たべられない

 楽譜に音を描き、モモの音を再現する。そんな中、モモとは違う雑音が耳に入る。私は鉛筆をそっと机の上に置き、電灯以外何もない天井を見上げる。すると、扉と壁の向こう側から雑音が微かに聞こえてくる。

『お前なんか産まなきゃ良かった。こんな窃盗なんて……!』

『誰がお前に産んでほしいって言った!? 勝手に子づくりして、勝手に産んで! 勝手に貧乏になってただけじゃん!!』

 最悪だ。あまり聞きたくないタイプの雑音だ。私は鼻から目一杯息を吐き、できるだけ遠くへ離れ、左右の耳を人差し指で塞ぐ。モモの音にこんな音を混ぜ込んではいけない。

 許されるのであれば、耳栓が欲しいくらいだ。

 早く去ってくれ、早く落ち着いてくれ。

 私とモモの思い出に雑音を入れないで。


 ◇ ◇ ◇


「ねーねー、飯田ー」

 授業と授業の合間の休み時間、私が机の上でウトウトしていると、クラスメートの一人に肩を揺すられる。睡眠を邪魔され、若干むかついたが、クラスメートの金髪と顔を見て、すぐに怒りを引っ込める。

「何? みっちゃん、私、寝てたんだけど」

「休み時間、いつも寝てんじゃん。そんでさ、江藤のこと知ってる?」

「江藤?」

 バレー部の連中に、仲間はずれにされていることは知っているが、それ以外のことは全くと言っても良いほど知らない。私は肩をすくめ。

「全然知らない。バレー部にはぶられてることくらいしか?」

「あぁ、それ、知ってたんだ。それがさー、結構えげつないことになっててさ」

 そう言い彼女は右手に持っていたスマートフォンを私に見せてくる。

「またヒビ増えた?」

「また顔面スライディングしちゃってさ……じゃ、なくて。見てよこれ」

「直視したくないから、おちょくったのに」

 私はため息をつきながら、彼女のバキバキになっているスマートフォンの液晶を見る。そこには……。

「枕だの、パパ活だの、病気持ちだのすんごくね?」

 そんなみっちゃんの言葉に私は頬杖をつき。

「根も葉もない噂が広がるなんていつものことじゃん」

「飯田が言うと説得力あるー」

「うるっさい」

 私はそう言いながら、ざらざらとする画面をなぞり、スクロールさせる。

「今まで味方だったやつらが全員敵に回ったみたいでさ、えぐいのなんのって。女ってこえー」

「いや、みっちゃんも女でしょ」

「てへぺろ」

 みっちゃんはわざとらしく舌を出しながら、スマートフォンの画面を消す。

「いつウチらに飛び火するかわっかんないから忠告したといたって感じ」

「そりゃどうもありがとうございます」

「あ、また寝るつもりか!」

「こらワイシャツを引っ張るなっ」

 みっちゃんとじゃれ合っていると、休み時間は過ぎていく。すると突然、教壇側の扉が勢いよく開く。扉が開く際に大きな音が鳴ったため、教室が静寂に包まれる。扉のところに居たのは、先程まで噂をしていた江藤であり、瞼を真っ赤に腫らし、何やら頭……前髪を隠している。

 ……過去に私はあの動作をしたことがある。あれはもしかして。

「誰か江藤のカーディガン取って」

 私はそうクラスメートに言う。彼女の席近くに居た女子が、江藤が普段から着ているネイビーのカーディガンを私に投げる。私はそのカーディガンを江藤の頭にかぶせる。

「ほら散った散った。女子の泣き顔がそんなにみたいか男子」

 私は手で人を追い払いながら、江藤の背中を軽く押す。江藤はしゃっくりをあげながら、自席に戻る。

「飯田? あれって……」

 私に江藤の現状を聞かせてきたみっちゃんがそっと私に耳打ちする。私は深いため息を漏らし。

「前髪、やられたね。犯人はわからないけど」

「やられた……って、まさか」

「私も母親にやられたことあるけど、あれマジで恥ずかしいんだよね」

「うっわぁ」

 みっちゃんはドン引きしているようだ……無理もないが。

 私が耳を澄ませ、雑音をより分けていると、距離は開いているが、廊下からゲラゲラと笑い声と共にちゃき……ちゃきと金属を擦る音が聞こえてくる。この音はおそらくハサミ。しかも噛み合わせが極端に悪い音がするから、散髪用のハサミでは決してないだろう。前髪を切られた江藤は机の上に突っ伏したまま、時折震えるだけで、何も言わない。

