第八章 白雨

第八章 白雨はくう


       一


「なぁ兄ちゃん」

「なんだ?」

 紘彬が画面を見詰めながら答えた。

 レースゲームで先頭争いをしている最中だから目を離すわけにはいかないのだ。

「兄ちゃんが今やりたい事って警察官じゃないよな」

「ああ、凶悪犯に殺されるかもしれないのにネットやニュースじゃボロクソに叩かれるからな」

「他にやりたい事とかないの?」

「あるぞ」

「えっ、何!?」

 紘一が驚いて声を上げた。


「猫のブリーダー」

「え……」

 紘一が思わず画面から目を離した拍子にカーブを曲がりきれなかった車がコースアウトした。

 いつもの冗談なのかどうかを見極めるように紘彬を凝視している。


 やっぱ紘一君でも驚くよな……。


 如月は呆れた視線を紘彬に向けた。


「猫は可愛いし、世話も楽だし最高の職業だろ」

「……猫のブリーダーならすぐなれるのに、なんでだやってないの?」

「食ってけないからだ」

「え……?」

「……もしかして……計算したんですか?」

「おう、食ってくためには年間何匹の子猫が必要か計算したぞ。餌代えさだいとかトイレの砂代とか、生きてる間に利益が出るだけの数の子猫を産めるかとか」


 桜井さんこのひと、本気だったのか……。


「本業じゃ食ってけそうにないんでな。祖父ちゃんが道場売ってなきゃ道場いで道場主の副業として出来たかもしれんが、猫だけで食ってくのは無理だな」

「念のため聞いておきたいんだけど……本気でなりたいの?」

「でなきゃコスト計算なんかしてないぞ」

「紘兄! 電話!」

 階下から花耶が声を掛けてきた。

「またかよ」

 紘彬がうんざりした顔でコントローラーを置くと立ち上がった。

 祖父からの電話なのだろう。

 紘彬は祖父と同居しているのだが夜遅くまで家に帰らないので用があるときは電話してくるのだ。


「如月さん、兄ちゃん、本気?」

「半分くらいはね」

 さすがに採算が合うかの計算までしていたとは思わなかったが。

「蒼ちゃんも桃花ちゃんも佐藤も……」

「佐藤?」

「あ、高田馬場で一緒だったクラスメイト」

 紘一の言葉に如月は頷いた。


「あいつもだけど、みんな好きなことややりたいことあるから夢ってあるのが普通だと思ってた。兄ちゃんだって高一の頃から医者を目指してたし」

「でも、お医者さんも航空宇宙工学も法医学者も、ドラマにハマったからなんでしょ」

「うん」

「大抵の人は切っ掛けなんてそんなものじゃないのかな。俺は好きなこととか夢とか持ったことないから良く分からないけど」

「そう……なのかな」

「案外、夢って叶えるだけじゃなくて見付けるのも大変なものなのかもね」

 夜に見る夢と将来の希望が同じ『夢』という言葉なのも、どちらも掴み所がないからなのかもしれない。


 翌朝、団藤がいつものように捜査の割り振りをしようとした時、紘彬が手を上げた。


「まどかちゃん、聞いてくれた?」

「田中尚子の捜査ならしてないそうだ。二十年以上前の事件を捜査してる余裕はないんでな」

「じゃあ、俺が少し調べていい?」

「いくら捜査してないと言っても管轄外だからな。許可してくれるか聞いておく」

 団藤はそう言うと聞き込みの割り振りを始めた。


 聞き込みの途中、紘彬は警察署に呼び戻された。

 紘彬と如月が戻ると蒼治が椅子に座っていた。

 というか座らされているらしい。


「蒼治、どうした?」

「暴力団事務所でめたそうだ」

 団藤が答えた。

 それで組員に取り押さえられて警察に突き出されたという。

「お前、真美ちゃんの事で自棄やけになっ……」

「違う!」

 蒼治が紘彬の言葉を遮った。


「紘兄が事件のこと思い出せば捜査の役に立つって言ったろ」

 蒼治の言葉に団藤がとがめるような視線を紘彬に向ける。

「暴力団事務所に乗り込めとは言ってない。思い出した事が捜査の役に立つかもしれないとは言ったがお前は逮捕出来ないだろ」

 紘彬が渋い顔で言った。

 一般人に出来る逮捕は現行犯の私人逮捕しじんたいほだけである。

「逮捕しようと思ったわけでも暴力団事務所に乗り込もうとしたわけでもないよ」

 蒼治はある名前をげた。


「何かのブランドの名前か?」

 紘彬が知っているか訊ねるように如月に目を向けた。

