第九章 卯の花腐し

第九章 卯の花腐うのはなくた


       一


 古紙回収の日の朝、紘一が古紙の束を持って置き場に向かうと、蒼治が自分の家に向かっているのが見えた。

 蒼治も古紙を出しにいった帰りらしい。

 あと少しで登校する時間だからお喋りしている暇はない。


 紘一は声を掛けないまま古紙置き場に向かった。

 古紙を置く時、旅行のパンフレットが目に映った。

 以前、蒼治が彼女と旅行に行きたいからと言って貰ってきた物だ。

 蒼治の嬉しそうな顔を思い出すと胸が締め付けられる。

 紘一はパンフレットを隠すように古紙の束を載せた。

 古紙の上に雨粒が落ちてきた。

 町内会の人が慌てて駆け寄ってきて古紙が濡れないようにブルーシートを掛け始めた。


 紘彬達は刑事部屋で昼食を取っていた。


「また闇サイト強盗?」

 紘彬が訊ねた。

 団藤からよその管轄で強盗事件が起きたという話を聞かされたのだ。

「被疑者がそうしょうしてるだけだ」

「称してる? じゃ、もう逮捕されたのか?」

 通報を受けたのは今日の午前中と言っていたからだそんなに時間がっていないはずだ。

「防犯カメラに逃走していく犯人が映っていてな。ほとんどカメラの死角に入らなかったから逃げ込んだマンションがすぐに特定されたんだ」

 エレベーターの防犯カメラで降りた階まで。

 それで事件発覚から二時間足らずのスピード逮捕となった。


「それにしても随分早いな」

「逃亡先は犯行現場から三十分ほどのところだったからな」

 団藤はそう言って画面に記事を出した。

 例の記者が書いた闇サイト強盗の詳細な手口である。

「どうやらこの記事を読んで手口を真似したらしい」

「早速模倣犯が出たか……」

 紘彬が顔をしかめた。


「主犯がネットで雇われたことにしようと言い出したそうだ。だから最初はそう供述してたんだが――」

 取調では細かい点をかれる。

 記事に『実行犯は指示役に言われたとおりにするだけで詳しいことは知らされない』と書かれていたから『ネットで雇われた』と言えば後は知らぬ存ぜぬで押し通せると思っていたのだろう。

