ほどけない
消灯後、薄暗い部屋の中、私は楽譜に音を落とし、色を付ける。旋律を繋ぎ、音を乗せ……そして最後は決まってびりびりに破る。私は髪の毛をガシガシと掻きむしり、細かく破った紙を部屋に備え付けられているゴミ箱へと放り込んだ。
こんな旋律、モモらしくない。モモはもっと繊細で、もっと自然で……もっと何かを求めていたはずだ。自信の心臓の音を聞きながら、私は部屋の壁に背中を預ける。
ああ……いけない。またあの光景が頭の中に広がり始める。冷たい床に横たわるモモを、私は……。
瞳の海に広がる、雫を私は必死にこらえる。悲しい音を鳴らしてはいけない。誰が聞き耳を立てているのかわかったものじゃない。
だから、泣いちゃいけない。
だから、五線譜に色をつけなくてはならない。
彼女の音をいつでも忘れないように、私に呪いを打ち付けるために。
◇ ◇ ◇
朝。制服に着替えた私は、髪の毛を整え、ピアスを確認する。そしてチェーンが付いているイヤーカフを左耳につける。少し前なら遅刻寸前まで眠っていた私だったが、最近はだいぶ余裕をもって起きられるようになった。私は両親と鉢合せないように素早く階段を下り、スリッパを脱ぎ、ローファーを履く。
「……お姉ちゃん?」
背後からそんな声が聞こえてくる。妹の声だ。
振り返ってみると、そこには驚いた顔の妹……
「あれ、私、まだ寝てる……?」
「寝てないよ、姉ちゃんちゃんと起きてる」
私はローファーのつま先を玄関の床で整えながら音苑に言う。すると、音苑は自分の顔を引っ張りながら。
「……あれ?」
と呟き、そのまま階段を上がって行ってしまった。昨日の夜も遅くまでピアノの音が聞こえていたから、きっと音苑は遅くまでピアノの練習をしていたのだろう。だから、寝ぼけてしまってもなんらおかしくない。
と言うか、私は朝が苦手だと言うのに、妹の音苑は早起きが昔から得意なのは、同じ姉妹なのにそこも差が付くのかと悲しくなってものだ。
私は玄関の扉を開き、手に持った鍵で、玄関の鍵を施錠する。
今日はいつもよりも太陽が低い。家の前に通りかかる人間もいつもとは少し音が違う。私は家の石段を降り、門を通過する。忙しくゴミ収集している人も、私のことを指差す隣人もいない。
変な気分。
何となくそんな感想を抱きながら、私は歩き出す。
モモと知り合ってから、私の生活が変わった。家では相変わらず腫れ物扱いだったが、学校に行くとモモと話せる。そのことが私の支えになった。モモを抱き締めてからは、ますますモモと一緒に居ることが多くなった。屋上だけではなく、教室でも一緒に居ることが多くなった。
……まあ、いじめっ子とか言う臆病者からモモを守ると言う理由もあった、が。
私はいつも通り近道をいくつも潜り抜け、学校へと向かう。道の途中、小学生らしき緑色の帽子をかぶった子供たちが近道でくるくると回っている。どうやらこの近道……建物と建物の間の薄暗い通路は子供たちにとっても近道のようだ。
「ちょっと通るね」
私は道を塞いでいた小学生の一人にそう声を掛け、隣を通る。声を掛けられた少年は私の顔……いや、髪と耳を見てぎょっとした表情を浮かべる。
うん、ごめんね。
私はなるべく敵意がないように装い、近道を通過する。薄暗いところでこんな銀髪青メッシュピアスな女が通ったら、そりゃあ……怖いよね。
遅刻ギリギリの時は、小学生なんていない。だからある意味新鮮な気分だった。そんな、変に新鮮な通学路を通り、私は最後の近道、学校近くの公園にたどり着く。そこはモモがいつも男装をやめるところ。家族に強要されている男装を解く特別な場所。私はその公園のベンチに腰を掛け、身震いする。朝一だからだろうか、季節のせいだろうか、思ったよりも公園のベンチは冷たく、
ハンカチとか敷けば良かった。何の対策もなしに座ったことを後悔しながら私は空を見上げる。呆れるほど晴れ渡っている空は、家を出る時と比べて明るくなっている気がする。手持ち無沙汰な私はスマートフォンをタップする。そこには時刻が表示されており、モモとの待ち合わせ時間より、三十分は早いことを告げていた。
「……我ながら、不器用過ぎないか?」
私はため息を漏らしながら、スマートフォンをカーディガンの中にしまう。最近はカーディガンを着ていても肌寒くなりはじめ、そろそろブレザーの上でも着て行こうかなと思ったその時。
「…………」
男装をしたモモが居た。
その表情は何と言うか……苦虫を嚙み潰したような、奇妙な表情。私はすぐに手を上げ。
「おはよう、モモ」
と挨拶をする。するとモモは深い深い溜息を漏らしながら。