 如月が首を振る。

 団藤も首をひねっている。

 初めて聞いた名前だ。

「J3のチームだよ」

 紘彬達の表情を見た蒼治がそう言ったが、それでも分からない様子なのを見て取ると簡単に説明してくれた。

 要は日本のプロサッカーリーグ(つまりJリーグ)のチームの名前だそうだ。

 JリーグはJ1からJ3までにランク分けされている。


 蒼治が強盗に殴り倒された時、床に落ちていたキーホルダーを犯人が拾っていた。

 それが今、蒼治が名前をげたチームのエンブレムだったらしい。

 J3は知名度が低い上に、そこは関東のチームではないからよほど詳しい人でもない限り東京にそのチームを知っている人はいないはずだ。

 知っている人がいないくらいだからキーホルダーを持ち歩くほどのファンは珍しい。

 それで印象に残っていたのだ。

 そして今日、すれ違った男がそのキーホルダーを持っていた。


「J3ってそんなに知名度低いものなのか?」

 紘彬がそう訊ねると、

「紘兄だって新宿のチーム知らないだろ。新宿のチームはまだJ3に昇格してないけど」

 という答えが返ってきた。


 新宿にもサッカーチームあったんだ……。


 如月は新宿区民ではないとは言え新宿の在住・在勤者と関わる仕事をしているにも関わらずチームがある事すら知らなかった。

 それくらい知名度が低いとなると他県のJ3チームの名前やエンブレムを目にする機会はまずないはずだ。


「強盗の顔は見てないんだよな?」

「だから、どの部屋に入ったか確かめてから紘兄に連絡しようと思ったんだよ」

 男が入った部屋番号を確かめようと近付いた時、ドアが開いて別の男が中から出てきた。

 男は蒼治に気付くと威圧的な態度で追い払おうとしてきたから売り言葉に買い言葉で口論になったという。

 それで、またいつものように死にたくて暴力団事務所に乗り込んできた人間だと勘違いされ、組員に取り押さえられて通報されたらしい。

 蒼治は男と言い合いになって初めてその部屋が暴力団事務所だと気付いたとの事だった。


       二


「キーホルダー以外の特徴は?」

 紘彬が訊ねた。

 蒼治は犯人の顔を見てないのだ。

 いくら東京では知名度が低いと言っても、東京で生まれ育った蒼治が知っていたのだから他に知っている人間がいてもおかしくない。

 同じキーホルダーを持っていたというだけでは同一人物と断定する証拠としては弱い。

「体格が似てた気がするんだ。それに俺と同じくらいの身長だったはずだけど、今日すれ違った男もそれくらいだった」

「そのキーホルダーの入手方法って限られてるの?」

 如月の問いに蒼治はスマホを取り出すと画面を操作した。

「公式サイトの通販くらいみたい」


 如月も蒼治の言ったチーム名でネットオークションを検索してみたがキーホルダーも含めグッズは何も出品されていなかった。

 そうなると、たまたま見掛けてデザインが気に入ったから買った人が大勢いるというのは考えづらい。

 チームの名前を知っていて、そこの公式サイトを見るという手順を踏まない限りキーホルダーの存在すら知らないだろう。

 蒼治でさえエンブレムは知っていたがキーホルダーがどこで買えるのかまでは今の今まで知らなかったくらいだ。

 となると入手の経緯はともかく、東京で持ってる者はかなり少ないはずだ。

 犯行現場の近くでそんな珍しいキーホルダーを持ち歩いている者が二人もいる確率はかなり低い。


「暴力団員じゃなくても人と揉めるのは褒められたことじゃないが、その暴力団事務所に出入りしている人間のことは調べておく」

 紘彬がそう言って蒼治を帰そうとした時、

「そのキーホルダーの男は君に気付いたか?」

 団藤が蒼治に声を掛けた。

「え……さぁ? 揉めたのは違う男でしたけど、口論になったら他の連中も出てきたのでその中にいたかもしれません。ただ、はっきりとは……」

 蒼治がそう答えると団藤が頷いた。


「キーホルダーの男が実行犯の一人で蒼治君を見たとしたら気付いた可能性が高いな」

 蒼治が帰ると団藤が言った。

 実行犯なら、蒼治が男に気付いたから事務所までやってきたと悟っただろうし、そうなると証拠を隠滅されたり逃げられたりする前に手を打つ必要がある。

 団藤が課長に相談しに向かった。


