を上げる。すると、何やら硬い紙を持った音苑の姿が見える。あの擦れる音は……賞状のようだ。またピアノのコンクールで表彰されたのだろう。
「私、金賞、全国で、金賞取れたんだよ……!」
凄い。素直に凄いと思った。やはり我が妹は才能で溢れているらしい。羨ましいことだ。両親も鼻が高いだろう。
「良かったじゃん。じゃあ私、部屋に戻るから」
私はそう言い、部屋に向かおうとする。妹の活躍する姿は私にとっては猛毒だ。
……妹の才能に嫉妬してしまい、体調を崩しそうになる。すると、音苑は声を荒らげ。
「……何それ」
と言った。
私はため息をつきながら音苑の方を向く。
「言葉の通りだよ。私には絶対にできないことだし、嫉妬を覚えるくらい羨ましい」
それに、と私は言葉を続け。
「それなら音大への道は決まったようなものでしょ? それなら母親たちも嬉しいだろうし、将来も半分約束されたような……」
「そんなこと、じゃない」
私の言葉を遮るように、音苑は大声を上げる。手の関節が白くなるまで強く強く拳を固める。
「なんで? なんでそんなこと言うの?」
「そんなこと? だってお母さんたちが求めている能力はそれでしょ? 私には一切ない」
「…………違う、私が、私が欲しいのは」
「あのね」
私は音苑の言葉を遮り、音苑に背を向け、階段を登り始める。音苑と顔を合わせないように。
「実力を、差を、見せつけないでよ。ますます惨めになるから」
私はそう言い、自室に向かって歩き出す。
もう話すことはないから。話せることなんてないから。
すると、階下から。
「お姉ちゃんの馬鹿……お姉ちゃんなんて大っ嫌い!!」
と声が聞こえ、ビリビリと厚紙を破く音と、バタンと扉が閉まる音が響く。それを聞いた私は歩みを止め、階段の途中にある壁へ背中を預ける。
「大嫌い、か」
音苑にここまで言われたのは初めてだ。ある程度覚悟していた。私が音苑に嫉妬を覚えている以上、関わり合おうとしなかった。
でも。
「あー……辛いなぁ、姉ちゃん。泣いちゃいそうだ」
私はそう零すと、再び玄関へと向かう。
頭を、冷やしたい。ちょうど、今なら雨が降ってる。熱くなった頭と顔を冷ますには丁度いいだろう。腫れたまぶたもきっと、隠してくれる。
バラバラになっている厚紙をまたぎ、玄関に置きっぱなしの、ずぶ濡れローファーを履き直し、玄関ドアを開け歩き始める。目的地なんてない。足が勝手に止まるまで、歩き続けるだけだ。
『お姉ちゃんなんて大っ嫌い!!』
そんな音が何度も何度も私の頭の中で反響している。
どこかで私は音苑に甘えていたのだろう。彼女に対して嫉妬していたとしても、彼女なら許してくれる。音苑なら許してくれる。そんな風に甘え続けてしまってたのだろう。
『お姉ちゃんなんて大っ嫌い!!』
音苑の音が、
「あ……う゛ああ」
私の瞳から熱い泉が溢れる、そして雨と外気によって一気に冷却される。視界がない、まるで宙を浮いているようだ。何も見えない。
耳には音苑の痛みに溢れた音と、雨音と。
「雨に濡れるのが趣味なの?」
雨音に混じって聞き覚えのある声が聞こえてくる。
ぱちぱちと何かが弾ける音、安心できる落ち着いた音、微かに混じる心配の音色。
そっか、そこに居るのは。
私は水滴で何も見えていない視界の中、手探りで音色を探す。すると意外なことに、向こうから私の手を掴んでくれた。いつも冷たかった彼女の手が今はとても暖かく感じる。
「私を、否定してほしい」
私は目の前の女の子に縋った。
「私が私である事を否定してほしい」
もう耐えきれなかった。我慢の限界だった。
妹のことを救えず、モモのことも救えず、自分のこともままならない。それどころか私が関わってしまっているせいで、二人に迷惑を掛けてしまっているとすら思える。
彼女ならきっと、いつものように冷たく私のことを否定してくれる。そう信じていた。
