ころせない
私は目を覚ます。
目の前に広がる風景は最近なんとなく慣れてきた灰色の天井。
汗ばんだ手には
震える手足を抑え込みながら、私は簡易ベッドから身体を降ろし、備え付けの机に向かう。机の上には楽譜と鉛筆があるはず。私の中で渦巻く悲鳴を早く書き写してしまいたかった。薄暗い部屋に見えるはずのない景色が見える。本当は享受したかった幸せが色鮮やかに広がる。
「甘えるな」
私は薄暗い部屋の中でそう呟く。景色は瞬く間に消え去り、冷たい灰色に戻る。私は書き写し続けなければならない。私は救われてはいけない。
モモの……ために。
◇ ◇ ◇
学校の帰り。
午後六時。外はすっかり暗くなり、街頭がぱち、ぱちと音を奏でながら点灯する頃。私は家の玄関を開けていた。随分と油を差していないせいか、ぎぃぎぃと古い弦のような音が玄関に響く。家の中からはピアノの音色が響いており、妹が必死に課題曲を演奏していることが窺える。頑張り屋の妹だ、あの分だと夜中まで弾いているだろう。私はそんな規則正しい機械のような精巧で精密な旋律を聴きながら、三階にある自室へ向かって歩き出す。旋律を音符に変え、頭の中で小節を切り分けながら、滑り止めのゴムを踏みしめ階段をゆっくりと上がる。いつもならスリッパを履いているが、妹の演奏を邪魔したくはない。靴下のままで階段を上がる。二階、三階と、上っていくと突然、ピアノの音が止まり、メトロノームの規則正しい音だけが階段を伝って私の耳に響く。
休憩か?
そう考えていると、突然、バタン、と大きな音を立つ。恐らくドアの音であり、材質と反響的にピアノ室……先程まで妹が演奏していた部屋のドアだ。私は気にもせず、自室に向かって歩いていると、突然階段の下から。
「ただいまくらい、言いなよ」
そんな不機嫌な妹の声が階段の段差を這ってくる。どうやらスリッパの有無で帰宅を判断されたらしい。私は頬を掻き、しばらく考えたが、そのまま自室へ行くことにした。
妹の邪魔はしたくないから。
すると、また不機嫌そうにドアを閉まる音が家中に響く。ここ最近はストレスが溜まっているのか、妹……
「出来の悪い姉が邪魔、か」
私は独り言を零しながら、荷物をベッドの上に下ろす。学生鞄を開き、中身を確認する。すると、そこには……。
「げ、学級日誌」
提出を忘れた学級日誌が鎮座していた。
夜、午後七時。いつも通りスマートフォンで動画を再生してると。
『お姉ちゃん、ご飯』
ドアの向こう側からそんな音苑の声が聞こえてきた。私は、スマートフォンを置き。
「わかった」
とだけ返す。家族団欒の時間だが、憂鬱で仕方がない。きっと今日も私の悪口を言うパーティー会場と化すだろう。
私は嫌々ながらベッドから起き上がり、自室からダイニングへと移動する。その移動の間、壁や棚から嫌と言うほど妹が取得した賞を見せつけられる。賞状からトロフィーまで色々と。もちろん、私のものはない。遠い過去に賞を取ったことはあるが、両親にとっては価値のないものだったのだろう。
ダイニングに到着し、私は自分の席につく。そこにはぐっしゃぐしゃになった晩ご飯が。十中八九母親の仕業だろう。父親は知らんぷりしているし、母親はにっこりと妹に微笑んでいる。微笑まれている妹は下唇を噛んでいる。
「今日はチキン南蛮よ」
母親はそう言う。あぁ、これチキン南蛮か。私は気にもせずに手を合わせる。
食事中は母親がひたすら妹を褒めちぎり、妹は非常に居心地が悪そうな顔をし、父親は無視を決め込む。これが日常であり、私にとってはただの苦痛な時間だった。
「音苑ちゃんはね、今日も先生に褒められたんですよ? まるでメトロノームのように正確ですって!! 誰かさんとは違ってね」
妹のことを褒めるたびに、一言私の文句を言う。通例ではあるが、何度聞いても心地良いものではない。
両親にとって、成功例は妹であり、私は失敗作なのだ。
私はただ黙って、ぐしゃぐしゃになっているチキン南蛮だったものを食べ続ける。気をつけて食べないとたまに生ゴミとか混じっているから、自力で見つけて避けないと。今日は卵の殻が付け合せで入っていた。カルシウムを摂れってことかな。
「音苑ちゃん、美味しい?」
「……うん」
妹は美味しいと言いつつも、まるで砂を噛みしめているような表情を浮かべている。他人の悪口を聞きながら食べる食事は美味しくないだろう。いつも通り心の中で妹に謝罪しながら私はご飯を食べ進める。