 朝の会議で団藤が捜査の割り振りをした。

 昨日、蒼治が揉めた暴力団事務所にいる者達を調べるのだ。

 証拠隠滅や逃亡の時間を与えないようにするためには早急に家宅捜索をして証拠を押さえる必要があるが、捜索令状を取るにはそれ相応の根拠が必要である。


「気付かれないようにしろよ。例の記者にもだ」

 団藤が念を押すように注意した。


「今日は一日張り込みかぁ」

 覆面パトカーの中で紘彬がボヤいた。

 車は暴力団事務所から少し離れたところに止めてあった。

 団藤は銀行口座の金の出入りに不審な点がないか調べている。


 車のラジオからニュースが流れてきた。

 相変わらず闇サイト強盗を捕まえられないな警察を叩いている。


『……警察は依然として手懸かりを掴めず、被害は増えていく一方……』

 アナウンサーが警察を非難していた。


「いいよなぁ、叩いてるだけなら殺される心配ないもんなぁ」

 紘彬がシートにもたれてボヤいた。


 夕方近く、

「桜井、如月、戻ってきていいぞ」

 団藤から覆面パトカーに連絡が入った。


 紘彬と如月が署に戻ると、

「捕まえた特殊オレオレ詐欺の受け子の一人があの事務所の名前をいた。今、家宅捜索の令状を申請中だ」

 団藤と告げた。


 紘彬が退勤しようとすると、受付に例の記者がいた。

 受付の職員は迷惑そうな表情をしていたが、市民を冷たくあしらうわけにもいかず、仕方なさそうに相手にしている。


「ちょっといいか?」

 紘彬は受付の職員に声を掛けた。

「はい」

 職員がホッとしたような表情で紘彬に返事をした。

「油売ってりゃ給料が貰えるなんて楽な商売だな」

 紘彬がカウンターに寄り掛かりながら記者に言った。

「記事を書けなきゃ給料は貰えませんよ。これ、昨日の記事なんですけど読んでもらえました?」

「いや」

 紘彬はそう答えただけで後は記者の方を見向きをせずに頬杖を突いている。


 自分がいる間は受付に用件を話す気はないのだと悟った記者は、

「良かったら読んで下さい」

 そう言って新聞を受付に置いて出ていった。

 紘彬はカウンターにもたれてその背を見送った。


「警部補、ご用件は」

「ああ、明日なんだが……」

 そう言って江戸川区の住所を告げた。

「車、頼む」

 紘彬はそう言うと警察署を後にした。


「大久保さん、すみません」

 紘一は車を運転している大久保に謝った。

 父、晃治の会社の手伝いをした帰りだった。

 家を出る前から雲行きが怪しかったのだが降ったとしても大雨にはならないだろうと思って傘を持ってこなかったのだ。


 案の定、帰る頃になって雨が降り出したが夕立だからすぐに止むだろうと思って玄関で待っていた。


白雨はくう』って言ったっけ、夕立の異称……。


 そんな事を考えながら雨を眺めていたらバイトの大久保が車で送ると言ってくれたのでその申し出を受けたのである。


「気にしなくていいよ、社長には申し訳ないと思ってるし」

「え?」

「大分前に社長が正社員にならないかって言ってくれたんだけど断っちゃったんだ」

「父から大久保さんは作曲家目指してるって聞きましたけど」

 確か大手音楽事務所に曲が採用されて有名なアイドルが歌う事になったと言っていたはずだ。

「それなのに正社員にならないかって言ったんですか?」

 紘一の声に非難の色が混ざる。

 作曲家を目指している人に正社員になれというのはお前には見込みがないと言っているのと同じだ。


「正社員に誘われたから作曲家になりたいって打ち明けたんだよ」

 それまで曲を採用してもらえたのは一、二度だったので口幅くちはばったくて作曲家などと名乗れなかったから黙っていたのだ。

 しかし社長が働きぶりを認めてくれて正規社員にと申し出てくれたのに理由も言わずに断るのも悪いと思って作曲家志望だとげた。

 音楽の仕事が入ったらそっちを優先させたいから時間の融通がくバイトでいたい、と。

 すると社長――晃治は快く受け入れてくれて応援すると言ってくれたので今でもバイトを続けている。


 その後、アイドルの曲に採用された時、もしかしたら作曲家としてやっていけるかもしれないし、そうなったらバイトはめる事になるから早めに言っておいた方がいだろうと晃治に報告してしまったのだ。


「夢のために頑張ってるなんてすごいですね」

「それは……どうかな。今はあのとき断ったの後悔してるんだ」

「え? だって曲が採用されたんですよね?」

「それ、二年前の話だよ」

 大久保が前を見ながら苦笑した。

 ずっと鳴かず飛ばずだったのが、これでようやく芽が出るかと思ったが、結局採用されたのはその一曲だけで相変わらずバイトでなんとか食いつないでいると言う状況は変わってない。

 それが二十六の時で今は二十八。

 あと二年弱で三十になるのに未だに何者にもなれていない。


「夢って……呪いにもなるよ」

「そうなの?」

「例えば医者や弁護士は試験に受かればほぼ確実なんだろ? そりゃ、試験が難しいって話は聞いてるけど……」

 合格基準が決まっているならクリア出来るかどうか自分である程度判断出来る。

 模試などの点数を見て無理そうだから諦めるという選択もしやすいだろう。

「作曲家にはそういうの無いから……」

 大久保はそう言って一旦口をつぐんだ。

「学生時代の友達はほとんど結婚して子供までいるし、なんなら就職して金貯めて起業して社長になったヤツまでいる。それに比べて俺は未だにバイト暮らしで結婚も出来ない」

「……結婚したい人がいるの?」

「結婚したくなったかどうかは分からない」

 振られたから、と大久保は言った。

 それが一年ほど前らしい。

「あの時、正社員になってれば、結婚して子供もいたかも……他の人達みたいに」

 大久保がそう言った時、車が紘一の家の前に着いた。


       三


 次の日の朝、紘彬達は暴力団事務所の入っているビルの前に来ていた。


「こちら、配置が終わりました」

 裏口にいる警察官から連絡が入った。

「よし、いくぞ」

 団藤の合図で警察官達がビルに入っていった。


 警察官が突入すると男達が浮き足立った。


「遠藤さん、逃げて下さい!」

 男の一人がそう言うと長いナイフを振り回した。

 警察官達が一斉にける。

「桜井、頼んだ!」

 団藤も後退しながら言った。


 紘彬は腰の後ろに隠してあった特殊警棒を取り出すとナイフを弾いた。

 男はすぐにナイフを手元に引くと姿勢を低くして紘彬に突進してきた。

 どうやら場慣れしているらしい。

 紘彬が手首を狙って警棒を振り下ろしたが、男は警棒をかわしてナイフを突き出した。

 ナイフをけながら警棒で上からナイフの峰を叩く。

 男は咄嗟とっさにナイフを下に降ろすことで警棒の衝撃を殺すと、刃を上に向けて斬り上げた。

 紘彬がたいを開いてナイフをかわす。

 男が更に踏み込んでナイフを振る。

 紘彬がもう一歩下がる。


 入口から紘彬が退しりぞくと遠藤と呼ばれた男が部屋の外に向かって駆け出した。

 ドアの外で待ち構えていた如月が遠藤に飛び付いて取り押さえる。


 ナイフ男が一瞬、遠藤に気を取られた。

 その隙に紘彬は一歩踏み込むと警棒で男の手首を強打する。

「ぐっ!」

 男の手からナイフが落ちる。

 その瞬間、周囲の巡査達が男に飛び掛かった。


「よし、俺の仕事は終わったな」

「これから家宅捜索です!」

 如月の突っ込みに帰る気でいた紘彬が肩を落とした。


 家宅捜索が終わる頃、課長からの指示で紘彬は如月と共に江戸川区の派出所に向かった。

 紘彬と如月が派出所に入っていくと記者が椅子に座らされていた。


「何か用か?」

「住民から不審者がうろついているという通報がありまして、この男が民家の敷地内に侵入しているのを見付けたので……」

 不法侵入で捕まったらしい。

「この男によると警部補からその辺りで闇サイトの捜査があると聞いたそうです」

「俺はそんなこと言ってない」

 紘彬が涼しい顔で答える。

「嘘だ!」

「俺、お前に面と向かってそんなこと言ったか? 証拠の音声記録でもあるのか? 俺、お前の前で捜査の話したことないぞ」

「そ、それは……」

 記者が後ろめたそうな表情で言葉にまる。


「闇サイト絡みは警視庁の担当だし、捜査協力にしても、ここなら江戸川区の警察署に依頼するはずだろ。新宿の警察官が江戸川区に来るかよ」

 紘彬の言葉に記者が「あっ!」という表情を浮かべた。

「そういうわけで不審者の件は関係ないけど、忘れ物届けに来てやったぞ」

 紘彬は人の悪い笑みを浮かべて自分のポケットからスマホを取り出した。

「気付いて……!」

 記者の胸ポケットにスマホを入れる。

「この時間に連絡が来たって事は一日中住宅街を歩き回ってたって事か。ご苦労だったな」

 にこやかな顔で記者の肩を叩く。


 なるほど……。


 おそらく今ポケットに入れたスマホは記者がもう一台のスマホと通話中の状態で警察署のどこかに置いておいたのだ。

 そして手元のスマホで警察署内での会話を盗み聞きしていたのだろう。

 スマホならバレても『落とした』『置き忘れた』で通す事が出来る。


 記者のスマホに気付いた紘彬が家宅捜索の邪魔をされないように、ここで捜査があると誤解するような事を言ったのだろう。

 まんまと一杯食わされたのだ。

 記者が悔しそうな表情を浮かべている。


「警部補、面倒をよその管轄に持ち込まないで下さい」

 巡査が紘彬を睨んだ。

「知り合いの警察官が多いとこだと顔合わせる度に文句言われるだろ。そんなの御免だからな」

 紘彬は飄々ひょうひょうとした表情で答えた。

 ひでぇ……。

 巡査達の表情がそう言っていた。


「警部補、この男は……」

「捕まえたのはお前達だろ。うちの管轄じゃ事件起こしてないから俺達関係ない」

 巡査達が恨めしげな顔で紘彬を見る。

「用もないのに一日中住宅街ほっつき回ってたんだろ。たっぷり油しぼっとけ」

 説教まで押し付けられた巡査がげんなりした表情で肩を落とす。

「スマホのデータも含めて所持品検査はしっかりやっとけよ。逮捕の証拠になるもの持ってると思うぞ」

 紘彬は後ろ手に手を振ると派出所を後にした。

「桜井さん、ここの管轄の警察官に恨まれますよ」

「だからわざわざこんな離れた場所選んだんだろ。こんだけ遠けりゃ顔を合わせる機会はまず無いからな」


 可哀想に……。


 如月は巡査達に同情した。


 職質と説教の労力がチャラになるような物が出てくれば良いけど……。


「あいつ、盗撮が趣味らしいからな」

「えっ!? ホントですか!?」

 如月が驚いて顔を上げた。

「あいつが置いていったスマホで写真データ見たんだ」


〝スマホのデータ〟


 そういう事か……。


「昨日は逮捕出来るようなものは無かったが不法侵入で捕まったなら着替え中の女性の盗撮でもしてたのかもな」

「自分はてっきりナイフか何かで銃刀法違反かと……」

「ああ、その線もあるか。不法侵入に盗撮、武器の違法所持となれば十分な逮捕理由になるな。それで家宅捜索となればもっと色々出てくるだろうし」

 誰でも叩けば埃は出る。

 まして取材と称して違法な物を入手し、許可を得ずに所有していれば更に罪状が増えるだろう。

「ここの管轄署もあいつの記事で捜査が台無しになったことがあるからな。徹底的にやられると思うぞ」

 紘彬が小鳥を捕まえた直後の猫のような、してやったりという笑みを浮かべる。


 ここを選んだのは遠いってだけじゃなかったのか……。


 どうやらあの記者に捜査を妨害されて恨んでいる警察署の管轄におびき出したようだ。


 逮捕とまではいかなくてもこれにりて少しは捜査の邪魔にならないようになってくれればいいんだけど……。


「昨日捕まえた奴らの中に田中政夫の事件の実行犯いた?」

 朝の捜査会議で紘彬が訊ねた。

「取調はこれからだから分からんな」

「この件も警視庁の管轄になんの?」

「広域強盗ならそうだ。だが管轄がうちの事件の証拠も色々あったからな」

 団藤はそう言って捜査の割り振りをした。

 紘彬と如月が聞き込みに出掛けようとすると団藤に呼び止められた。

「田中尚子の事件だが捜査して構わないそうだ。こっちも忙しいからるならき時間にやってくれ」

「了解」


 昼休み、紘彬と如月は刑事部屋で昼飯を食べていた。

 TV画面に、


〝闇サイト強盗のアジト捜索!〟


 というニュースが流れた。

 画面に映っているのは昨日捜索したビルである。


「強盗の証拠が出てきたのか?」

 紘彬が団藤に訊ねた。

「まだだが小林次郎との繋がりは見付かった」

 小林次郎の持っていたデータには闇サイトの情報があったから、小林と繋がっていたなら闇サイトだった可能性は高い。

 ただ小林は特殊詐欺の指示役だったようだから、小林との繋がりだけでは強盗をしていた証拠にはならない。

「例のキーホルダーを持ってるヤツは逮捕者の中にはいなかったんスよ」

「ふぅん」

 紘彬は「また出任せか」と言いたげな表情でTV画面に目をやった。


       四


 その日の夜、紘彬と如月は紘一の家でゲームをしていた。


「なぁ、兄ちゃん」

「なんだ?」

 紘彬が画面から目を離さずに答えた。

 今、三人はレースゲームでデッドヒート中なのだ。

 一瞬たりとも目を離せない。

「……今日のニュース、あれホント? 強盗捕まえたって……」

「おう」

 紘彬の返事を聞いた紘一は、わずかに逡巡しゅんじゅんした後、

「そいつら、今、兄ちゃんの署にいるの? その……いつか、どこかに移送されるんだよね? 予定とかは決まってる?」

 紘一が遠慮がちに訊ねた。


「今度の土曜だ」

 紘彬が答えた。

 如月は横目で紘彬をうかがったが黙っていた。


 土曜日、警察署の近くの物陰にいた蒼治の前に紘彬が現れた。


「紘兄」

「移送ならないぞ」

「やっぱり」

 蒼治が苦い笑みを浮かべる。

 紘彬があっさり教えてくれたと聞いた時から予想はしていた。

 蒼治の前に紘彬がてのひらを差し出す。


「え?」

 蒼治が戸惑ったように紘彬の顔を見た。

「ナイフかなんか持ってきたろ。お前が持ってたら銃刀法違反になる」

「紘兄はならないの?」

「なる」

「なら紘兄に迷惑……」

「俺は警察手帳見せればむから」

 紘彬がそう言うと蒼治は素直にポケットからナイフを取り出して渡した。

「じゃ、こっちへ」

 紘彬は蒼治を促して警察署に向かって歩き出した。


 手錠を掛けられてはいないとは言え銃刀法違反の現行犯だ。

 紘彬に見付かった時――いや、家を出る時から逮捕は覚悟していた。

 犯人に襲い掛かれば護送している警察官に取り押さえられて逮捕されていた。

 その警察官が紘彬だったと言うだけだ。


 しかし紘彬が蒼治を連れていった場所は柔剣道場だった。


「俺、逮捕されたんじゃないの?」

「容疑は?」

「え、銃刀法違反……」

「何か持ってるのか?」

「さっき紘兄に……」

「なら今は持ってないんだろ。持ってないなら違反してないから逮捕出来ない」

「…………」

 紘彬は胸ポケットにしていたボールペンを蒼治に渡した。

「それをナイフ、俺を犯人だと思ってやろうとしてた事をやってみろ」

 蒼治は手の中のボールペンを見下ろした。


 紘彬は、蒼治が犯人にやりたかった事を逮捕されない方法でさせてくれようとしているのだろう。

 それで自分の気持ちがおさまるとは思えないが、これは紘彬なりの心遣こころづかいなのだ。

 それを無下むげに断るのも悪いだろう。

 そう考えてボールペンを突き出した。

 紘彬は左手でボールペンを持った腕を払うと右手で蒼治の襟を掴んだ。


「ボールペンなら力任せに突き立てたところで小さい痣程度なんだから遠慮なく掛かってこい」


 遠慮はしてないんだけど……。


 あの程度ではダメなのだ。

