かえられない

 モモは女の子だった。

 一切の間違いもなく、女の子だった。しかしモモの母親はそのことを認めなかった。私には理解できない感情だったし、彼女から発せられる高音は、私の脳みそを激しく揺さぶるほどヒステリックでサイケデリックだった。

 何故、彼女が自分のことを「ボク」と言っていたのか、何故、彼女が自分のことを「オトコノコ」と言っていたのか、私がその意味を理解し始めたのは……文化祭の準備がぼちぼち開始された頃だった。

 太陽の沈むのが早くなり、紅葉が増え、風も心なしか涼しくなってきた……そんな時だった。


 ◇ ◇ ◇


「ってなわけで、バレー部は活動停止処分とのことだ。じっくりと反省しろ」

 金曜日の五時限目、長いホームルームの時間、私は半分眠りそうになっていたが、担任のそんな声で目を覚ます。私は担任の目を盗み、大きな欠伸をしながら、耳を澄ませる。

 明らかに焦っている呼吸音、貧乏揺すり、誰かを犠牲にしようと企む音。先生の声に紛れて不快な音が聞こえてくる。自分でも不機嫌な表情に変わるのがわかる。私は不機嫌な顔を隠すように、両手で自分の顔を覆う。

「……先生は残念ながら、生徒たちの噂の全てを把握できているわけではない。だからと言ってはなんだが……何かあれば話くらい聞いてやるぞ」

 担任はそう言いながら、小さく息を吐く。覆っていた手をどけて教壇へ視線を向けると、少し疲れた表情を浮かべている担任の姿があった。

 大人も大人で大変だな。私はそう思う。

 そこからしばらくは文化祭の話になった。準備にノリノリな女子、若干面倒くさげな男子、それどころじゃない生徒。教室は色んな雑音の坩堝るつぼとなる。耳を塞ぎたくなるほどに混沌としている。このままだと頭がおかしくなってしまいそうだった私は音を紛らせるために、スマートフォンを開く。すると画面に一件のメッセージが。

『わりぃ、ちょっと言い訳しておいて』

 そんなメッセージがみっちゃんから届けられていた。私は首を傾げ、みっちゃんの席を覗いてみると、そこには彼女の姿はない。

「……それは嘘じゃん」

 五時限目まるまるサボるつもりかと私は呆れかえる。

 ……いや、寝てばかりの私が言えたものではないが。私はクラスメートたちが文化祭のことについて決めている間、天井を見上げ、そのまま雑音と共にゆっくりと意識を落としていった。



 それからは滞りなく、五時限目が終了し、掃除が終わり、ホームルームもすぐに終わった。私は担任が外に出た瞬間、モモのそばまで歩き。

「校門まで付き合って」

 と彼女に言う。モモはわざらしく身体を震わせ、小さく「はい……」と返す。私はその言葉を聞き、モモの手を取る。すると案の定と言うかなんと言うか、バレー部の連中が苦々しい表情を浮かべ、自分の机に八つ当たりをしているのが見えた。その姿はなんとも滑稽だ。私がモモの傍にいるだけで、何もできないなんて、とんだ臆病者……いや、卑怯者だ。

 私に手を取られた、モモは一瞬キョトンとした表情浮かべたが、すぐに私の手を握り返し、自分の学生鞄を持つ。

「…………また、助けたつもり?」

 モモは私にだけ聞こえる声で言う。私はモモの手を強く握り返し、優しく引っ張る。するとモモはいつも通りなすがまま私に引かれていく。身長差もあり、何だか姉妹のようだ。

 ……昔、音苑ねおんの手を引いて外へ飛び出したことを思い出す。あの頃は音苑も私にすごく懐いてくれて、いつも天真爛漫な笑顔で私の手に引かれていた。二人ともピアノの練習で手がぼろぼろになっていたが、そんなことも気にせず遊び続けた。

 音苑との思い出を思い出してしまった私は、ちくりと心が痛む。今はもう絶対に戻ることができない過去の話。だけどそれがたまらなく欲しくて、断ち切れなくて……。

 すると、廊下の途中、モモに握りしめられている手が、不意にきゅっと強くなる。

「顔、怖いから。目立つからやめて」

 目も合わさずに彼女は言う。

 私は小さく笑い。

「確かに、そうだね」

 と小さく返し、無理矢理口角を上げる。すると手を握られているモモが一言。

「化け物ね」

「いくら私でも泣くよ?」

「……冗談」



 モモと手を繋いで校門まで帰った日の次の週、週初め月曜日、私は学校へ向かって走りながら、スマートフォンで時刻を確認する。ある程度走り続ければ、遅刻は免れそうだ。私は学生鞄を持ち直し、アスファルトの上でローファーの音を搔き鳴らし、通学路を進む。