 被害者は死亡したから強盗殺人の罪に問われて初犯でも死刑も有り得ると告げられてパニックに陥った犯人の一人が洗いざらい白状した。


「もしかして被害者は実行犯の知り合い?」

「面識はなかったようだが、犯行現場は被疑者が一昨年まで通っていた高校の近くだそうだ」

 在学中、何かの拍子に学校の近くに自宅で宝石商をいとなんでいる人がいるという噂を小耳に挟んだらしい。

 その人は電子決済が苦手だとも。

 それなら多額の金を箪笥預金たんすよきんにしているか、銀行に預けているとしてもキャッシュカードがあるはずだ。

 仮に金がなくても自宅に置いてある宝石を奪えば金になるだろう。

 そう考えて電話番号を調べてアポ電を掛けたらしい。

 そして電子決済が苦手だという事や仕事で毎日在宅している事、一人暮らしだという事などを聞き出した。

 しかし一人暮らしだという事や在宅の仕事だという事は聞いても仕事の内容や資産状況は聞かなかったらしい。


「宝石商じゃなかったとか?」

「宝飾品の修理職人だったそうだ」

「無事なんですか?」

「発見された時は死亡していた」

「被害額は?」

「一万円足らずの現金だけらしい」


 供述によるとったのは財布に入っていた金だけらしい。

 売買ならまだしも修理である。

 貯め込めるほどの金はない。

 修理だから家に置いてあるのも依頼を受けた物だけだ。

 手作業だから一度にそんなに大量の依頼は受けられない。

 だから押し入られた時、家にあったのは二、三点だったらしい。

 強盗達は金庫を開けるように要求したものの、被害者宅の金庫に入っていたのは書類だけで宝石も金もなかった。

 最初は他に金庫があるのだと思い、口を割らせようと暴行したら『他に金庫はない、これで勘弁してくれ』と財布を差し出された。

 被害者は修理で細々ほそぼそと暮らしていたから中に入っていた金は一万円程度。

 宝石商ではないのかと聞くと修理職人だという。

 現金以外に金目の物は無い。

 腹立ち紛れに更に暴行を加えていたら動かなくなってしまい、慌てて逃げ出したらしい。

 被害者の家から男達が飛び出してきたのを見た近所の人が通報し、駆け付けた警察官が家の中で倒れている被害者を発見した。

 そして周囲の防犯カメラで被害者宅から逃げていく犯人を追跡して逃げ込んだマンションを突き止め、逮捕したのだ。

 紘彬は画面に映っている記事に目を向けた。


「ここまで詳しい手口書くなら強盗罪は殺人罪より重いって事も書いとけよな」

「強盗傷害や強盗殺人はただの強盗より更に重いですしね」


 翌日、紘彬と佐久は他所よその警察署で田中政夫が勤めていた会社の盗難に関する捜査状況を聞いていた。


「田中政夫の関与は否定されたんですね」

 紘彬が確認するように訊ねた。

「組織の人間全員を捕まえたわけではないので田中政夫が一員ではなかったと断定する事は出来ませんが……」

 逮捕された被疑者は闇サイトで指示され盗み出して売っていたと自供した。

 指示役から倉庫の場所と盗み出す物、それに暗証番号を教えられて犯行に及んだ、と。

「二度とも指示してきたアカウントは同一です。そしてそのアカウントは田中政夫の死後にも指示を送ってきています」

 パスワードさえ分かれば同じアカウントを使えるから同一人物と断定することは出来ないものの、別人だったとしても同じ組織なのは間違いないだろう。


「では何者かが田中政夫の暗証番号を盗み出して実行犯に教えた可能性が高いんですね」

 紘彬は念を押すようにそう訊ねてから更にいくつか質問した。


       二


 刑事に礼を言って玄関に向かうと例の記者が騒いでいて、それを職員が制止している。

 紘彬が無視して通り過ぎようとすると、

「どういう事だよ! 闇サイトの指示役は捕まえたんじゃなかったのかよ!」

 記者が紘彬に食って掛かってきた。

