訪問者

米山

訪問者

 私は目を閉じたままだ。

 起床という行為、またそのプロセスというものは、どこからどこまでのことを差しているのだろう。時間的観測において「今」という現在が刹那的に「過去」へと推移してしまうことと同じように、起床もまた意識下への延長線上へと延々と引き延ばされて浮上、それに伴い何処かでぷっつりと切れてしまうといったことが起こり得るのだろうか。それとも溶けたマシュマロみたいに曖昧な意識のもと生命力に満ちたこの逆輾転反側とした時間をすべてひっくるめて起床というのだろうか。もしくは起床なんてものはおろか、この微睡、この身体、この人生すら端から存在せず、すべては脳が見せている幻。なんたらの脳、最近読んだ本にそんな思考実験があったことを思い出す。昨日食ったヒレカツは美味かったな、今晩は残りのカツを使ってカレーでも食おうか。サラダでも拵えて……。遠くからスズメの声が聞こえる。

 夢の続きを見ている気がした。意識は混濁としている。

 しかし、それを補足できている時点で、私の脳は既に覚醒しているのだろう。つむじの辺りから脊髄に向かって真っすぐにトイレットペーパーの芯を差し、卵と醤油を入れて掻きまわしたような具合にふやけた感覚ではあるけれど。腹が減っている。

 まず、私の体重は六十キロある。そして、その中で最も大きな比重を占めているのが頭部だ。成人ともなればその重さは五キロを要す。身体を起こすという行為は、まずこの最大重量部の頭から振り上げる必要があるのだ。そして背中を起こし、足をベッドから降ろし、起立して、窓のカーテンを開ける。残念ながら、今の私の身体にそれだけのパワーを補うエネルギーは隅々まで点検しても見当たらない。というかそもそも、急いで起きる必要もない。何も予定はなかったはずだ。

 昨晩は窓を開けて寝ていたため、少々腹が冷えた。外から漂うしめやかな春の朝は、野に咲く小さな花を想像させる。人の歩く音と、時折甲高く鳴く鳥の声、遠くでバイクのマフラーがブウウンと震える音……。なんの匂いだか分からない湿っぽい空気は、なんとなく私の意識を幼っぽいものにさせる。懐かしい。雨が降る前には、こんな匂いがしたような気がする。静かな朝であった。

 私はだしぬけに「う~ん」と呟いて起床の機運を促す。東の窓から差し込む陽光が丁度カーテンの合間を縫って私の瞼を白く染める。私は右側の壁に向き合うように横になる。

 ちょうどその時(私の耳朶の栓はひどく緩やかなものになっていたため、何秒か認識の遅れがあったかもしれないが)玄関の戸が開く音が聞こえる。

 誰か来る予定なんてなかったと思うが……。私は心当たりを探る。鍵かけてなかったっけ?

 私の胸にじんわりと恐怖心のようなものが膨らむ。ただあくまでそれは恐怖心に似たもので、実際にはなんとなくモヤモヤとしたアナーキーな気配でしかない。私の大脳新皮質は未だグルグルと回遊魚のように形を成していないらしい。自分が今恐怖を抱いているのかどうかすら分からないというのは恐ろしいことだなあ、と思う。

 頭の駆動係数を意識的に、ゆっくりと上げていく。

 泥棒か何か、犯罪性を帯びた客人である可能性は低いだろうと思う。まるで仕事終わりに帰ってきた時のような気の抜けた扉の開き方だったし、足音だって憚ることのない堂々としたものだ。私に気がつかれても何ら問題のない姿勢、むしろ私を起こしに来たかのような大胆さ。今日の予定は本当になかったっけ? ない。それにわざわざ一人暮らしをする大学生の賃貸へ忍び込む理由がどこにあるだろう。金銭目的にしろ、破廉恥目的にしろ、もっと色々とやりようはある。もっとも、正常な客人であってほしいという私の願望も少なからずあるだろうが……。一番恐ろしいのは、私の想像を遥かに超えた理外の異常者である。

 足音はキッチンスペースを抜けて居間へ至る。私の心音が高鳴るのが分かる。今不意に私が起き上がってしまえば、相手の顔をありありと確認することが出来るだろう。なんだ君だったのか、と。しかし足音は再びキッチンスペースへと戻る。どうやら右往左往としているらしい。

 そういえば、この間夕飯にオムライスを作っているときに、どうして一人暮らしの賃貸のキッチンは玄関に近いのか、なんてことを考えたことがあった。私はケチャップをかき混ぜながら空間の余白や空気の流れについて考える。しかし、最終的に行き着いた結論は、外敵から身を守るために持つ手ごろな武器としてフライパンを常備しておけるからではないか、と。殺傷能力は包丁などに劣るかもしれないが、面積が広く相手に当てやすいし、血も出にくいため武器として振り回すことにも抵抗が薄くなる。ただまあ、居間にまで入られている時点でそんな都合の良い武器を手にする資格はない。どうしてこんな呑気なことを考えているんだろう?

