第六章 涙雨

第六章 涙雨なみだあめ


 紘彬は杉田と共に田中陽平の家を再訪した。

 如月も団藤の指示で同行した。

 口実としては田中陽平夫妻の様子の見落としがないようにと言う事になっているが、杉田では紘彬を押さえられないからなのは容易に想像が付く。

 紘彬が空気を読まない不謹慎発言をしないようにするためのお目付役なのは明らかだ。


 あらかじめ連絡をしていたらしい。

 杉田がチャイムを鳴らすとすぐに田中陽平の妻、昌子が玄関のドアを開けた。


「杉田さん、娘の事でご足労を……」

 昌子はそこまで言って紘彬と如月が杉田の後ろに立っているのに気付くと口をつぐんだ。

「どうして刑事さん達が……」

「あ、彼は医学に詳しいのでDNA鑑定の専門的な質問に答えられるように一緒に来てもらいました」

 昌子は鑑定に関する技術的な質問をする気はない、と言いたげな表情を浮かべたが、それでも杉田と共に紘彬達も中に通した。


 リビングで田中陽平夫妻と杉田、紘彬、如月がソファに座った。


尚子むすめが見付かったと聞きましたが」

 陽平の問いに杉田は失踪届が出された日の晩に起きた火事の焼け跡から見付かった焼死体がDNA鑑定結果の尚子だと判明したと告げた。

「当時もDNA鑑定はあったでしょう。なぜ今になって……」

「ご遺体がAB型で……AB型とO型のご夫妻のお子さんのはずがないという思い込みで……」

「そう思い込んでたのに今頃再鑑定した理由はなんなんですか?」

「それは……」

 先輩に逆らえなかったとは答えづらい杉田が言い淀む。


「技術が進歩して以前は鑑定に使えなかったものが使えるようになったからです」

 紘彬が代わりに返答してロシア皇帝の話をした。

「ニコライ二世は来日した時、警察官に斬り付けられてケガをしました」

 大津おおつ事件と呼ばれる日本を揺るがした大事件である。

 そのときニコライ二世の着ていたシャツや手当に使われた布など血痕が付いているものが博物館などに保管されていた。

 にもかかわらずミトコンドリアDNAで鑑定したのは九十年代の技術では布に付いた血痕ではDNA鑑定が出来なかったからだ。


「しかし二〇〇七年に、未発見だったニコライ二世の子供らしき遺体が発見された時はシャツに残っていた血痕からDNAを採取して親子鑑定することが出来ました」

 紘彬がそう言うと陽平は納得したようだった。

 九十年代の時はニコライ二世の五人の子供達のうち二人の遺体は発見されていなかったため、未発見の息子と娘は生きているのではないかと世界的な噂になり、皇帝の息子や娘を自称する人がいたりフィクション作品がいくつも作られていて有名だったから聞いた事があったのだろう。