 今日も今日とて、ぎりぎりまで眠っていた代償だ。夏休みを含め半年近く磨き上げてきた走りと近道の選択で、みるみるうちに学校へ近づいていく。

 学校までもう距離はない。あとはあの公園の中を突っ切って、学校裏のフェンスを飛び越えるだけ。

 私が助走をつけようとしたその時、男子生徒が私の前を横切ろうとした。私はすぐに助走をやめ、男子生徒を避ける。男子生徒の小さな身体が、私の横を通過する。こっちは朝から急いでいるのに。私は後ろを振り向き、男子生徒の顔を見た時だった。

 私は息を呑み、思わず声を出してしまう。

「モ、モ……?」

 私の言葉に男子生徒……いや、モモはびくっと身体を震わせた。モモはゆっくりと気だるげに私の顔を見る。

「おはよう、飯田さん」

 私は文字通り言葉を失ってしまった。確かにモモは何回か「男の子に見える?」と言う単語を口にしていた。確かにしていた。私はそれを比喩表現だと思い込んでいた。

 しかし、目の前のモモは、男子生徒の制服……ブレザーとスラックスを身に纏い、髪の毛を整えている。本当に一瞬、ほんの一瞬だけモモのことがわからなかった。

 心の中でモモのことをわからなかった自分に毒づきながら、私はモモに近づこうとする。

 しかし。

「寄らないで」

 身体の芯から凍えてしまいそうな冷たい言葉に私は固まる。モモは私のことをじっと見つめ、右手でぎゅっと自身の左肘ひだりひじを抑えている。モモの表情はまさに無表情。彼女はぎりぎりと音がなりそうなくらい、左肘を握る。

「……そこのお手洗いに行くから、先に行って」

 モモにそう言われる。言われるが……。私は公園のベンチに座り、学生鞄をベンチの上に置く。

「待ってる」

「何故」

「待ちたいから」

「ボクは迷惑」

「じゃあ、理由を変えるねここままだとモモを……」

 私は言葉を切り、モモの顔をじっと見つめる。

「モモを殺す前に、モモが死んじゃいそうだから」

 無表情のモモに向かってそう言う。モモはほんの少しだけ息を吐き。

「……好きにして、着替えてくる」

 そう言って、男子トイレへ入っていった。学生鞄に女子用の制服でも入っているのだろうか。しかしうちの学生鞄はそんなに大きくなかった気がするが。

 五分も経過しないうちに、モモは男子トイレから出てくる。その姿はいつも通りの、学校で見るモモの姿だった。モモは右手に大きなリュックサック、左手にはいつもの学生鞄を持ち、私の元へ歩いてくる。するとモモはおもむろにリュックサックを見知らぬ民家の塀の中へ投げ込み始めた。

「ちょ……」

「いつものこと、あんまり騒がないで」

「いや、これ下手したら犯罪……」

「あれを学校に持っていくのは嫌……失くしてお仕置きされるほうがまだマシ」

 彼女はそう言い、私を置いて歩き始める。私は慌ててベンチから立ち上がり、モモの後を追いかける。

「……あとでちゃんと話してね」

 私がそう言うと、モモは溜息を漏らし。小さく頷いた。



 放課後の屋上。憎らしいほど綺麗な夕陽が空に広がっている。

 しっかりとモモのことを呼びだしたから、来ないなんてことはないはずだけど。

 すると、ゆっくりと屋上の扉が開く。扉から小さな身体にゅっと屋上へ躍り出る。

「……飯田、さん」

「モモ、こっち座ろ?」

 今日はゴミ袋に家から私物のクッションを持ってきた。最近、屋上の床……コンクリートが冷たくてしょうがないので、その対策だ。

「飯田さん、ボクは」

「大丈夫。大丈夫だから」

 私はできるだけ優しく諭すように言う。そして咄嗟に自分の手首の包帯を巻きなおす。今朝の態度を見るに、モモもあまり話したくない話題なのかもしれない。

 でも……。

「ちゃんと、殺す相手のことを、モモのことを知りたい」

 私ははっきりと言う。モモは……。

「はぁ……飯田さんって、本当に……」

 彼女はそう言うと、私の隣に座り始める。私はそんなモモに向かって。あるものを取り出す。

「りんごジュース、いる?」

「いらない」

「そっか」

 紙パックのりんごジュースを差し出そうとしたのだが、光の速度で断られてしまった。

 何となく気まずい空気が流れたが、モモが覚悟を決めたのか、言葉を紡ぎ始める。

「家ではボクは男の子なんだ」

「……いやモモは女でしょ」

「家では男の子……なんだよ。母は女の子なんか望んでいなかった」

 彼女は震えながら、私に向かって言う。その瞳は酷く淀み《よどみ》呑み込まれてしまいそうだ。

「ずっと、ずーっと、ボクのことを『できそこない』って言われ続けた。ただ、女の子なだけで」

「そんな……」

 モモは自分自身の身体を抱き締めながら、途切れ途切れ言葉を続ける。

「お前は男の子だから力強くなれ、お前は男の子だからたくさん食べろ、お前は男の子だから風邪を引くな、お前は男の子だから、お前は男の子だから、お前は男の子だから……」