 どうしようか、目を覚まそうか。先の足音は未だウロウロとして何かガサゴソと怪しい物音を立てている。正体不明の音というのはそれだけで不気味なものだ。しかし、私が起床しなくとも彼(あるいは彼女)に何ら不都合が生まれない、あるいはその対偶を満たすのならこのまま事態を静観することもやぶさかではない。

 私の脳は完全に覚醒していた。憶測を立てることにする。

 まず私は友人が多い方ではあるが、居住地まで教えている人間はそう多くはない。自分の住処を晒すということは、かなりパーソナル指数の高い行為として認定している。日々の安逸を侵されるかもしれないというリスクはとても大きいのだ。

 その限られた友人の中でも、まず考えられるとしたら小林。昨晩はテニスサークルの催し事があり、学科の同輩でもある小林と席を同じくしていた。私が酔いつぶれた記憶はないが、宴会終盤の記憶は定かではない。暑かったので上着を脱ぎながらぶらぶらと歩いてきたことはなんとなく覚えている。誰に介抱された覚えもない。ただ、もしかしたら小林が後ろを歩いていた可能性はある。小林は大学から離れた実家暮らしをしており、終電がなくなるとうちに寝泊まりすることがしばしばあるのだ。しかし、寂しがり屋の小林であればすぐに私を起こすだろう。一人では場末の喫茶にも入れないような人間だ。

 次に考えらえるとしたら同じテニスサークルの後輩である橋本。橋本は昨晩の宴会には出席していなかったが、時々無意味に私の下宿先を訪ねてくることがある。なんでも、人生に行き詰ったときには私に相談すると大抵ものごとが良い方向へと進んでいくらしい。逆宗教勧誘みたいなものである。私も私で頼られることに悪い気がしなかったため、いつの間にか延々と恨み節を鍋に放り込むような仲になってしまった。しかし、橋本が私の下宿先に無断で踏み込むことは決してない。呼び鈴に反応がなかったら、自分の気が済むまで玄関の前で三角座りを続けてるような人間だ。この間は二時間もそのままだったというのだから橋本の心境の混濁は計り知れない。

 他にも、私の下宿先を知る友人を数人思い浮かべるが、みなパッとしない。そもそも無断で人の家に上がるような輩とは交友を持たないようにしているからだ。なにかのっぴきならない理由があるにしても、私を起こさないというのはないだろう。

 であれば、家族だろうか。合い鍵を持っているのは家族か大家さん。あぁ、こっちが正しいような気がしてきた。そのどちらかに決まっている。一瞬、酒の飲み過ぎで気を大きくした私が儚げな甘い微笑みと巧妙な舌先をふるって何も知らない後輩をアバンチュールな一夜へ誘ったのかと本気で心配した。馬鹿馬鹿しい。

 家族で私の下宿先を訪れるのは母か妹であった。妹はほんの時折都会見学のためにやってくるのみだが、母は頻繁に訪れる。部屋の掃除を怠っていないかチェックをしにきたり、米や缶詰を置いて行ったり、カンやビンといったゴミを回収したり……。実家からは百五十キロも離れているのに、適当な理由をつけて結構な頻度でやってくるのだ。有り難いには有り難いが、父も私を甘やかしすぎではないかと私及び母を心配している始末。

 うむ、母だな。と思う反面、それならばどうしてぐうたらと惰眠を貪る私を叩き起こさないのかという点に納得がいかない。最近は掃除も適当に済ませていたし、キッチンスペースやシャワールームは目も当てられない惨状になっているはずなのだ。それを見た母が私を起こさない道理がない。「こんな時間まで寝おって!」と朝の八時に布団を剥がされたことは一度や二度ではないのだ。

 なら大家さんだろうか。基本的に大家さんでも何か用事があるならば事前に連絡を寄越す。しかし、小さな用事だと私に断りなく侵入していることもある。あのお婆さんも中々のおざなり人間だ。プライバシーの尊重などあったものではない。この間下宿に帰ってきた時に、トイレの奥からガサゴソと聞こえてくるのだから肝を冷やしたものだった。でも、そんな大家さんでもインターホンは必ず鳴らす。そう、私が彼(及び彼女)を不審に思ったのは、無断で土足を踏んだという一点のみなのだ。

 パタ、パタ、ボン。キッチンスペースの方から気の抜けた足音がする。シャーという音は洗面台で水を流しているのだろう。冷蔵庫が開く音、食器がこすれる音、電気ケトルの電源がつく音……。なんだなんだ、随分と呑気そうではないか。私は普段のようなのんびりとした生活音に安堵の胸をなでおろす。急を要する事態ではなさそうだ。

 足音は再び居間へ、そしてキッチンスペースへと赴き、そのまま玄関の戸を開いて外へ出て行ったようだ。私はこれを好機と見て長らく閉じていた瞼を開く。すると、どういう訳か外は真っ暗になっていた。

「はて」

 私は不意に声を上げる。ベッドの下のローテーブルには、カツの乗ったカレーとミニトマトが添えられたサラダが載せられている。どういうことだ?

 私は時計を確認する。午後八時三十分。なんとなく、嫌な感じが腹の底を支配するのが分かった。私はキッチンの奥を注視している。

 ガチャリ。

 玄関の戸が開いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

訪問者 米山 @yoneyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