 蒼治は脇にボールペンを固定してタックルするような勢いで紘彬に突進してボールペンを突き出した。

 紘彬が腕を掴んで足払いを掛ける。

 蒼治が倒れた。

 顔面が畳にぶつかる直前で紘彬が上着の背を掴んで止める。

 本気で掛かっていったのに難なくけられてしまった。


 蒼治は上から振り下ろしたり横に払ったり突き出したりしたがボールペンは紘彬にかすりもしなかった。

 海外から声が掛かるほどサッカーをしているのだ。

 普通の人より動きが早いはずだ。

 反射神経もある。

 身体を鍛えているから力も強い。


 ムキになって必死で紘彬に向かっていったが先が届く前にことごとかわされてしまった。

 紘彬が蒼治に背を向けた。


「不意をくなら背後からだろ。後ろからやって見ろ」

 その言葉にせめて一太刀なりとも、と躊躇ちゅうちょなく駆け寄ってボールペンを突き出した。

 次の瞬間、蒼治はうつ伏せに倒れて腕を背中に回されていた。

 駆け寄ってきた蒼治に、紘彬は振り向いてボールペンを持った腕を掴んで足払いを掛け、倒れ込む蒼治の腕をそのまま背中に回したのだ。

 今までは、あれでもかなり手加減されていたのだと思い知らされた。

 というか、これでも本気は出していないのだろう。


「警察官って言うのは常に訓練してるから、これくらいは誰にでも出来るんだよ。まして凶悪事件の実行犯の護送にはこの手のことに慣れてる警察官が何人も付く。この程度じゃ近寄ることすら出来ないまま逮捕されるだけだぞ」

「…………」

「お前が逮捕されたら証言が証拠として採用されなくなるかもしれない。そうなったら連中は無罪放免になるかもしれない。それでいいのか?」

 蒼治はうつ伏せになったまま唇を噛んだ。


 真美を守ることが出来ずに死なせてしまった。

 なのに復讐すら叶わない。

 自分にはなんの力もない。

 何も出来ない無力な自分が悔しくて涙で目の前の畳がかすんだ。


「お前の心の傷は治してやれない。だけど犯行に関わった連中の逮捕には全力で協力する。それは約束する」

 紘彬はそう言って蒼治が起き上がるのに手を貸した。

「協力? 紘兄が逮捕してくれるんじゃなく?」

「広域強盗は警視庁の管轄だから逮捕は警視庁の刑事がすることになるだろうな。俺に出来るのは逮捕に繋がる手懸かりを集めて報告する事くらいなんだ」

「そっか。紘兄にも出来ない事があるんだ」

「俺に出来る事なんて大してないぞ」

 紘彬は苦笑した。


 翌日の夕方、紘彬と如月が聞き込みから警察署に戻ってくると団藤に声を掛けられた。


「例の家宅捜索で押収した証拠を元に河野満夫を逮捕した」

 団藤はそう言ってから、

「キーホルダーの男だ。田中政夫の家に押し入った事を認めた」

 と付け加えた。

 紘彬が取調室に向かう為に踵を返す。

「桜井……」

 団藤が止めようと声を掛ける。

「隣の部屋で聞くだけだよ」

 紘彬はそう答えて部屋を出た。


「……車庫に外車が置いてあれば誰だって、その家のものだと思うだろ!」

 河野が飯田に答えていた。

「ずっと前からあったんだ。それも置きっぱなしじゃなくて、あったりなかったりしてたら住んでるヤツのだと思って当然だろ」

「外車だけで金持ちだと思ったのか?」

「会社の社長だからだ! あいつの会社の倉庫には高級品が大量に……」


 しばらくして戻ってきた紘彬は自分のデスクに座るとパソコンのファイルを開いた。


「桜井さん、何かお手伝い出来る事ありますか?」

 如月が紘彬に声を掛けた。

「小林次郎のデータの解析結果は分かるか?」

「調べてみます」

 如月は自分のパソコンに向き直った。

 紘彬は田中政夫の勤めていた会社が出した盗難届に関する捜査状況を調べ始めた。

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