「仮に血が繋がっていなかったとしても部屋で採取したDNAと一致すれば娘さんという事ですから」


 まともなことも言えるのになんで空気読まない発言するのかな……。


 如月は紘彬を横目で見た。


 数日前に鑑識が娘の部屋を隈なく探し回っていたからか、陽平は紘彬の説明に納得した表情を浮かべた。


「犯人は分かっているんですか?」

「身元が分からなかったから逮捕されてもこちらに連絡が無かっただけという事は……」

 田中夫妻が捜査について矢継ぎ早に訊ねてきた。

 杉田がしどろもどろに答えている。

 火災は間違いなく失火で、ビルに入っていたテナントやオフィスの関係者に聞いても周囲に行方不明者はいなかった。

 火事ともビルとも関係ない上に、遺体は燃えてしまっていて他殺と断定出来るだけの痕跡は残っておらず、不審な点は火事が起きる前に死んでいたと言うことだけだ。

 着衣が焼失し、持ち物も見付からないとなると手懸かりを探すのは困難を極める。

 そのため新しい事件が起きる度に優先度が下がっていき、その結果、今に至るまで未解決だった。


 杉田と田中夫妻が話している間に、紘彬は部屋の中を見回して前回来た時に引っ掛かったものに気付いた。

 棚に置いてある写真立てに入った白黒写真だ。

 立ち上がって棚の前に行くと写真立てを見下ろした。


 如月も隣に行って写真に覗き込む。

 若い男性と赤ん坊を抱いている若い女性と五歳くらいの子供が写っている。

 背後に古い建物が建っていて看板に『峰ヶ崎』と書いてあった。

『崎』から後は見切れてしまっていて何の会社かは分からない。


 この写真、なんか見覚えがあるような……。


 如月は首をかしげた。


「これは?」

 紘彬が写真をして陽平に訊ねた。

「政夫が生まれた時に私の会社の前でった写真です」

 陽平の意識が尚子かられた事で杉田がホッとした表情を浮かべる。

「なら赤ちゃんが政夫さんで、この男の子が剛さんですか」

「ええ」

「社名って自分の名字を付けるとは限らないんですね。命名の決まりとかあるんですか?」

「いや、うちの社名は創業者の名字ですよ。前社長が亡くなった後、私が引き継いだんです」

「うちは武士の家系だったので跡継ぎは自分の子なんですけど、商社は子供がぐとは限らないんですね」

 紘彬が写真を見詰みつめたまま言った。

「それは会社によりますけど、うちの場合は前社長の奥さんが儂に任せると言ってくれて……」

「会社のことをよく知ってる田中さんにお願いしたんですね」

「ええ、まぁ」

 田中が照れくさそうに頭をいたが紘彬は写真から目を離さなかったので見ていなかった。


 その日も紘彬と如月は桜井家で飲むことになった。

 坂を下りきって住宅街の入口に差し掛かった時、紘一の姿が見えた。


「あ、兄ちゃん、如月さん」

 紘一が二人に声を掛けてきた。

「蒼ちゃん、面会出来るようになったって言うからお見舞いに行こうと思って」

「そうか、気を付け……」

「一緒に来てくれる?」

「分かった」

「じゃあ、自分は帰……」

「待って、如月さんにも来てほしいから待ってたんだ」

 紘一が引き止める。

「見ず知らずの俺が行ってもいいの?」

「如月さん、励ますの上手いから。兄ちゃんは空気読めないし」

「おい」

 紘彬がむっとした表情になった。

 如月が苦笑する。

「役に立てるか分からないけど、それでもいなら」


 三人が病室に入っていった時、蒼治は上体を起こしてスマホを見ていた。


「蒼ちゃん、大丈夫」

「紘一、紘兄……えっと」

 最後に入ってきた如月に気付いた蒼治が訊ねるように紘彬と紘一に視線を向けた。

 紘一が如月を紹介し、互いに挨拶を交わす。

「紘兄の同僚ってことは事件の話を聞くため?」

「あ、そうじゃなくて……」

「たまたま紘一と会ったからいてきただけだ」

 紘彬はそう言って蒼治のカルテを手に取った。


「そっか」

「蒼ちゃん、具合は? 傷は痛む?」

「痛みなんか……。真美のことを思えば……」

 蒼治の悔しさがにじむ声で答える。