途中で生っぽい場所があったが、まぁ、お腹を下す程度で済むだろう。
そんなことを考えながら。
次の日。
私は息を切らしながら廊下を走っていた。私はとても朝が弱く、何度も何度も眠ってしまうため、学校に登校する時間がギリギリになりやすい。昔は妹が私のことを叩き起こしてくれたのだが、仲が悪くなってからは自力で起きなくてはならなくなり、毎日遅刻か、ぎりぎり到着かの二択になっていた。
急いで教室に飛び込むと、そこには担任の女性教諭が。私の姿を見るなり、出席簿をトントンと片手で叩き。
「飯田、また遅刻すれすれか?」
とため息混じりで言う。
「遅刻してないのでセーフでしょ、セーフセーフ」
「できることなら遅刻すれすれをやめて欲しいんだがな……あとお前、昨日の学級日誌の提出忘れただろ」
「うん。ちゃんと書いたのに、普通に忘れてた」
「お前な……」
担任は額に手をあてながら再びため息をつく。その直後、学校全体にチャイムが鳴り響く。どうやら、本当にギリギリだったみたいだ。
「席につけー。ホームルーム始めるぞー」
先生の鶴の一声で、教室に散らばっていたクラスメートたちは各々自分の席に座る。私も他の生徒に倣って、自席に座る。窓際の一番後ろ。窓は全開であり、涼しい風が私の顔を撫でる。外では鳥たちが、なにやら輪唱をしている。
仲間を探しているのか。ただ単に唄っているだけか。
外の景気をみながらそんなことを考えていると。
「飯田ー、先生の話聞いてるかー?」
そんな担任の声が聞こえてくる。私は前を向き、ふんすとわざとらしく鼻を鳴らし。
「文化祭。演劇。配役。決める」
と言う。
すると、担任はため息を吐き。
「お前、ほんと聞いているんだか聞いていないんだかわかんねぇな」
と言われてしまう。
なんとも失礼な話だが、窓の外を見ていた私にも非はある。私は椅子の背もたれに重心を掛けながら教室を見渡す。
くすくすと笑っている者。私に乗じて馬鹿な冗談を言う者。俯いている者。私を射貫くように見つめている者……ん?
私は、もう一度教室を見渡す。すると、私の一個右の列、前から三番目の女子が私のことをじっと見つめていることに気がつく。それは……。
「蔵本……?」
思わず私は小さな声を漏らしてしまった。その言葉に担任が敏感に反応する。
「何だ飯田?」
担任の声に私は咄嗟に言葉を返す。
「ごめん、先生。昼飯の願望が出た」
「なんだよそれ」
教室が笑いに包まれる。そんな中、蔵本は一笑もせず、前を向いてしまった。それからホームルームはつつがなく進行していった。私は一応話を聞くフリをしながらも、蔵本のことばかり見つめていた。今までは気にもかけていなかったのに、何故か目線がそっちに行ってしまうのだ。
ホームルームが終わり、一時限目の音楽の授業。憂鬱で仕方がないが、移動教室をサボるとあとが面倒なのは一年前に思い知っている。私は教科書と筆記用具を持ち、移動をしようとする。ちらりと蔵本の席を確認すると、すでに移動してしまっているのか、蔵本の姿はなかった。
「飯田ー! どしたんー?」
そんな友達の声が聞こえてくる。私は何事もなかったかのように歩き始める。
「何でもない」
笑顔を貼り付け廊下へ向かう。理由はわからないが、どうやら私は蔵本のことが気になって仕方がないようだ。私が他人に興味を示すなんて、どれくらいぶりだろうか。私は雑音を観察しながら、教室を出ようとした、その時だった。
「飯田」
酷く、か細い声が私の耳に入り、カーディガンの裾を引っ張られる。何事かと振り返ると、そこには憔悴しきった表情の江藤の姿があった。いつもならばっちり決めているメイクはどこへやら、ほぼすっぴんであり、泣き明かしたのか、瞼が真っ赤に腫れ上がっている。
面倒くさそうだな……。
私は髪の毛をいじり、無視を決め込もうとした、しかし江藤はカーディガンの裾を離してくれなかった。
「飯田、ねぇ、話した?」
「何を?」
「何を……って」
いつもなら高圧的な態度を取る、江藤がもじもじと身体を縮ませている。
「昨日の、放課後の、こと」
だと思った。私はわざとらしく大きなため息を吐く。とっくに興味を失っていることだ。本当にどうでも良い。
「さぁ。あと一日も経てばわかるんじゃない?」