「捕まえたぞ」

「なら昨日の強盗事件はどういう事だ! なんで起きたんだよ!」

 記者の言葉に昨日の強盗事件はここの管轄だったことを思い出した。


「なんで怒ってんだ? お前の飯の種が増えたんだぞ」

「俺の親父が死んだんだぞ! あんたには人の心がないのか!」

「大切な人を失ったのは蒼治も同じだ。でもお前は蒼治にしつこく付きまとってた。蒼治とお前の何が違うんだ」

 記者が一瞬言葉に詰まった。

「闇サイトの指示役は捕まえたんじゃなかったのかよ!」

「捕まえた」

「じゃあ、昨日のはなんなんだよ! なんで起きた!」

「組織は一つじゃないからだよ。それに昨日のは模倣犯だ」

「模倣犯?」


「お前が自分で言ったんだろ。知る権利があるって。ヤツらはその権利を行使したんだよ。お前が書いた記事を読んでそれを真似したんだ」

「嘘だ!」

「そう思うなら面会に行って聞いてみろ。犯人達のスマホにお前の記事があったそうだし、それを真似したって話だ」

「けど、警察がもっと厳しく取り締まってれば……」

「何を取り締まるんだよ」

「何って……」


「記事を読んで思い付いただけでだ何もしてないヤツを片っ端から逮捕しろってのか? 報道の自由の侵害は悪くて思想信条の自由は侵害していかよ」

「犯罪を考えるヤツの自由なんか……!」

「お前、今、俺を殴りたいとか思ってないか? 殴るのは暴行罪だからお前も暴行をくわだてたって事で逮捕されることになるぞ。それでもいいのか?」

 殴りたいと思っていたのだろう。

 記者が唇を噛み締めた。


「言ったはずだ。本当に誰もが知る必要がある情報なのかって。こういう事なんだよ。自分にも出来そうだと思うと真似するヤツが出てくるんだ」

 紘彬はそう言うと記者がそれ以上何か言う前に背を向けて外に出た。


「わざわざ来て頂いてすみません」

 そう言った紘彬の前に田中陽平と、その長男の剛が座っていた。

「尚子の遺品ってどういう事ですか? なんで私まで」

 剛が不満そうに言った。

「どうぞ」

 如月がプラスチックの使い捨てカップでお茶を出した。

「使い捨てカップですか」

 剛がとがめるように言った。

 一見、環境に優しくないと非難しているように聞こえるが実際には安物のカップで出すなんて無礼だと怒っているのだろう。


「尚子さんの遺体の発見現場近くで見付かった物の中に持ち主の分からないものがありました。尚子さんの所持品なら犯人の手懸かりになるかもしれないので」

 紘彬はそう言って証拠品袋を二人の目の前に並べていった。

「両親はともかく、私に聞く必要がありますかな」

 剛が傲慢な態度で言った。

「兄弟ならプレゼントする機会があったのでは? 誕生日とかクリスマスとか」

 紘彬はそう言ってポケットから花をあしらったデザインの可愛らしいキーホルダーを取り出して見せた。

「これは姉からクリスマスに貰ったものです」

 紘彬の言葉に剛が黙り込むとキーホルダーを仕舞しまった。


 剛は腕を組んだまま申し訳程度に証拠品袋を眺めただけだったが、陽平は一つ一つ手に取ってじっくりと見詰みつめ、それから妻の昌子に手渡す。

 昌子も見覚えがあるか考えるように時間を掛けて見ていく。


 紘彬がお茶に口を付けてから、

「失礼、今日は暑いので」

 とびた。


 確かに室内はこの季節にしては蒸し暑かった。

 カップが汗をかいているくらいだから中に入っているのは冷たいお茶だ。

 剛も両親が証拠品袋の検分が終わるのを待つ間にお茶を飲んだ。

 すぐに如月がお代わりをそそぐ。

 最後の証拠品袋を昌子に手渡した陽平もお茶を口にする。


「どれも見覚えがありません」

 昌子がそう言って証拠品袋を置いた。

「そうですか、ご足労をお掛けして申し訳ありませんでした」

 紘彬がそう言って立ち上がると、

「お持ちになりますか?」

 と言ってカップをした。

 陽平と昌子は首を振った。

「捨てていい」

 剛はそう言うと両親と共に部屋から出て言った。


 紘彬が家の近くまで来た時、

「紘兄」

 蒼治が声を掛けてきた。


「蒼治、どうした?」

「聞きたい事があって」

「なんだ?」

「その……証言って外国に住んでても出来る?」

「毎回証言が必要なわけじゃないからな。傍聴したいとかじゃなければそんなに頻繁に裁判に行く必要ないぞ」

「じゃあ、海外に行っても大丈夫?」

「証人の居住地は関係ないからな。証言の度に帰国するのは大変だと思うが」

「そのくらい、真美のためならなんでもないよ」

「なら問題ない」

「そっか、ありがと」

 蒼治はそう言うと踵を返した。

 紘彬は黙ってその背中を見送った。


「大久保さん、ホントに良いの?」

 紘一が大久保に訊ねた。

 晃治の会社で行われているパーティの最中だった。

 大久保が正社員になったので歓迎会が開かれているのだ。

「うん」

「作曲は?」

「続けるけど……作曲家になるチャンスは減ると思う」

「それでいいの?」

「……この前、バイトでライブハウスに行ったんだ」

 どこにチャンスが落ちているか分からないから音楽関係のバイトを優先的にやっていた。


 そこで、やはりバイトをしている四十代の人と会って話をした。

 今更正社員になりたくてももう遅い。

 この年までバイトとなると就職出来るところは限られるし、なんとか正規雇用されたとしてもバイト代と大して変わらないような安月給で拘束時間が増えるだけだ。

 引くに引けないところまで来てしまったのでチャンスがめぐってくるわずかな可能性に掛けてバイトを続けるしかない。


 それを聞いて不安に押し潰されそうになった。

 彼は自分の十年後の姿かもしれない。

 それどころか下手したら二十年後や三十年後の姿でもあるかもしれないのだ。

 今ならまだ正社員への道が残されている。

 この前、同窓会で行った時に再会したクラスメイトと付き合い始めた事が決定打になった。

 正社員になればいつ家庭を持つ事も出来るかもしれない。

 それで心を決めた。


「彼女と結婚するかはまだ分からないけどね」

 大久保はそう言って笑うと、他の社員に声を掛けられて話し始めた。


「紘一、どうした?」

 晃治が紘一が浮かない顔をしているのに気付いて声を掛けてきた。

 紘一は大久保から聞いた話をした。


「大久保さん、ホントに後悔しないのかなって思って」

「全部は手に入らないからねぇ」

 晃治が他の社員と話をしている大久保に目を向ける。

 夢と安定した生活、両方手に入れられる人もいるが絶対に確実なわけではない。

「堅実な生活を選ぶのも一つの道だと思うよ」

 そういうものなのだろうか。

 紘一には素直に納得出来なかったが大久保がその選択をした事だけは確かだ。

「お父さんなんかお祖父ちゃんの後をいだだけだからねぇ」

 晃治はそう言って笑った。


「昨日、小林が殺されていた駐車場にあった持ち主不明の車から小林のスーツケースが発見された」

 朝の捜査会議で団藤が言った。

「どうやら小林が自分で部屋を荒らしたのは間違いないようだな」

 スーツケースの中から偽名の身分証や多額の金が見付かった。

 どうやら小林は組織から抜けるために逃げようとしていたらしい。

 しかし、ただ行方をくらましたのでは追っ手が掛かるかもしれない。

 そこで部屋を荒らすことで襲われたように偽装したらしかった。

 組織の人間が家に来たとき家捜しされているのを見れば小林はデータを持っていない、仮に持っていても奪われたと思われて追われないかもしれないと考えたようだ。


       三


「度々なんでしょうか」

 剛が苛立ったように言った。

 田中陽平と昌子、剛が再び警察署の会議室に来ていた。

 紘彬が呼び出したのだ。