「もし、あのとき紘一がいてくれれば真美も助かったかもしれないのに……」

 蒼治の言葉に紘一が目を伏せた。

「ごめん、八つ当たりだよな」

 蒼治がすぐに謝る。

「気にしなくていいよ。つらいのは蒼ちゃんなんだし」

 紘一が慰めるように言った。


「……もっと戦えば良かった。せめてケガさせることが出来れば血痕で身元が分かったかもしれないのに……あの時、なんとかして犯人に立ち向かってれば……」

「事件の時、どこにいた? 何をしていた? 何があった?」

 紘彬が立て続けに質問した。

「ちょ、兄ちゃ……!」

 とがめようとした紘一を如月が片手を上げてめる。

 紘一が口を噤んだ。

 紘彬が蒼治に答えを促す。


       二


 蒼治は真美の両親に紹介された後、リビングで真美の父――政夫と話をしていた。

 緊張していて何を言ったかはよく覚えてない。

 真美の母は台所にいた。


 その時、チャイムが鳴り真美が玄関へ向かった。

 玄関を開ける音が聞こえてきたかと思うとしばらくして複数の足音が聞こえてきて男達がリビングに乗り込んできた。

 最後に入ってきた男が真美の腕を掴んでいた。

 真美は縛られ、ダクトテープで口を塞がれていた。


「真美!?」

「なんだ、お前達は!」

 蒼治と政夫が叫んだ。


 蒼治は思わずソファから立ち上がり掛けたが頭に棍棒のような物が振り下ろされた。

 咄嗟とっさに腕で頭をかばったが防ぎきれず肩を強打された。

 衝撃で蒼治はその場に倒れた。

 床に転がるのと同時に肩がひどく痛み出した。

 フローリングの床に何かが落ちる音がして、そちらに目を向けるとキーホルダーが転がっていた。

 男がキーホルダーを素早く拾い上げる。

 よその部屋から重い物がぶつかる音と短い悲鳴が聞こえ、いで床に重い物が倒れる音が聞こえた。


「話が違うじゃねぇか。一人多いぞ」

 男の一人がそう言いながら政夫を縛り上げてダクトテープを貼った。

「金庫も無いぞ!」

 廊下から入ってきた別の男が言った。

 家の中を見て回ってきたらしい。

 男は政夫の口からダクトテープをがすと、

「金庫はどこだ!」

 と怒鳴った。

「うちにそんなものは無い!」

 政夫が答えると、

「娘がどうなってもいのか!」

 男が大声で言った。

 真美の側にいた男が棍棒を振り上げた。

「やめろ!」

 蒼治は痛みをこらえながらなんとか身体を起こそうとした。

 しかし別の男に思い切り蹴飛ばされた。

 胸に強い衝撃を受け、骨が折れる音がしたかと思うとテーブルの角に頭をしたたかに打ち付けられ、一瞬意識が飛んだ。

 倒れたまま動いてないのに視界が激しく揺れ動いていた。

 男が真美に棍棒を振り下ろす。

 真美の頭から鈍い音が聞こえ、彼女はそのまま動かなくなった。


「真美!」

 政夫が叫んだ。

「金庫の場所を言え!」

 男が再度真美に向けて棍棒を振り上げた。


 真美……!


 助けなければ、そう思って焦るが強烈な痛みと眩暈めまいで身体が動かない。

 徐々に視界がかすんでいく。


「ホントに無いんだ! うちはそんな金持ちじゃない!」

「嘘くな! 高級外車が止まってるじゃないか!」

「あの車は……」

 政夫の言葉の途中で蒼治は意識を失った。


「殺されるかもしれないって思ったら怖かった。それで動けずにいたら、そのまま気を失っちゃって……」

 蒼治がベッドの上に下ろした手の中のスマホ画面には蒼治と真美の写真が写っていた。

 俯いた顔の下のシーツに水滴が落ちて染みが出来る。

 紘彬が再度カルテに視線を落とした。


「無理に動いてたら折れた肋骨が肺にさってたら死んでたかもしれない。ひど脳震盪のうしんとうを起こしてたから、もう一度殴られていても死んでた」

 脳震盪を起こした直後に再度衝撃を受けると致命傷になることがある。

「そんな状態じゃ、腕に覚えがあったって素手で出血するようなケガをさせるのは無理だ。本気で逮捕して欲しいなら重傷で立ち向かって無駄死にするより、生きて証言する方がずっと役に立つ」