しかし。
「それは、嫌」
意外な言葉に、私は顔を上げる。雨粒と涙が混じってボヤける視界、そこにはモモの姿が。私に傘をかざし、ゆっくりとしゃがむ。
「否定したくない。飯田さんは、飯田さんだから」
そんな……そんなの……。
「モモは残酷だよ」
私は喉を絞りながら、声を出す。
「残酷、ね」
モモは私の髪の毛を傘を持っていない方の手で撫でながら、私に顔を近づける。ぼやけた視界でもモモが何をしようとしているのかがわかる。私は目を閉じようとした、だけど寒さで思うように身体が動かない。モモとの距離はゼロ。温かい感触が唇の真ん中に広がる。
「飯田さんも大概残酷だよ。ボクが持ってはいけない感情を、ボクが発露しちゃいけない感情を無理矢理引きずり出してくる」
「モモ……」
「はっきり言うとね、ぐっちゃぐちゃになってる飯田さん、可愛いよ」
「ひど」
モモの言葉に私は思わず笑ってしまう。そして、モモは再び唇を落とし、私の耳をこねくり回し、そっと立ち上がる。
「本当、残酷。ボクはこんな感情を抱いちゃいけないのに」
そう言って、彼女は私に開きっぱなしの傘を差しだす。
「風邪、ひくよ」
「モモだって」
「ボクは別に構わない。頑丈だから」
「そんなに細い癖に」
私は傘を返そうとするが、モモは一言。
「じゃあね、飯田さん」
そう言い、走り去ってしまった。全身が凍り付き欠けている私には追うことができなかった。私は涙と雨を手で拭い、あたりを確認する。
そこはモモがいつも着替えをしている公園、こんなところまで私は歩いてしまっていたのか。現在時刻はスマートフォンを持っていないからわからない、けれど空はもうとっくに真っ暗になっており、街の光がぼんやりと雲に映っている。
帰ろう。
私はがちがちに固まった身体を無理矢理動かし、家へ帰る。いつもの道が、果てしなく遠く感じた。
やっとの思いで到着した自宅の玄関、ドアの鍵は施錠されており、中へ入る手段がない。何も持たずに出てしまった弊害がこんなところに出てしまうなんて、私は思わずため息を漏らす。
これ、外で泊まったら死ぬかなぁ。
そんなことをぼんやりと考えていると、唐突に玄関の鍵が開く。
そこには瞼をぱんぱんに腫らした音苑の姿が。
「お姉ちゃ……」
「音苑、ごめん。ちょっとお姉ちゃん、音苑と喧嘩してる余裕ないかも」
私はそう言って、音苑を押しのける。そしてずぶ濡れのローファーを脱ぎ捨て、傘を音苑に預ける。
「これ、私の部屋に放り込んどいて……大切な人のだから」
「え……あ……うん……」
音苑は鼻を鳴らしながら、答える。この子は何故泣いているのか? 金賞を取った喜びの涙……ではなさそうだが。
私はふらつく身体を支えながら、風呂場へ向かう。
その時だった。
「
鼓膜と脳を突き通す大音量、それと共に私の身体が洗面所へ吹き飛ばされる。どうやら私は母親に突き飛ばされたらしい。
「あんたは!! 何を!! しているのよ!!」
そう言って母親は私のことを踏みつける。寒さも相まって、私の身体に重い痛みが走る。
「賞状も破り去るなんてっ! 頭どうかしているんじゃないの!?」
……ああ、そう言うこと。母親が怒っているのは、私が遅く帰ってきたことでも、音苑が泣いていたことでもないんだ。
賞状っていう目に見える栄光、それを千切られたことについて怒っているんだ。
「……はっ」
私は思わず変な声を上げてしまう。私が、今やるべきことは……。
「賞状の厚紙は、破り心地最高だったよ」
犯人を隠す。音苑を守る。
ただそれだけだ。
「お姉ちゃん!?」
遠くで音苑の声が聞こえてきたが、その直後、暴力の嵐に晒され、やがて、何も聞こえなくなった。
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