三・複雑な事情
あの時の事を思い出しながら、ショッピングモールの一階を歩いてみる。当時、このショッピングモールがとても広く感じていた。小学生なら広く感じるものだろう。目の高さや歩幅が違うのだから。
二階に行けば、あの本屋がある。そこへ向かおうとエスカレーターに乗ると、あの時先生に掴まれた腕の痛みを思い出した。それと同時に酷い頭痛で蹲ってしまう。
「どうかしましたか?」
あの日、先生に問いかけられた言葉と、同じだ……。緊張なのか恐怖なのかわからないけど、いやな汗が背中をつたう。
「だ、大丈夫です」
「あちらのベンチに座ってください。歩けますか?」
記憶が混乱しているのか、心拍数が激しくて息苦しくなっていた。女性が手を貸そうとしてくれているのに、私はそれを払いのけて、這うようにベンチに移動し、腰掛けた。
「お水、お持ちしますね」
女性がそう言って立ち去る時、ふんわりと、あの香水に似たにおいが鼻をくすぐった。似ているというか、同じような?
「アヤメ、さん……」
✳ ✳ ✳
──あれから、四日経った。慣れなのか諦めなのかわからない。二人への質問はやめた。
私は軟禁されているようだし、どうせなら快適に過ごしたい。
私は、外から鍵をかけられた部屋を与えられていた。トイレ行きたくなれば、ドアをノックする。そうすると、アヤメさんがトイレに連れて行ってくれる。トイレの扉の前で待ってるので、羞恥心とか考えないようにした。逃げる気はなかったと思うのに。
ある日、先生が半日くらい出掛けた日があった。最初は、アヤメさんを連れて出たのに、数時間するとアヤメさんだけ帰ってきた。
不思議に思い、部屋をノックしてアヤメさんを呼んだ。
「入るね」と、声をかけてきて、ドアが開く。アヤメさんは、十四歳に見えないような大人の女性に見えた。
「そういうメイク、どこで覚えたんですか」
「あたしの好きな人が、メイクがすっごく上手でね。髪型とか服装とか、いろいろ……影響受けたかな。でも、お金なくて自分では揃えられなかったよ」
「その人のところに逃げなかったんですか?」
「その人、突然居なくなったんだよね。その後すぐに、お母さんは死んじゃって住むところなくなっちゃった」
「お父さんは?」
「居ない。一緒に居なかった。会ったことないよ。私は学校も行ってない。お母さんが買ってくれたスマホだけが、私の知る世界だったよ」
どういう事なのか、意味がわからなかった。私には、お父さん、お母さん、弟がいて、学校に通っていて、友達もいて。それが当たり前だった。
「不思議そうな顔してるね。メイク教えてくれたのは、隣に住んでたおねーさん。おねーさんが言うにはね。私は、ムコクセキだから、学校いけないんじゃない? って」
ムコクセキ?
「あはは。私が聞いた時もそんな顔してたのかな。わかんないよね。なんだそれって、なるよね」
アヤメさんは、寂しそうな顔をして笑う。
「十歳のガキに、なに、難しい話をしてんだよ」
先生が帰って来た。私は怒られるかと身構えたけど、先生は怒らなかった。
「難しくないよ。ハルちゃんは、頭いいからわかるよね?」
「えっと、私、わかんない、です」
「なんだっけ。産まれた時に、ヤクショに、届けを出してなくて、存在してるのに居ないと思われてる、みたいな? 難しくてうまく説明できなくてごめんね」
「え?」
居ないと思われてる?
うすぼんやりと、弟が産まれた時の事を思い出した。お父さんと一緒に病院に行くと、お母さんが病室で、しわくちゃな弟を抱っこしていた。
お父さんは、名前どうするとかニコニコしながら話していて、まだ届けは出さないですよとか、言ってた……よね。
弟が産まれて、私はのけものみたいに感じてた。でも、居ないと思われてるとまでは感じてなくて──。
「泣かないでよ、ハルちゃん。私は平気だから。ナツさんのおかげで、居場所出来て、今は幸せだよ」
ナツさんというのは、先生のことなんだろう。先生の名前は、石井ナツキだったかな?
涙が止まらなくて、しゃくりあげていると、アヤメさんが抱きしめてくれて、よしよししてくれた。
アヤメさんの香水のにおいが、その時初めて安心感あるものに感じた。
「ハルちゃんも、メイクしてみる?」
アヤメさんの暇つぶしとして、メイクに付き合うことにした。
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