 もうすぐ、休み時間も終わる。先生が来たら面倒なことになりそうだな……そんなことを考えながら私は自分の席につき、手首の包帯を締め直す。



 案の定と言えば良いか、次の授業に来た教師が、江藤のカーディガンを剥ぎ取り、前髪をクラス全体に大公開からの江藤大号泣と言った地獄絵図が広がった。私は辟易としながら、予想外の事態に戸惑っている五十台の女性教師とクラス全体を観察し、音を聞く。それぞれが憶測を飛ばし合い、可哀想だのなんだのと同情の声を上げている。その中に、微かに嘲るような声も含まれているのも感じた。身から出たさび……と言うには少々厳しすぎるさびだが、普段から好まれていなかった人間だ、仕方がないことなのだろう。

「飯田! あなたがやったんでしょ!」

「いや、なんでですか」

 唐突に私へ言いがかりをつけてきた教師の言葉をかわしながら、クラスを観察し続ける。

「あなたくらいしかこんなことする不良はいないでしょう!?」

「不良でもやっちゃ駄目なことくらいわかりますよ……? しかも場合によっては傷害罪になりますよねこれ。先生こそ、真面目に原因追及しないと、江藤の親御さんに文句をつけられても言い返せなくなりますよ?」

 私はそう言いながら、女教師を睨みつける。すると、女教師はしどろもどろになり。

「そ、それは担任の仕事でしょう?」

 と間抜けなことを言っている。私は手をフリフリと振りながら、女教師を見続け。

「ともかく、私ではないです。いくらなんでも陰湿すぎる。性格悪いですよ」

 私がそう言った瞬間、小さく舌打ちが聞こえてきた。わざと……ではなく、思わず漏らしてしまって感じだ。私は聞こえてきた方角と、反響具合を計算し、教室の一番廊下側の生徒が舌打ちをしたと判断する。

 確かあいつは……。

「バレー部で何かいざこざあったみたいですし、それじゃないですか?」

 私はにっこりと笑いながら、女教師にそう言ってやった。



 放課後。私は大きな欠伸をしながら、廊下を歩いていた。先程まで保健室で寝ていたのだが、保健の先生に「いい加減に起きろ」と言われてしまい、泣く泣く私は学生鞄を取るために、自分の教室へと帰ろうとしていた。

 中身はほぼ空っぽだし、貴重品は私の上着やスカートのポケットの中に全て入っているため、置いて帰っても別に構わないのだが……登校時に先生とばったり出会ってしまうと注意を受けてしまうため、持ち帰らざるを得ない。普段お利口にしていないシワ寄せがこういうところに出てきてしまうのだ。

 何回も何回も湧いて出てくる欠伸を噛みつぶしながら私は自分の教室に向かう。途中、校舎で部活練習している生徒とすれ違う。野球部、バドミントン部、柔道部など。随分前にクラスメートから聞いたことがあるが、外で練習する日と、校舎内で筋トレをする日があるらしい。今日はその筋トレの日なのだろう。きゅっ、きゅっ、と言う室内用の運動靴の地面に擦れる音があちこちから聞こえてくる。甲高い音だが、私は別に嫌いじゃない。

 そんな音を聞きながら、教室に向かっていると、教室の中から何やら別種の音が聞こえてくる。微かな声の震えと、複数人の嘲る声。

「また?」

 思わず私はそう言葉を零してしまう。ついでにため息も零れてしまう。おそらくだが、また私は『いじめの現場』に遭遇してしまいそうだ。いくらなんでも不運がすぎる。

 陰鬱な気分のまま私は教室へと向かう。すると、そこには……。くせっ毛で背の小さい女子が女生徒たちに囲まれている。

「また蔵本?」

「い、飯田さん?」

 そこに居たのは、おどおどと怯えているフリをしている蔵本とバレー部の連中数名。もちろん、江藤の姿はここにはない。なんで江藤がいないのに、この子はいじめられているんだ? 私は疑問に思いながらも教室を突っ切り、自席に置きっぱなしだった学生鞄を取る。