私は冷たく言い放ち、江藤の手を振り払う。彼女は今まで自分がやってきたツケを払うときが来ただけだ。それに、昨日のバレー部の様子を見るに、仲間に見捨てられるのも時間の問題だっただろう。後ろからはすすり泣く声が聞こえてきた。同情でも誘おうとしているのだろうか。
悲しいことに、今の江藤には、味方はいなかった。
音楽の授業は今日も酷く退屈なものだった。
クラスで合唱をしようと音楽の先生が言い始め、私は辟易としていた。全員強制参加のイベントは本当に面倒くさい。友情が深まるとか、協調性が身につくとか色々と言い訳を並べられるが、私みたいなはぐれものにとっては最悪のイベントでしかない。
音楽の担当教諭が何度も私のことを見ていたので、私のせいで合唱をする羽目になったのだろう。
不良差別反対。
そんな音楽の授業が終わり、次の時間は自分の教室で数学の授業。サボりたいところだが、数学の先生はとても厳しい人……と言うか、生活指導の先生であり、これまた逆らうと後が本当に面倒くさい。私はおとなしく授業を受ける。
「飯田……お前、ピアス取れって言っただろ」
「そうですね」
……服装のことについて何か言われるのはまぁ、仕方ないか。
蔵本は前を向いており、ノートを取っているみたいだが……何か、板書に比べて、筆を動かす量が多いような。しかしここから蔵本の手元は見えるわけもなく、真実のほどはわからなかった。
次は英語の授業。先生の言葉を流しながら、時間を過ごす。じっと蔵本を見つめているが、やはり変わったところはない。途中で記憶が途絶えているため、たぶん私は眠ってしまったのだろう。
その次は現代国語の授業。面倒くさいことに、順番に教科書の朗読をする時間となった。教科書は全てロッカーに放り込んでいるため、教科書忘れで困ることはないが、朗読するのが普通に面倒くさい。教室の右端から順番で段落ごとに区切って読み上げる。そして蔵本の番……かと思いきや。
「次ー。鈴木」
と、蔵本がすっ飛ばされたのだ。私は目を丸くして周りを見たが、誰も気にしていないみたいだ。蔵本は相変わらず前を向いて、手元を動かしている。ノートを取っているのか、何か内職をしているのか、それを知る術はなかった。
そして迎えた昼休み、私は蔵本のことをじっと見つめていた。単純にどこでどう過ごしているのか気になったのだ。すると蔵本はふらっと教室の外へと出て行ってしまった。私は慌てて立ち上がり、蔵本の後を追いかける。身長が低いせいもあってか、すぐに見失いそうになる。けれど、何とか他の生徒をかき分け。蔵本の後を追いかける。普段使う教室が集まっている棟を抜け、部活や移動教室で使う棟へと移った。そこまで来ると、生徒たちの姿は少なくなり、蔵本を追いかけやすくなる。私は見失わないように蔵本を追いかけ続ける。そして唐突に蔵本が階段を上り始めた。確かこの先は……。
「何もない、よね?」
私の記憶が正しければ、この先は何もないはずだ。今は使われていない机や椅子が積み上がっていたと思う。私は蔵本を追いかけ、階段を上がる。階段を上がって上がって……屋上へと続く踊り場に差し掛かった、するとそこに蔵本はいなかった。忽然と姿を眩ませたのだ。
「……あれ?」
私は踊り場を探し回ってみるが、そこには蔵本の姿はない。机や椅子の影に隠れているわけでもないようだ。私は首を傾げ、周りを観察する。ここ以外に行ける場所なんて……。
「まさか」
私は屋上への扉に目を向ける。屋上は原則、生徒は進入禁止である。その証に南京錠が……。
「解錠されてる」
解錠され、ぶら下がっていた。つまり、蔵本は。
妙な興奮を覚えながら、私は屋上への扉を開く。いきなり明るくなり、私は思わず目を細める。
屋上は高いフェンスに囲まれていて、簡単に落ちないようになっている。地面には雑草が生え、排水のための溝は苔むしており、普段ここに人が訪れないことを示している。そんな屋上のフェンス付近に蔵本は居た。
「屋上に侵入とか、悪いなぁ」
私がそう言うと、蔵本は驚く様子も見せずに、フェンスに身体を預ける。
「学校のセキュリティの穴をついたまで」
そう言い、私のことを無感情に見る。私は音を立てないようにゆっくりと屋上の扉を閉め、屋上を歩く。普段、訪れることない場所に少々興奮を覚える。
「へぇ、ここってこんな高いんだね」