「尚子さんの遺体の検案書を見た時からずっと引っ掛かっていた事があるんです」

「何かおかしな点でも?」

「火事が起きた時、尚子さんは首をって宙吊りになっていたようです。ご遺体の側には椅子も転がっていました」

「ほら、やっぱり自殺だったんだ!」

 剛が我が意を得たりという表情で声を上げた。


「やっぱり?」

「焼け跡から見付かった尚子の鞄に遺書が入っていたんです」

 剛が答える。

「尚子が自殺なんか……!」

「いや、母さん、あのころ尚子は悩んでいた。それで自殺したんだ」

「そんなバカな!」

 陽平が言った。


「一見、自殺に見える状況ですが……」

「他に何があるんだ」

 剛が紘彬を遮って言った。

「遺体が燃えてしまっていて外傷の痕跡が残ってないので検死では自殺か他殺か断定出来ません」

「尚子が殺されるいわれはないんだ。自殺だ」

 剛が言い張った。


「他に何も残ってなければそう判断されただろうな」

「何もって、何があったって言うんだ」

「近所の道端で小型の滑車が発見されてたんだよ。そこはゴミ置き場で回収が火事の翌朝だったから滑車をおいた人物は他のゴミと一緒に回収されると思ったんだろうな」

 紘彬の言葉に剛の表情がわずかに変わった。

「家事を奥さんだけにやらせていると、こう言うところでミスをするんだよ」

 紘彬はそこで一旦言葉を切った。


「火事の翌朝の回収は資源ゴミ。滑車は不燃ゴミだからゴミ収集車は持っていかなかった。置いた人間はゴミの分別ぶんべつの事を知らなかったようだな」

 回収されずに残っていた滑車を警察官が見付けた。

「道端に滑車が転がってたんだ。『証拠品』って書いたデカい看板が立ててあったようなもんだったろうな」

 火事が起きて身元不明の焼死体が発見されていた現場の近くに落ちていた物だ。

 周辺の人に聞いても持ち主は見付からなかった。

 滑車を調べたところ血痕が付いていた。

 使い慣れない滑車を使っていてケガをしたらしかった。


「その血痕のサンプルはずっと保管されてるんだが、最近その血痕のDNAが一致した人がいてね」

 紘彬がそう言って剛を見た。

「私だっていうのか!? 私だっていう証拠は……」

「ある」

「DNA採取に同意した覚えはない! 違法に採取した証拠は使えないはずだ!」

「違法じゃない。あんた、この前お茶持ってかなかったろ」

「捨てろって言ったはずだ!」

「お茶なら捨てた」

「そう言う意味じゃないって分かってんだろうが!」

 剛が激昂して紘彬を怒鳴り付けた。

「捨てるって事は廃棄するって事だ。廃棄したら所有権はなくなる。誰の物でもないなら、そこから許可なく採取しても違法じゃない。だから持っていくか聞いたろ」

「滑車だけじゃ証拠にはならない!」

「採取されたDNAがあんたのだけならな」

「え……」

「滑車に尚子さんの毛髪もあった。毛根突きのな」

 ロープを引っ張りあげる時に絡まって抜けたのだろう。

 死者は髪を抜かれても痛いとは言わないから犯人は毛髪が巻き込まれている事に気付かなかったのだ。


「仮に滑車が見付かってなかったとしてもバレてたぞ」

「え……」

「尚子さんの身長だと現場で発見された椅子に乗っても天井のはりまで手が届かないんだよ。つまり梁にロープを掛けたのは他の人間って事だ」

「…………」

「あんただって梁にロープを通すとき背伸びしたろ。そん時、あんたより背の低い尚子さんには無理だって気付かなかったのか」

 剛がハッとした表情で息を飲んだ。


「火事が起きてなくても自殺は無理なんだからロープにDNAが残ってないか調べられてたし、身内は真っ先に疑われるからあんたが犯人だって事は遠からずバレてたはずだ」

「まさか……嘘でしょ」

 昌子が信じられないと言う表情で剛を見る。