「…………お互い様か」
小さく呟き、そのまま男子トイレへ向かおうとする。私は慌てて、彼女を引き留め。
「私が一緒に入るから、女子トイレに行きなって」
そう言い、モモの手を引っ張る。モモはなすがままに引っ張られた後。
「わかった。わかったから、自分一人で入る」
渋々と言った表情で言い、女子トイレへ入っていった。最初に見た時は唖然としすぎて、止める暇もなかったが、彼女は身体的にも女の子だ。
無理して、男子トイレに入る必要なんてない。
五分もしないうちにモモはいつもの制服姿でトイレから出てくる。片手には大きなリュックサック、もう片方には学生鞄を持っている。私はすぐにリュックサックを掻っ攫う。
「これは私が預かります」
「困らせたいの?」
「違うよ。これは……あー、質?」
「困らせたいんじゃない」
モモはじと……と非難するような目で私のことを見つめる。
「違うっ、違うんだって。返してほしければ私と放課後遊んでよ」
私はリュックサックを前に抱えながら、モモに言う。
「……はぁ」
モモは何度かわからない溜息を漏らしながら、私の脇腹に指を突き立てる。
「少しだけ。あんまり遅いと母親が心配するから」
そう言い、モモは学校に向けて歩き始める。
「やった」
「不良に荷物を取られて、脅されて呼び出されるなんて、ボクは何をされるんだか」
「……人聞きが悪いって」
「そう? 事実だと思うけど」
「モモはっ」
私はモモの前に躍り出て、モモの顔に合わせて前屈みになる。
「私と遊ぶの嫌なの?」
と彼女に問う。モモはキョトンとした表情を浮かべた後、すぐに顔を逸らし。
「…………ボクはそんなこと言ってない」
そう言い、私の尻を思いっきり
「いった!? 照れ隠しにしては強くない!?」
「うるさい」
「ちょっと、モモさん!?」
「うるさいっ」
「モーモー? さっきお手洗いで軽く確認したら、真っ赤になっていたんだけど」
お昼休み、いつものように屋上の地面にゴミ袋とクッションを敷き、その上へ座る。モモも自然と私の隣に座り、自分の学生鞄から弁当箱を取り出す。
「……絶対嘘」
モモはジトっとした瞳で私を見つめる。
「なんで言い切るのさ」
私はモモの弁当を受け取り、おかずをいくつか見繕う。モモから許可をもらったから、後でみっちゃんに餌付けをするのだ。
「今日は……春巻きに、厚焼きたまごに、からあげに……ミートボール」
今日も今日とて、彼女のお弁当は茶色ばかりで私は頭を抱えた。これ男子だったとしても、塩辛い物ばかりで辛くないか? 私はそんな疑問を抱きながら、モモにコンビニで買ってきたプチトマトを渡す。モモはそのプチトマトを私の手から直接口の中へ突っ込む。
……ん?
「直接食べた?」
「飯田さん、変な人だしこの方が喜ぶでしょ?」
「人を変態みたいに」
「変態だからボクのお腹触ったり持ち上げたりするんでしょう?」
「まだ根に持ってたの!?」
「むしろ忘れられると思ったの?」
モモはそう言い、プチトマトをもきゅもきゅと食べ続ける。確かに……そう、かもしれないけど。
「モモの意地悪」
「飯田さんが隙だらけなだけ」
彼女はあっけらかんと言い、私にプチトマトを催促する。
「あざといな……」
「……『オトコノコ』らしくない?」
「モモは女の子」
「…………」
「だからあげちゃう」
「んぶ」
プチトマトを食べるモモの姿を見て、私は自分の中の音に変化が起こっていることを悟る。今まで聞いたこともない音に私は少し戸惑う。
……モモに悟られないようにプチトマトを何個も突っ込んだ。
放課後、私と男装したモモは帰り道にあるファストフードへ赴いていた。モモは物珍しそうにあたりを見回している。そのファストフードは特段変わった内装はしていない。
「入るの初めて?」
メニューを確認しながら、私はモモへ問う。
「外から見たことしかない」
「そうなんだ。食べたこともない?」
「母親からたくさんナゲットを食べさせられる」
「……今日はアップルパイとか食べようね」
私はそう言い、私とモモ二人分の注文を取る。
「飯田さん、お代」
「いらないよ。これくらい、友達なら奢って当たり前」
「…………」
『トモダチ』。その言葉にモモは驚いたような表情を浮かべる。しかし、すぐにいつもの表情に戻ると。
「……本当に馬鹿。絶対やりにくくなってる」
彼女はそう言い、後ろを向いてしまう。『やりにくくなっている』きっとモモが言いたいのは。
『ボクを殺しづらくなっているじゃないか』
と言うことだろう。
確かにそう言われてしまうと、前よりももっと殺しづらくなってしまっている。モモの地獄は今でも続いていて、彼女はそこから逃げたがっている。終わりたがっている。