「……飯田」

 バレー部の一人が苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべながら私のことを睨んでいる。

 誰かに見つかるのが嫌だったら、もっと場所を考えてほしい。

 そんなことを思いながら帰ろうとする……蔵本を連れて。

「飯田さん!? 何で、運んでっ」

「本当にすごい変わりようだね……ともかく、こんな連中とつるんでちゃ、目立ってしかたがないよ」

 私はそう言い、先日と同じように彼女を小脇に抱えて歩く。相変わらず不安に駆られるくらい軽い。そのまま教室の外へと行こうとしたが、バレー部連中に行く手を遮られる。

「ま、待てって! 何してるんだよ!」

「何している……ってそれは私の台詞なんだけど」

「それは……こいつが余計なことを言わないように」

「余計なこと言わないように? 口止めのためにわざわざ複数人で寄ってたかって?」

 自分の声が少し低くなるのを感じた。

「とりあえず、蔵本は私が引き取るから。蔵本の鞄はこれ? これだね」

 手短にそう言い、蔵本を教室の外へ運び出す。肩を掴まれたり、邪魔されるかなとも思っていたが、そんなこともなくあっさりと外に出ることができた。

 すると。

「また余計なことを」

 腰元からそんな不満げな声が聞こえてくる。目線を向けると、そこには不満げな表情の蔵本が私を凝視している。

「……あいつらは蔵本を殺す度胸なんてないよ」

「親を殺せば……」

「だからそれはやめろっ」

 私は抱えていた腕で蔵本を揺らす。するとすぐに「冗談」と腰元から声が聞こえる。蔵本は私の腕から猫のようにするりと抜け出し、地面に降りる。そして私に見せつけるように首をぐりぐりと動かす。

「むち打ちになったらどうするの」

「蔵本が変なことを言うから」

「そう?」

 蔵本は悪びれることなく大きく上へ上へと伸びをし、手を差し出す。

「鞄」

「はい」

 私は持っていた鞄の一つを渡す。蔵本はそれを受け取ると、深いため息を漏らしながら。

「ボクは帰る」

 そう言ってスタスタと歩き始める。引き留めようとも思ったが、引き留める理由なんてなく、私は。

「また明日」

 と声を掛ける。すると、蔵本は気怠そうに肩の横でひらひらと手を振った。私は蔵本を送り届けると、手首の包帯を巻き直し、今日の時間つぶしのことを考え始めた。

 今日はどこを歩こうか。



 次の日。遅刻ぎりぎりで滑り込んだ私に金髪のクラスメート……みっちゃんが紙飛行機をぶつけてくる。朝っぱらから随分なご挨拶だと文句を言おうとしたが、ホームルームが始まってしまったため、口をつぐみ、紙飛行機を拾う。どうやら、メッセージが書かれているらしい。みっちゃんが担任の目を盗んでは、私に紙飛行機を開けとジェスチャーで知らせてくる。私は誰にも聞こえないようにため息を漏らしながら、紙飛行機を開く。そこには。

『江藤。部活辞めたってよ』

 と丸っこい文字で書かれていた。私はそれを読むなり、紙をぐしゃぐしゃにする。その直後、担任から。

「あと、江藤は今日休みだそうだ。風邪を引いたとのことだ」

 担任がそう言った直後、教室の中から小さく嘲笑が聞こえた。そんな嘲笑を聞き取ったのか定かではないが、担任が言葉を続ける。

「ま、風邪よりも厄介なものにかかっているみたいだから、色々と調査させてもらうけどな、例えば……人間関係、とか」

 いつも怖い先生がさらに怖く見える。頼もしいやら、恐ろしいやら。耳を澄ませると、小さく浅く呼吸を繰り返す音が聞こえてくる。突然の展開に驚いたのだろう。

 今度は江藤の前髪を切った実行犯でも生贄に捧げられるのだろうか。私は担任から目線を外し、窓の外を見る。

 今日も忌々しいくらいに晴れ渡った空だった。



 昼休み。授業が終わり、売店へ向かう者、弁当を広げる者、机と椅子を動かす者。様々な人間がごちゃごちゃと動いている時に、私は鞄をひっつかみ、歩き始める。向かった先は、私の一つ右列、前から三番目の席。