「火事は想定外だったんだろ。倉庫の隣にあった店の火の不始末だからな。顔が分かる状態の遺体と鞄の中の遺書が発見されて自殺と断定されるはずだったんだろ」

 だが火事が起きて遺体が焼けてしまった。

 しかも何故か歯科のカルテは別人のものだった。


「なぜだ! どうして尚子を……!」

「あの時、私の会社は倒産しかけていた! なのに親父は金を貸してくれなかった!」

「儂の会社も危なかったんだ! お前が大学に入った年に取引先が不渡り出したのを知ってるだろ! あれ以来、うち会社はずっと危ない状態だったんだ!」

「尚子に金が掛かるから出せないって言ってただろ! それなら尚子がいなくなれば金を出さずに済むじゃないか! 尚子の生命保険は自殺でも支払われるから……!」


「だから遺体が早く発見されて欲しかったのか。身元が分かる状態で。保険金が下りればその金が借りられると思ったんだな」

「尚子には遺産の相続権もあったんだ! 養女の尚子に遺産まで……」

「尚子は養女じゃないって何度言えば分かるの!」

 昌子が叫んだ。

 どうやら今までに何回も同じやりとりをしてきたらしい。


「嘘だ! 尚子は……!」

「あんた、ホントに若い頃から家族をないがしろにしてたんだな」

「何を……」

「大学在学中、帰省しなかったんだろ。でなきゃ、お腹の大きい昌子さんを見てるはずだからな。妊娠を知らなかったってことは連絡すらろくに取ってなかったんだろ」

「連絡は取ってた。子供が出来たって話は聞いてたが予定の一ヶ月前に具合が悪くなって救急搬送されたんだ」

 剛が言った。

「だから帰った時に子供がいるのを見て、生まれなかった子供の代わりに養子を……」

「親が救急搬送されたのにどうなったのか聞かなかったのかよ。子供が一人もいなかったならまだしも、大きい息子が二人もいたんだ。昌子さんの年を考えれば予定外の子だろ。作る気がなかった子が生まれなかったからって養子なんか取るかよ」

 剛が言葉に詰まる。


「尚子さんは実の子だよ。間違いなく血が繋がってる」

 紘彬が言った。

「バカも休み休み言え。尚子は……」

「なら、なんであんたを疑ってDNAを調べたと思ってるんだ」

「それは……」

「滑車の血痕と遺体はDNA鑑定で血縁関係があるって判明してたからだよ。兄弟の血痕だって事が分かっていれば遺体の身元が判明したら後は兄弟を調べればいいだけだ」

「兄弟なら政夫も……」

「当然、政夫氏も調べた。殺害されて司法解剖に回されたからDNAサンプルがあったんでな」

 鑑定の結果、血痕は政夫のものではなかった。

 となると残る兄弟は剛しかいない。

 それでDNAを採取するためにエアコンを止めて部屋の中を暑くした上で冷たいお茶を出したのだ。


「AB型とO型からはAB型は生まれない。尚子はAB型じゃなかったって事か?」

「高校の生物だな」

「そうだ! こんなの常識じょうし……」

「高校ではそこまでしか習わないって意味だ」

「どういう事だ」

 紘彬は手帳に二本の線を引いて片方の真ん中にA、もう一方にBと書いて血液型の説明をした。


「その通りだ。だから……」

「これはあくまでメンデルの遺伝の法則。基礎の基礎。血液学だとランドシュタイナーの法則って言うけどな。自分や政夫氏おとうとも実の子じゃないって思ってたのか?」

「どういうことだ」

「自分や政夫氏の血液型知ってたら妹と血が繋がってないなんて思わないだろ」

「俺も政夫もB型だ」

「昌子さんは昔、手術してるな。輸血に備えて血液検査を受けなかったのか?」

 紘彬の指摘に気不味きまずそうに口を噤む。

 どうやら血液を提供すると申し出なかったらしい。


「政夫氏は輸血を申し出たのに出来なかっただろ。その感じだと、未だにAB型は何型からも輸血を受けられるユニバーサル・レシピエントって思ってるんじゃないか? だったらB型の弟が血液提供出来なかったことに疑問を持たなかったのか?」

 剛の視線が泳いだ。

 おそらく弟も輸血のための検査を受けなかったと思っていたのだろう。

 だから血液を提供出来ないと言われたと聞いて提供しないための嘘だと考えたようだ。


「政夫さんとあんたはO型だが間違いなく陽平さんと昌子さんと血が繋がってるし、陽平さんがO型、昌子さんがAB型なのも事実だ」

 紘彬はそう言ってシスAB型の説明をした。


       四


「じゃあ、俺達がB型って言うのは……」

「新生児の時の検査ミスは珍しくなかったからな。待合室での修羅場は良くあったらしいぞ」


 血液型というのは何型に反応するかで判断しているが、この反応というのは実は免疫反応なのだ。

 A型はA抗原、B型はB抗原を持っている。O型は抗原が無い=数字のゼロと言う意味である。

 自分が持っている抗原に対する抗体は出来ないが、持っていない抗原に対する抗体は出来る。

 このA抗原やB抗原は細菌も持っている。

 A型の人間の場合、A抗原に対する抗A抗原は出来ないがB抗原に対する抗B抗原は出来る。

 O型はどちらの抗原も持たないので両方に対する抗体が出来る。

 腸内細菌が持っている抗原に対する抗体が出来ることにより血液型の反応が出るのだが出生直後はまだ抗体が少ないから反応が弱い。

 そのため検査で間違えることがあるのだ。

 輸血が必要なわけでもないなら出生時の検査は簡単にするだけなので後で再検査をしたら間違っていたというケースは意外とあった。


「政夫氏みたいにきちんと検査を受けてれば説明されたんだろうがな」

「…………」

「それより、ずっと疑問だったんだが……政夫氏を殺させたのも遺産が理由か?」

「言い掛かりだ! 政夫の事件まで私のせいにされてたまるか!」

「本当に関係ないか?」

「当たり前だ!」

「そうか、なら心配ないな」

「ああ、そうだ。逮捕なん……」

「闇サイトの仕返しの方だ」

 紘彬の言葉に剛が、ぎょっとした表情を浮かべる。


「政夫氏一家殺害事件の実行犯の一人は河野満夫。河野に政夫氏の家を襲うように指示したのが遠藤勇二。その二人を逮捕した」

「知らん」

「ネットでは匿名だったからな」

「私じゃないって言ってるだろ!」

「じゃあ、〝あんたじゃない誰か〟でいいよ。〝あんたじゃない誰か〟が闇サイトの指示役に政夫氏は会社の社長で大金持ちだと吹き込んだ」


 政夫は高級品を取り扱っている会社の役員で裕福で高級外車に乗っていると。

 金融機関を信用していないから自宅に多額の現金や高価な宝石が多数置いてあるとも。

 政夫氏の会社の倉庫には高級品が大量に置いてある、と言って倉庫の暗証番号を教えた。

 闇サイトの指示役が、試しにその倉庫にバイトを行かせてみると教わった暗証番号で中に入る事が出来、聞いたとおりの商品が大量に置かれていた。

 盗み出した物は高く売れた。


 遠藤がコンピュータに詳しい小林次郎に指示して政夫の資産状況を調べさせると確かに預金額は少ないし株などの金融資産もほとんどない。

 ならば自宅に保管しているという事だ。

〝誰か〟は田中はケチだからセキュリティ会社とは契約しておらず、セキュリティ会社のシールは防犯のために貼ってあるだけだとも言った。

 遠藤がバイトの一人を下見に行かせると教わったとおりの車種の高級外車が車庫に止まっていた。


 もう一度盗みに入ろうとしたら暗証番号が変更されていたので〝誰か〟に聞くと新しい暗証番号を教えてくれた。

 そのとき〝誰か〟は、一家三人を全員を殺してくれるなら家にある金庫の暗証番号を教えると言った。

 その金庫の中の金品が殺しの依頼料だと。

 暗証番号を教えるのは家に入って全員殺害した後だと言われたから、〝誰か〟に金庫の場所や暗証番号を聞くにしろ、田中政夫から聞き出すにしろ外車が車庫に止まっていて政夫が在宅しているときに押し入る必要がある。

 それで遠藤は河野達に指示して車庫に車が止まっている時に田中政夫の家に押し入らせた。

 だがいざ押し入ってみたら金庫は無い。


 巧妙に隠してあるのだと思って口を割らせようと暴行したものの、本当にないと言うばかりなので河野の連絡を受けた遠藤が〝誰か〟に電話を掛けて、殺したから金庫の場所と暗証番号を教えろと言ってスマホのカメラで政夫達の映像を見せると電話が切れてしまい、何度掛け直しても出なかった。

 そのうちに玄関を開ける音がして河野達は何もれないまま逃げ出した。


 河野達の報告を聞いた遠藤が〝誰か〟に再度連絡を取ろうとしたものの電話は通じずアカウントは消されていた。

 そして強盗事件のニュースで田中政夫は偶然社名と同じ名字だったと言うだけの一社員に過ぎなかったと知った。

 金を払わずに田中政夫一家を殺させるために政夫が勤めていた会社の倉庫の暗証番号を教えて金持ちだと誤解させたのだ。


 一杯食わされたと気付いて激怒した黒幕は躍起やっきになってだました者を探させた。

 最初の指示役は小林次郎で、彼は〝誰か〟の身元を突き止めていた。

 小林は殺されてしまったから情報はまだ黒幕の手に渡っていないし、小林のデータの中にある事も知らない。


「けど遠藤がやった犯罪の証拠のいくつかは小林が残したデータに入ってるから裁判で公開される。そうなれば当然〝誰か〟の身元も黒幕の耳にも入るぞ」

 紘彬の言葉に剛の顔がこわばる。

「闇サイトは暴力団がやってる大規模な組織だし、黒幕はまだ捕まってないからな」

「う、嘘だ」

「だから、嘘なら怖がる必要はないだろ。だましたのがお前じゃないなら……」

「お、俺の名前が出たとしてもそれは俺の名をかたったんだ」

 剛が紘彬を遮って言った。


「SNSで本名なんか使わないだろ。それも犯罪を依頼する時に。どっちにしろ田中剛なんて同姓同名がいくらでもいるんだし」

「なら……」

「SNSのアカウントは作るのにスマホが必要だろ。捨てアカウント作成用に格安スマホを買ったんだろうが、格安だろうとスマホの購入には身分証が必要なはずだ。免許か何か、本人確認が出来るもの見せなかったか?」

 紘彬の言葉に剛が息を飲む。

 どうやらスマホの持ち主までは辿たどられないだろうとたかくくって身分証の偽造まではしなかったようだ。

「小林はその情報を突き止めたが、お前じゃないなら仕返しの心配する必要はないな」

 剛の顔が引きる。


 おそらく政夫は商品の事を何気なく口にしてしまったのだろう。

 剛とは業種も違うし他人に漏らすとは思わなかったのだ。

 仮に漏らされても置いてある倉庫の暗証番号を知らなければ侵入出来ないから商品が搬入された事は言っても問題ないと思ったのだろう。

 もしくは政夫は剛に言った事を忘れていたのかもしれない。

 雑談の最中に、ぽろっと言ってしまったのなら口を滑らせたことに気付いてなくても不思議はない。

 だが剛はその情報が利用出来ると考えた。


 闇サイト強盗の組織に政夫が高級品を扱っている会社の役員だと信じ込ませれば殺させる事が出来るだろうと。

 政夫について教えた事が正しければ、他の情報も間違いないと信じると考えたのだ。

 それで闇サイトの指示役を騙した。

 信憑性を増すために政夫から駐車スペースを借りた。

 そして倉庫の暗証番号を教えた。

 キーを押して入力するタイプの簡単なもので、書斎にメモがあったから政夫の家を訪問した時にこっそり部屋に忍び込んでそれを盗み見たのだろう。


 駐車スペースを借りているなら家の中に入る機会はいくらでもあったはずだ。

 それを闇サイトの指示役に商品の置き場と共に教えた。

 指示役がバイトに暗証番号を教えて倉庫に行かせると実際に商品が積まれていた。

 それで闇サイトの指示役は〝誰か〟の言ったことを信じて強盗に入ったのだ。


 不確定要素は多いが、今は特に金に困っているわけではないから成功すれば儲けものという程度だったのだろう。

 闇サイトのことを報道で知って遺産の取り分を増やせたらラッキーくらいの思い付きだったのだ。

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