誰かの手によって。
「お客様、シナモンホットアップルパイ二つと、アイスウーロン茶お二つ、お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
私は商品を受け取り、モモの袖をそっと引っ張る。華奢で細い、でもオトコノコの格好をしているモモ。そんなモモは小さくうなずくと、私の後ろをついてくる。
彼女のために私は何ができるだろうか。彼女のことを救うことはできるのだろうか。
自分のことすら救うことができていないのに。
私は空席に荷物を置き、モモを対面に座らせる。四人席だが、満席ではないから別に良いだろう。ホットアップルパイとアイスウーロン茶を一つずつ、モモに渡し、私は自分の手首の包帯を巻きなおす。緊張かそれ以外の要因か……落ち着こうとしていることに気が付く。
……そうだ。
「ねぇ、モモ。モモの秘密を知っちゃったから、私の秘密を一つ、教えるね」
私はそう言い、自分の手首を抑える。モモは目を細めながら。
「……別に良い、気にしてないから。それに今日のは不可抗力だったでしょう?」
と言う。モモなりの優しさか、本当に気にしていないのか。
だけど私は……。
「ううん、私が話したいから話させて」
私はそう言い、深呼吸をする。そして、私は手首の包帯をモモに見せる。
「いつも巻いているこの包帯のこと」
「……勝手に
「違うよ」
私は自分の中で暴れ狂う音を理性で抑えつけ、包帯の留め具を外し、しゅるしゅると解いていく。人前でここまで外したのはいつぶりだろうか。私は何度も深呼吸を繰り返し、包帯を巻き取っていく。
その時、パッと私の手首を抑える手が。モモの細い手だった。
「……飯田さん。顔が青いよ」
「平気」
「でも」
「モモに知ってほしいから」
私がそう言うと、モモは口をつぐんでしまう。そしてそっと私の手首から手を離す。
「昔、うちの母親にさ、ピアノの蓋ごと手首を挟まれて」
私は包帯を解き、手首を見せる。そこには傷一つない手首。ずっと日の光すら当たっていない白い肌が表に出る。日焼けしやすい体質なのに、手首だけはモモよりも白い。
いや、青白いと言っても良い。
「ここ、何もないでしょ? なんだけどずっと痛いんだ」
「…………」
「幻肢痛……ではないだろうけど、あるはずのない痛みと傷を隠すために、ずっと包帯を巻いているんだ」
私がそう言うと、モモは優しい手つきで、私の手首をそっと触る。ずっと誰にも触れさせなかった場所を触られ、私の身体は固まる。
「飯田さんにとって、ピアノは、音楽は……」
「嫌い……ではない、けれど私には才能がなかった」
その言葉にモモが首を傾げる。
「才能……?」
モモは手首から手を離し、両手で私の手を包む。
「ボクには音楽のことはわからない。難しい旋律も、愛のある歌詞も、全くわからない。だけど……」
彼女は私の瞳を覗き込む。相変わらず淀んでいる瞳だったが、何故か目を逸らすことができない。
「ボクは飯田さんの音楽が好き。飯田さんの世界が大好き」
「…………そう?」
「ええ。ボクが嘘やお世辞言うと思う?」
「いつも猫被ってるじゃん」
「それは処世術ってやつ。それに」
モモは両手を離し、ホットアップルパイの包みを剥がし始める。
「ボクは飯田さんに嘘をつきたくないから」
そう言って、ホットアップルパイを私の口に突っ込む。
って。
「あっつ!?」
「危なかった……ボク、猫舌だから」
「人の舌で確かめるなっ。モモっ、覚悟しろっ」
「ボクは施しを受けない」
「熱いのが嫌なだけでしょうがっ。モモも味わってもらうからね」
「…………」
「目を逸らしたって駄目だから」
私は手首の包帯を巻きなおし、ホットアップルパイの包みを開け始める。モモはすでに自分の手に持っているホットアップルパイを口に含んでおり、咀嚼している。
この子は本当に……とことんマイペースだな……。
私は包みを開ききり、モモの口に突っ込む。ちょっと不機嫌そうな顔をしたモモだったが、先端だけかじり取ると、また自分のホットアップルパイを食べ始めた。
「飯田さん」
少し冷えて食べやすくなったホットアップルパイを食べていると、モモが私の名前を呼ぶ。私は顔を上げ、眉毛を上げると。
「飯田さんの音楽、また聴きたい」
彼女はそう言うと、アイスウーロン茶をゆっくりと飲み始める。私は……。
「うん、
そう返し、モモに向かって微笑んだ。
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