 紘彬が淡々と言った。

 蒼治は黙って肩を震わせていた。


「君が生きているお陰で犯人の逮捕が早まるかもしれないよ。君の話でようやく何が起きたか分かったんだし、早く犯人を逮捕出来ればこれ以上被害者を出さなくてむんだよ」

 如月が優しく声を掛けた。

 次々に涙が落ちてシーツが濡れていく。


 しばらくしてから蒼治が顔を上げた。


「……あの、俺、なるべく事件のこと思い出してみる」

「そうしてくれると助かるよ」

 如月がそう言うと、

「なら、事件のニュースはなるべく見たり聞いたりしないようにしてくれ」

 紘彬が言い添えた。

「え?」

「人間の記憶っていうのは変質しやすいんだ。ニュースとかで証言を何度も変えたってよく言ってるだろ。あれは必ずしも嘘をいてたからとは限らないんだ」


 事故にしろ事件にしろ、何かが起きるとは思ってない時、大抵の人間は周りのことに注意を払っていない。

 その為はっきりと覚えていない事は珍しくないし、当事者も周囲を観察している余裕がない事が多い。

 目撃者への事情聴取の時、逃げた犯人の帽子の色を覚えていますか? と聞かれると何も被ってなくても帽子を被っていたような気になってくる。

 事件だと知った後で走っていく人間がいたことを思い出したような場合、よほど奇抜きばつな格好でもない限り曖昧な記憶しかないからだ。

 他の目撃者が帽子を被っていたと言っている、などと言われると、もしかしたら帽子を被っていたのかもしれないと自信が揺らぐ。

 その時に「赤ですか? 青ですか?」と聞かれると、つい「赤」です、と答える事はよくある。

 確認のために「赤で間違いないですね」と聞かれると赤だったような気がしてくる。

 そして最終的にそれが赤だったという確信に変わる。

 記憶というのはそれくらい不確かなものだから質問するとき不用意に答えを誘導することを聞いてはいけないし、逆に自分達に都合のい答えを誘導したい時にこういう手を使うことがある。

 何も警察や検事だけではなく弁護士も自分の側に不利な証言をする証人に対して使ったりする。

 逆に何度聞かれても全くブレなかったり、複数の人間が細部に至るまで全く同じ事を言ったりするのは事前に用意していた証言の可能性が高いから疑わしいのだ。


「人の話やニュースを聞くと先入観や思い込みで記憶が変容するから正確に思い出したいならなるべく聞かないようにしてくれ」

「分かった」

 蒼治が真剣な面持ちで頷いた。

「あ、でも、警察の事情聴取では聞かれた事ちゃんと話してね」

 如月が念のため言葉を添えた。


「如月さん、ありがと。やっぱり一緒に来てもらって良かった」

 紘一が礼を言うと、

「まるで俺が役に立たなかったみたいな言い草だな」

 紘彬がむっとした口調で言った。

「兄ちゃんは空気読まないし言葉選ばないだろ」

「なんだと」

「まぁまぁ」

 如月は紘彬と紘一の間に割って入った。

「俺で役に立てたなら良かったよ。他にも何か出来ることがあったら遠慮なく言ってね」


       三


「やはり田中政夫一家殺害も手口は闇サイト強盗に似てるな」

 朝の捜査会議で団藤が言った。

「しかし、色んな点でに落ちないことが多いですね」

 飯田が言った。

「それなんだ。小林次郎も田中政夫一家殺害も闇サイトと関係があるか早急に調べてくれってお達しだ」

 捜査会議が終わると紘彬達はそれぞれ聞き込みに向かった。


 その日も紘彬と如月は、桜井家で飲むことになった。

 家に入っていくと紘彬の祖父がリビングのソファに座っていた。

 紘彬はリビングの前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。


「なぁ、祖父ちゃん、曾祖父ちゃんから戦友の話聞いてるか?」

 祖父に声を掛ける。

「いや、戦時中の話はしたがらなかったからな」

「戦後のことは? 戦友と戦後も会ってただろ。何か聞いてないか?」

「ないな」

「祖父ちゃんが耄碌もうろくして覚えてないんじゃなくて?」

「桜井さん!」

 如月がたしなめた。

「焼け野原になった東京で生活を立て直すのは大変だったんだ! 悠長に同窓会なんかやってる余裕なんかない!」

 祖父の言葉にそれ以上は無駄だと悟った紘彬は部屋に足を向けた。


 如月が後に続こうとした時、

「イヤだわ、また絡まっちゃった」

 紘彬の祖母の声が聞こえてきて振り返った。

 カセットデッキからカセットを取り出そうと苦戦していたが、テープが機械に引っ掛かってしまっているようだ。


「見せて頂けますか?」

 そう言って如月が側へ行くと祖母は場所を空けた。

 如月がカセットテープの機械を調べ始める。

「今時カセットなんて古いだろ……って言っても昭和のものじゃデジタル音源も出てないか」

「カセットやビデオをデジタルデータに……」

 如月が不意に口をつぐんだ。

「どうした?」

「あ、いえ、データをデジタルに変換してくれるサービスがありますよ。調べて桜井さ……警部補にメモをお渡しします」

「最近の機械は……」

「再生だけなら難しくないですよ。分からない時は自分がお教えしますから」

 如月はテープをカセットデッキから取り外すと片方の穴にボールペンを差し込んで丁寧に巻き取り、たるみのない状態に戻して祖母に手渡すと紘彬に向き直った。


「あの、思い付いた事があるので署に戻ります!」

 如月はそう言うと家を飛び出した。

 紘彬が後に続く。


 如月は鑑識に向かうと証拠品の入った箱を取り出して中を取り出し始める。


「これです!」

 如月がカセットテープの入った証拠品袋をかかげて見せる。

「フロッピーディスクは目眩めくらましとヒントだったんですよ」

「どういう意味だ?」

「追っ手には八インチフロッピーディスクにデータが入ってると思い込ませた上で、本当に渡したい相手には隠し場所が推測出来るようにと……」

 如月は勢い込んで言った。

 紘彬は手をげて待ったを掛ける。


「渡したい相手って誰だよ」

「さぁ? それはデータを解析してみないと……」

「それにデータが入ってるのか?」

「これかどうかは分かりません。でもカセットテープのどれかに入ってるはずです」

 フロッピーディスクよりカセットテープの方が記録出来る容量が多い。

 パソコンの破壊はフロッピーディスクドライブではなくカセットテープに記録する装置を隠すためだったのだろう。

 八インチのフロッピーディスクを知っている者なら当時はカセットテープに記録していたことも知っているはずだ。


「じゃあ、これ全部調べなきゃいけないのか。鑑識は大変だな」

 紘彬が大量のカセットテープを眺めながら他人事ひとごとのように言った。

 カセットテープの山を前に青ざめている鑑識を横目で見ながら如月は密かに同情した。


 鑑識じゃなくて良かった……。


 と思いながら。


 翌朝の捜査会議で団藤が聞き込みをそれぞれに割り振った。


「今夜は田中政夫一家の通夜で明日は葬儀だ。上田と佐久は通夜に、俺と飯田は明日の葬儀に出席する」

 手口が闇サイト強盗に似てるとはいえだ断定されていないし家族全員が撲殺されている事を考えると怨恨の線も有り得るから出席者の様子を観察しにいくのだ。

「今日は定時に帰れないのか……」

 上田が溜息をいた。

「通夜ってなんで夜なんスかね」

「生き返った時の為だよ」

 紘彬が答える。

「え!? 生き返る事があったんスか!?」

「迷信だろ」

 上田が言った。

「確実に死んでるって明白な外傷――首を切り落とされてるとか、頭蓋陥没で脳が飛び散ってるとか腹部を裂かれて内ぞ……」

「桜井、細かいとこははぶいていい」

「病気とか川でおぼれたとか、そう言うのは死んだと思ってただけで息を吹き返す事が珍しくなかったんだよ。だから念のため一晩様子を見てたんだ。められた後に息を吹き返すと悲惨だからな。死ぬまで藻掻もが……」

「桜井、そこまで」

 団藤に止められた紘彬が残念そうに口を閉じた。

「てっきり死者にお別れを言うためだと思ってました」

「そう言う意味合いもあっただろうけどな。とむらうための心の準備とか」


 紘彬と如月は聞き込みのために外に出た。


「あの、蒼治君はまだ入院中ですよね」

「ああ」

「じゃあ、お通夜やお葬式は……」

「外出許可が出れば行けるだろうが……」

 紘彬は言葉を切ると黙り込んだ。


 昼食時、刑事部屋でデリバリーを待ちながら紘彬は曾祖父の日記を見ていた。

 上田達も刑事部屋にいて各々食事をしている。

 TVでニュースが流れている。


 紘彬は日記を机に置くとスマホを取り出して操作し始めた。

 テロ対策会議のニュースで画面に車から降りてきて建物に入る警視総監の姿が映る。


「ああ、これから会議か」

 TV画面を見た紘彬はスマホをポケットに戻した。

「警視総監に電話しようとしてたんですか!?」

 如月が声を上げる。

「警護の警察官だろ」

 上田が言った。

「いや、警視総監。俺の曾祖父ちゃんの戦友の孫だから」


 桜井さんに警察官になるように勧めてた人って警視総監のお父さんだったのか……。


 紘彬にすごいコネがあると言う話は聞いていた。

 元は法医学者を目指して医学部を卒業して就職先も内定していたらしい。

 だが、ある人に警察官になるように誘われた紘彬は就職先の内定を蹴って国家公務員試験を受けて合格し警察官になる事が決まった。

 しかし警察官になる直前に警察絡みの不祥事に巻き込まれた。

 紘彬自身は事件とは無関係だったのだが本来なら警察官になれないところだったそうだ。


 別にどうしても警察官になりたかったわけではないし、医師国家試験に通ってるから当初の予定通り医者になるか、と考えて臨床研修先の病院も決めた。

 しかし、ここで紘彬の曾祖父の戦友の息子が出てきた。

 元々その人は紘彬が小さい頃から警察官になるように熱心に勧誘していたらしい。

 その人が紘彬はキャリア組からは外れると言う条件で関係各所に目をつぶってくれるように手を回した。

 当の紘彬はもう医師になる気になっていたが、借りを作りまくって無かった事にしてくれた人に医者になります、と言い出すのは気が引けた。

 しかも臨床研修先の病院はバスと電車を利用しての通勤が必要だった。

 紘彬はバス通学が嫌で大学へはトレーニングを兼ねて走って通っていたというくらいラッシュ時のバスや電車に乗るのが嫌いらしい。

 それで、勤務先を家の近くの警察署にしてくれるなら、と言う条件を出したら自宅から徒歩で通勤出来るここの署に配属してくれると言われたらしい。

 それで医師より警察官を選んだのだ。

 これが紘彬のすごいコネである。

 今の警視総監は戦友の孫、手を打ったのは息子と言っていたから親子二代に渡って警察官僚なのだろう。


       四


「桜井さん、今日は柔道の稽古に行くんですよね?」

 如月が退勤時間になっても席に座ったままの紘彬に訊ねた。

「ああ。電話したら行く。もう仕事は終わってるよな。官僚は残業なんかしないだろうし」

 紘彬がスマホ画面を操作しながら答えた。

「すると思いますけど……」


 警視総監に掛けるのか……。


「それじゃ、お先に失礼します」

 如月の言葉に紘彬はスマホを耳に当てながら「お疲れ」というように軽く手をげた。


 紘彬が建物の外に出ると、ぽつぽつと雨が降ってきた。

 大した降りではないし稽古場はすぐ近くだからとそのまま歩き出す。

 今頃は真美の通夜が執り行われているだろう。

 蒼治のシーツを濡らした水滴を思い出した。

 あの時の蒼治の涙のようだ。


「涙雨……か」

 紘彬は空を見上げて呟いた。


 朝の捜査会議が始まると、

「如月、お手柄だ」

 団藤が言った。

「え?」

「カセットテープの中から闇サイトに関するデータが出てきたそうだ」

「そうですか」

「随分早かったな。あれだけ大量にあったのに」

 紘彬が感心したように言った。


 鑑識、夕辺は寝てないかも……。


 如月は鑑識に同情した。


「まだ全て解析出来たわけじゃないんだが、とりあえずカセットにデータが入っていたと言う事は判明した」

「鑑識、徹夜?」

 紘彬が訊ねた。

 如月と同じ事を考えたらしい。

 もっとも、同情している様子はないが。

「そうらしい。闇サイトのデータが出てきたんで警視庁が引き継ぐ事になった」

「じゃあ、小林次郎の事件は終わり?」

「そうなるな。殺害については斉藤が犯行を認めてるし」

「なんでいつも捜査はこっちで美味しいとこは他所よそが取ってくんだよ」

「凶悪犯とやりあうのは警視庁むこうの仕事になったって事ですよ」

「警視庁グッジョブ!」

 紘彬が親指を立てた。

 如月が苦笑する。


「電話回線がなかった理由は分かったんですか? ネット会議とかもしてたのに」

「どうやら近所の家の無線LANを勝手に利用していたらしい」

 如月は納得して頷いた。

 普通は他人の家の無線ルーターを使うことは出来ないのだがセキュリティを破って勝手に利用する者がいる。

 万が一発信元を辿たどられたりしても突き止められないようにするためで、実際犯罪とは無関係の人の無線LANがサイバー攻撃犯に利用されて警察に疑いを掛けられた事例がある。


「だから今日から桜井と如月は……」

 団藤が一通り聞き込みの場所を割り振った。

 それが終わると紘彬は如月と共に立ち上がった。


「まどかちゃん、杉島巡査部長に捜査書類送ってくれるように頼める?」

 戸口から出ようとした紘彬が振り返って言った。

「誰だ、それは」

 団藤が面食らった表情で聞き返す。

「杉田巡査部長です。DNA鑑定の話を聞きにいらした」

 如月がこめかみを押さえながら答える。

 団藤が「なんだ」という表情になった。

「捜査書類って、田中陽平の娘のか?」

 団藤が訊ねた。

「そう」

「分かった、管轄署に要請しておく」

「頼んだ」

 紘彬はそう言うと如月と共に刑事部屋を後にした。


「紘ちゃん」

 紘一が校門を出ると桃花が声を掛けてきた。

「桃花ちゃんも帰り? 偶然だね」

「うん」

 本当はスマホを見ている振りで待ち伏せしていたのだがそれを教える気はない。

 二人は並んで歩き出した。

「蒼治君、どうしてるか聞いてる?」

「確か、そろそろ退院のはずだけど」

「そっか。お見舞い行った?」

 桃花の問いに蒼治の見舞いに行った時のことを話した。

「きっとすごく悲しいよね」

 桃花はそう言うと目を伏せた。


 二人が紘一の家の近くまで来た時、蒼治がいるのが見えた。


「あ、蒼治君」

「蒼ちゃん、退院したんだ。良かったね」

「うん、見舞いの時はまなかった」

 蒼治が紘一に謝った。

「気にしなくていいよ」

「蒼治君、その……」

 桃花が「退院おめでとう」と言っていいのか分からず躊躇ためらっているのを見ると、蒼治は微笑わらって、

「サンキュ」

 と言った。

「それじゃ、私は帰るね」

 蒼治が紘一と二人だけで話したそうにしているのを察した桃花は別れを告げると自宅に足を向けた。


 桃花の姿が見えなくなると、蒼治は紘一に向き直った。


「紘兄から捜査について何か聞いてるか?」

「え?」

「犯人が分かったかとか……」

「それはまだみたい」

「もし手懸かりを掴んだって聞いたら教えてくれないか? それか目星が付いたら」

 蒼治が真剣な表情で言った。

 おそらく復讐を考えているのだろう。


〝復讐しても彼女は帰ってこない〟

〝そんな事をしても彼女は喜ばない〟

〝蒼治が逮捕されたら家族が悲しむ〟

〝暴力でやり返したら犯人と同じになる〟


 そんな、ありきたりな台詞ならいくらでも思い付く。

 けれど、そんなことは言うまでもない。

 蒼治だって百も承知だ。

 それでも、サッカーと同じくらい大切な存在だった彼女だ。

 何かしないと気がおさまらないのだろう。

 第三者からしたら無意味な行動でも当人にとっては意義があるのだ。


「教えてくれるか分からないけど、兄ちゃんに聞いてみる」

「すまん」

 蒼治はそう言って頭を下げると帰っていった。

 紘一は黙ってその背中を見送った。

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