「そうね」
蔵本は興味なさそうに、フェンスの向こう側を見る。まるでそこへ行きたいかのように。
「……向こう側へ行きたいの?」
「そうね。行きたい」
「行かないの?」
私はそう尋ねると、蔵本は振り返り、私の目を見る。その瞳はとてつもなく淀んでいて、一切の光が見えない。何というか、生気を感じないのだ。
「行きたくても行けない。自殺しようとしても、ボクは止まってしまう」
蔵本はそう言い、再びフェンスに身体を預ける。
「呪い、かな。母親のことを考えると自殺できないんだ。どうしても踏みとどまってしまう」
目を見開き、蔵本は続ける。
「こんなにも母さんが大嫌いなのに、母さんに縛られているんだ。命さえも」
そして、目線を上げ、私の瞳を見る。
「ねぇ、飯田さん。ボクのことを殺してくれる?」
と問う。
私は……。
「馬鹿なこと言わないでよ。殺せるわけがない」
と返す。
すると、蔵本は。
「そう」
と言い、再びフェンスの方を向いてしまう。まるで連れて行って欲しいと言わんばかりに。普段の私であれば、彼女を放っておいて、どこかに行ってしまうだろう。しかし、昨日の、妹との……音苑とのいざこざがあったせいか、私は放っておくことができずに再び蔵本へ声を掛ける。
「蔵本の側に居ても良い?」
と言ってしまっていた。この言葉には私自身が驚いていた。
「何故?」
彼女は当然の疑問を口にし、振り返る。本当に不思議そうな表情を浮かべている。私は……。
「何か、蔵本から不思議な音がする」
と返す。
すると蔵本は不思議そうな顔したまま、首をひねる。嘘をついているつもりはない。蔵本からは他の人からは感じない音が聞こえてくるのだ。
「不思議な音? まさかボクが体内で歯車を回す機械とでも?」
「それはそれでびっくりするけども」
私は自分自身の感情をうまく説明できる言葉を探す。しかしうまくいかない。言葉が浮かび上がらないのだ。
「とにかく、蔵本と一緒に居たい」
「ボクは嫌だ」
「そこを何とか」
「嫌」
今度は心底嫌そうな表情を浮かべる。しかし私は。
「蔵本が死ぬまでで良いから」
「それは、実質一生でしょう?」
「それはそうだけど」
私は言葉に迷い、目線をあちこちに向ける。
そして。
「じゃあ、私が蔵本のことを、
いつの間にか、そう言っていた。
私の言葉に蔵本は顔を上げ、薄くだが驚いたような表情を浮かべていた。
「本当?」
「今すぐは無理だけれど。いつか、必ず」
「……そう」
彼女はそう言うと、またフェンスの向こう側へと視線を戻してしまう。私は蔵本に近づき、くせっ毛をかき分けて首を晒す。そこには白く、細い首が見える。私の力でもポキっと折れてしまいそうだ。
「絞めたらすぐに死んじゃいそうだね」
「絞めてくれる?」
「まだ」
私はそう言い、髪の毛を元に戻した。すると蔵本は。
「なるべく早く殺して」
と零した。
◇ ◇ ◇
雑音を五線譜に書き起こしながら、私は窓を見る。外に広がるのは雲一つない真っ青な空。私は芯が少なくなり、徐々に書けなくなってきた鉛筆を回しながら、雑音を吐き出す。すると、こんこんと扉がノックされる。そして、数秒後に扉が開き、女看守がトレーを持ってきてくれる。朝ご飯だ。
「ありがとうございます」
私はそう言い、鉛筆をそっと机の上に置く。そして。
「……鉛筆、削ってくれませんか?」
と看守に言う。すると、看守は。
「わかった。朝ご飯を配り終えたら、また来る」
そう言い、外に行ってしまった。看守も忙しいのだ、仕方がないと言えば仕方がないか。私は朝食……パン、スープ、スクランブルエッグとサラダが乗っているトレーを膝の上に乗せる。
「いただきます」
両手を合わせて食べ始める。スープを一口、味は……しない。
モモを殺してから、味覚が弱くなってしまった。味の濃い料理でも微かにしか味を感じられない。パンも粘土を食べているようで非常に食べづらい。本当に微かにバターの匂いがするが、それ以外は本当に味がしない。
食事の時間は苦痛の時間だが、頭の中の雑音を効率よく取り払うには、食事は不可欠である。
「……モモ、モモの雑音、複雑すぎるよ」
味のしないサラダを噛みしめながら、独り言を零す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます