淫獣 アイヤネン

 商店街に引き返し、なじみの店へ向かう。


 不思議なことに、路地を抜けたら【異界】は消えていた。三菜子が言うには、「異界を作ったマニフィカトを倒せば消える」らしい。


「いつものラーメン屋でいいか?」


「うん。ありがと、三郎くん」


「でも、夕飯前にラーメンは重くないか?」


「平気だよ。小さいサイズを頼むし」


 商店街まで行き、ラーメン屋に到着。チェーンのバーガーショップと昔ながらの洒落た喫茶店に挟まれながらも、存在感を示す。木の板に墨で書かれたひらがなの看板が、揺るぎないうまさを保証する。


「【こうのとり】、ねえ?」と、三菜子が看板を見てつぶやく。


「大将が独立したタイミングで奥さんが身ごもったらしい。それが名の由来だ」


「素敵な命名理由だね」


「僕達のよく知っている奴の実家なんだ」


 自動ドアが開くと、威勢のいい声が鳴り響く。


 黄色を基調とした店内は、厨房とテーブル席をカウンターで挟んだ様式だ。数名の子連れが、奥のテーブルで早めの夕飯を楽しんでいる。


「らっしゃい!」


 厨房には、角刈りの中年男性がスープを仕込んでいた。この店の大将だ。隣には僕達がよく知っている人物が。鴻上だ。


「あれ、ここは鴻上君の家だったのだね?」


「そうなんだよ。嬉しいな、三菜子ちゃんが来てくれるなんて。とびっきりうまいラーメンを食わせてやるぜ」


 店主の奥さんが身ごもったのが、鴻上こうがみ 裕之助ゆうのすけ

 僕の同級生だ。


 鴻上の様子を見ると、お世辞ではなく本心から喜んでいるらしい。張り切りながら、鴻上は麺のゆで作業を再開する。


「あと南郷院、今日は生徒会を休んですまん」


「今日はすぐに終わったし。でも珍しいね、鴻上くんが生徒会をお休みするなんて」


「バイトがひとり急に休んでな。救援なんだ」


 どうもこれらしい、と、小指を突き立てた。


「まったく、こっちは画面の向こうから嫁が出てこないってのに」


「鴻上、いつものを三つ頼む」と、僕は取り入らず、冷静に注文する。


 あいよ、と鴻上が背を向けた。


 水を切るリズミカルな音が、厨房から響く。


 数分後、僕と三菜子、ヒカルの分の白湯ラーメンが、カウンターに三杯並ぶ。


 子どもサイズの鉢で、大きめのお茶碗くらいの大きさだ。一杯たったの三五〇円なり。具材はチャーシューともやしだけ、というシンプルな物。セットになると、これに唐揚げとプリンが付く。それでやっと巷のラーメン専門店と同額ほどだ。


「どうだ三菜子、チェーン店ながら、味が独特でしっかりしてるだろ?」


「はふはふ、この濃厚な鶏ガラの風味がクセになるね。確かにおいしいよ、これ」


 三菜子が鴻上製ラーメンを賞賛する。麺をふうふううしながら、小動物のように口を動かす。


「いつも思うけど、優しい味だね」


 ヒカルの言葉に、鴻上が「おう」と力こぶを作った。


「子連れが対象だからな、ウチは」


【こうのとり】はテーブル席が多く、客層も子連れが大半である。ガッツリした物を好むラーメン通には受けが悪いが、しっとりとしてクドさが抑えられている。低価格と、子供でも抵抗なく食べられるのが売りだ。


 思い思いに、僕達はラーメンを堪能した。


 だが、アイヤネンだけが、声を震わせている。


『アカン、共食いはあかんのや』


「しゃべるな。怪しまれる」


「平気だよ。シェーマの声は、普通の人には聞こえないから」


 僕がたしなめると、ヒカルがそう教えてくれた。


「誰もお前の仲間を食っているわけじゃないだろ。お前、フェニックスの化身だろ?」


『同じ鳥族やから、やっぱり気になるんや』


「アイちゃんって変でしょ? 自分の名前に『やねん』って言うんだよ」


 さも、ヒカルが当たり前に言う。


「あのなヒカル、アイヤネンてのは、フィンランドで実際に使われてる姓名だぞ」


「えっ」と、ヒカルの顔が固まった。


 僕はノートとペンをカバンから出し、【Aijanen】と表記する。


「アイジャネン?」


「これでAijanenアイヤネンと読むんだよ。ちなみにネンってのはフィンランド語で『小さい』って意味だ。人名だと『人』って意味らしい」


「あ、わわわわ」と、急に、ヒカルが箸を落とす。「ごめんねぇ! わたし、ずっと『アイやねん』って覚えてたよぉ! うわあああんっ!」


 恥ずかしげもなく、ヒカルは自分の膝をテーブルから出した。抱くようにして頬ずりしながら、アイヤネンを慰める。


 何事かと、子供客達がこちらに冷たい視線を浴びせてくる。


「何をやってるんだ、足を下ろせ!」


『ええんや、意味を捉え損なっても、死にはせん。使命さえ果たしてくれてたらええねん。せやから脚を引っ込めんかい。行儀悪いで』


「うん、そうだね。ごめん」


 僕の方へ向き直り、ヒカルは脚をテーブルへ押し込んだ。

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