 呪いだ、これはあまりにも強い呪いだ。モモの呼吸が荒く浅くなり、彼女の不協和音が大きくなる。

「男の子らしくしろ、男の子らしくあれ、男の子男の子男の子男の子男の子男の子男の子男の子!!」


「ボクは……っ、ボクは!!」


「ボクは女の子なのに……っ」


 言葉にできなかった。慰めの言葉なんて出るわけもなかった。自分の音がわからなくなった。視界が揺れて色彩が歪み、目の前のモモが消えてしまいそうで、気が付けば私は……モモを抱き締めていた。

 私に抱き締められたモモの音が揺れる。

 思わず抱き締めてしまったため、モモに拒絶されるかと思った。突き飛ばされても文句なんて言えるわけがなかった。しかしいつまで経ってもモモから拒絶されることはなかった。

 そしてモモの音が雑音まみれになって、ぐちゃぐちゃになって、少しずつ落ち着いていく。

「……モモ?」

「…………忘れて」

「やだ」

「飯田さんって……本当に酷い人ね」

 モモはそう言いながら、私の胸に顔を埋める。そして何事かをつぶやく。顔が埋まっていたため、音が外に出ることはなかったが、声帯の振動で何を言っているか、わかってしまった。

 彼女は。

『ありがとう』

 と言ったんだ。



「『オトコノコ』に変えるための実験をするのは構わないけど、なるべく身体に影響が出ない範囲でやって欲しい」

 落ち着きを取り戻したモモが、唐突にそんなことを言い始める。私は紙パックのりんごジュースをすすりながら、首を傾げる。モモが何を言っているのか、よくわからなかった。そんな首を傾げる私を見てか、モモは屋上の床から立ち上がり、カーディガンとワイシャツを同時にたくし上げる。屋上で誰も居ないとは言え、急な行動に私は慌て、鼻の中にりんごジュースが入ってしまった。

「ん゛っほっ!?」

「大丈夫?」

「モモっ!? 何して……ッ」

「何してる? って飯田さんに肌を見せようとしているだけだけど?」

「何で!?」

「何で? 肌を見せるためには、着衣をたくし上げる必要がある。飯田さんが何故そんなに狼狽しているのか、ボクにはわからない。同性だし良いじゃない」

「同性でもやって良いことと悪いことがあるでしょ!? 心臓に悪いよ!!」

 私はせながら、モモにそう抗議をする。しかし、モモはよくわからないらしく、首を傾げている。そして、噎せている私に構わず服をたくし上げた。

「ちょ……って」

 そこにはたくさんの傷があった。体中に満遍なく、あらゆる箇所に傷が。たくし上げている範囲だと一番傷が集中していたのは、へその下辺りだろうか。理由は何となく想像できてしまうが、あまり深く想像したくはない。

「どう? 過去、ボクに接触してきた子はこれを見て、どっかに……」

 モモがそう言い終わる前に、私はお腹に手を当てる。ちょっと気になったことがあったのだ。

 私の手の平にじんわりとモモの体温が伝わってくる。

「さすがにモモでもお腹は暖かいんだね……でぇっ!?」

 目の前に星が煌めく、ごん、と言う人生であまり聞きたくない類いの音が頭のてっぺんから響く。それと共に痛みに襲われる。どうやらモモに肘鉄をもらったようだ。

「いったぁぁ!? 何するの!?」

「何するの? はこっちの台詞」

 そう言いモモはたくし上げたワイシャツとカーディガンを元に戻す。心なしか顔が赤くなっているような。

「まさか触ってくる人間がいるなんて。こんなちんちくりんの身体によく欲情できるよ」

「肌、真っ白だったね」

「足りなかった? もう一発欲しい?」

「冗談!! 冗談です!!」

 私は両腕で頭を庇う。モモはそんな私を見て、肩をすくめ、興味を失ったかのように再びフェンスの向こう側へと身体を向けてしまった。私は頭のてっぺんをさすりながら、モモに。

「母親に身体、いじられてるの?」

 と問う。すると、モモはフェンスの向こう側を見ながら。

「毎晩毎晩飽きもせずボクを『オトコノコ』にしようと躍起になっているよ。一生懸命なのは良いことだけど、自然の摂理に反することはなるべくならやめて欲しい」

 彼女はそう言うと、フェンスに手を掛ける。またフェンスの向こう側を見ているようだ。

「ボクは生まれてこないほうが、良かったのかな」

 モモのそんな疑問に私は答えることができなかった。

 私もずっとずっと抱えてきた疑問。自分への解答も持ち合わせていないのに、答えられるわけがなかった。その代わり、私はモモの左手を両手で包む。冷たい、冷たい指先と微かに体温を感じる手の甲。モモはちらりと私を見たが、すぐにフェンスの向こう側に目線を戻してしまう。

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