「蔵本。飯食べよう」

「え……?」

 そう蔵本に声を掛け、そのまま持ち上げて拉致する。みっちゃんは大笑いし、他のクラスメイトは唖然としている。当事者である蔵本は教室の中では慌てたような表情を浮かべていたが、廊下に出るなり感情を落とし、不機嫌そうな声を発する。

「……弁当なんだけど」

「え、マジ?」

「…………」

 私は再び教室に帰り、蔵本の鞄を手に取る、蔵本を抱えたまま。

「あっはっはっはっ!! 米俵かよ……ッ、めっちゃおもろいんだけど……ぶっ、ははははっ!!」

 みっちゃんがげらげらとピアスを揺らしながら大笑いしている。

「マスコットだよマスコット」

「蔵本も抵抗しろよー……くふっ、あっははははは!!」

 そんなみっちゃんの言葉を流し私は蔵本と鞄を持ち、屋上へと向かう。道中抱えられている蔵本から。「無神経」やら「意味不明」やら言われたが、無視することにする。

 相変わらず鍵が解錠されている屋上への扉を開き、屋上で蔵本を下ろす。蔵本は器用に着地をし、不機嫌そうに伸びをする。

「……急になに?」

「蔵本とご飯食べたかった」

「じゃあ教室で食べれば良い」

「それだと蔵本猫被るじゃん」

「だからって……ああ、もういいや頭痛い」

 蔵本はそう言い、私が持っていた蔵本の鞄からやたらとごつい縦長の二段弁当を取り出す。

 ……蔵本がこれを?

「めっちゃ食べるじゃん」

「朝ご飯を抜いて、中身を捨ててぎりぎりだけど、何とか食べてる」

「……え?」

 蔵本はため息をついて弁当を開く。中身は一段目には目一杯詰まった白米、二段目には生姜焼きにからあげにウインナーソテーと申し訳の程度のブロッコリー。言うなれば肉中心の茶色い弁当。何というか。

「男の子っぽい弁当、だね」

「そう見える? なら良かった」

 良かった?

 蔵本の言っている意味は理解できなかったが、私はうなずく他なかった。私は自分の鞄の中から四時限目前に学校から抜け出し、コンビニで買ったタマゴサンドの封を開く。蔵本はと言うと、苦しそうな顔でからあげを口に含んでいる。

 もしかして。

「蔵本、無理矢理食べてる?」

「そう見える? それは良くない」

 彼女はそう言いながら、ご飯を頬張っている。

 私は……。

「からあげもらい」

「ん」

 私は蔵本の弁当の大半を占めているからあげを口の中に放り込む。何回か食べたことのある冷凍食品のからあげの味が口の中に広がる。特段まずいわけではないが。この量を毎食食べるのは相当辛い。

「生姜焼きももらい。蔵本、私のサラダ食べる? ドレッシングないけど」

「良いの?」

「交換ってやつ。交換」

「……わかった」

 私は手持ちの昼ご飯を蔵本に渡しながら、蔵本の弁当を摘まんでいく。一番食べるのがきつそうだった肉類を半分以上平らげ、白米も少しだけもらう。

「蔵本って白米だけでもいけるの?」

「お米って甘いから大丈夫」

「甘い、甘いか、そっか」

 大体二十分くらいだろうか、そこそこ時間を掛けて弁当を平らげる。私はお腹をさすり、小さくしゃっくりを上げる。普通にお腹がいっぱいだ。

「いつも戻しているから、助かる」

 蔵本はそう言い、弁当を鞄の中に戻す……って。

「戻してる?」

「吐いてるって言った方が適切?」

「吐い……っ!?」

 おかしいなとは思っていた。こんなに大量の弁当を食べているはずなのに、見た目はがりがりに痩せていて、簡単に持ち上げられるくらい軽い。何か魔法でも使っているのかと思っていたけれど。

「胃袋が小さいのって不便で、なかなか入っていかない」

「入っていかないって……減らしてもらえるように母親には言えないの?」

 私がそう問うと、彼女は自嘲気味に笑い。

「許してくれないよ。お母さんは」

 そう返した。

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