恥ずかしがり屋の文庫本の冒険
小石原淳
第1話 かくれんぼする文庫本たち
* *
東日本一円に展開する大型書店「ゼーダ」は、不景気のご時世に健闘していると言えた。緻密なリサーチ後の新規出店、人気作家や漫画家、タレントを呼んでのイベント開催、新古書店に対抗すべく開発したサービス――漫画のカバー五冊分及びそのレシートをレアグッズと交換する――等の企業努力が報われていた。
そんなゼーダでも、夏真っ盛りの午後ともなると、客足は途絶えがちになる。
レジを任された梶尾は椅子に座り、欠伸を噛み殺した。店内に客がいない訳ではないが、買う人がいない。注文票の整理が終わると、特にすることがなくなった。あとは防犯カメラのモニター映像を、ちらちらと見るくらい。と、その四分割され画面の一つに目を止めた。ショートヘアの前髪を手で敢えて起こし、視界をよくしてから画面に顔を近付ける。
向かって右下の画面に注目することは、あまりない。文芸書の類を置いたコーナーを映すのだが、他の三画面――漫画コーナー、雑誌コーナー、辞書や専門書のコーナーに比べると、万引きの被害が少ないためである。少なくとも、梶尾がいるときに文芸書コーナーで万引きが起きたことは一度もない。
そして今、梶尾が意識を向けたのも、客の万引きらしき行動を見たからではなかった。挙動不審には違いないのだが、明らかに万引きではない。
「何してるのかしら?」
思わず、つぶやいていた。しばらく見守る。
白黒画像の主役は中年男性。身なりはきちんとしたスーツ姿で、足下に黒っぽい縦長の丸バッグを置いている。やや薄くなった頭と眼鏡が目を引くが、梶尾は見た覚えがなかった。
男性は文庫本の棚の前に立っていた。その一角に手を伸ばし、一冊引き出しては、またすぐに戻すという行為を繰り返している。
探している本があるのなら、わざわざ引き出さなくても、背表紙で題名が分かるはず。値段を確かめるにしても、やはり背表紙を見れば印刷してある。粗筋を読むためにしては、手にしている時間が短すぎた。
「梶尾さん。僕、一部入れ替えを始めようと思うから、引き続いてレジ、頼むよ」
背後の扉が開き、顔を覗かせたのは、正従業員の
「あ、篠井さん。少しだけ、レジをお願いしたいんですけど、いいですか」
「何かあったのか?」
ドアの向こうに戻りかけていた篠井は、すぐさま近寄ってきた。察しよく、モニターを覗き込む。梶尾は問題の画面を指差した。
「こちらのお客様が、ちょっと気になって……私、聞いてきますね」
「ああ、それなら僕が。何を見たのか、話してくれ」
「時間がありませんから、私が」
篠井の声を吹っ切り、梶尾はカウンターの仕切りを開けて、売場スペースに出ると、文芸書の文庫コーナーに急いだ。
「お客様」
営業スマイルを作ってから、穏やかな調子で呼び掛ける。
中年男性はびくりとして手を止め、身体ごと振り返った。右腕だけは文庫本を本棚に押し込もうとする格好のままだ。
「どうかなさいましたでしょうか」
「ここの店員ですね?」
外見からは想像しがたい高い声で、男性は言った。梶尾がはいとうなずくと、相手は続いて顎を振って本棚を示した。
「これは何なのか、説明をしてもらえませんか。気になって仕方がなかったんですが」
男が示したのは、三段ある棚の一番上、その左詰め。
よく分からない成り行きに梶尾は小首を傾げたが、棚の本の状態を見て、思わず「えっ?」と声を漏らした。
文庫に限ったことではないが、本は作者名の五十音順に並べてある。そして同じ作者でも出版社ごとにまとめている。通常、ある作家がある出版社から出す文庫本は何作品になろうとも、背表紙の色合いが統一されるものだ。だから当然、棚のあちらこちらには色の固まりができることになる。
だが、梶尾がたった今、目の当たりにしたのは、白の固まり。白色の背表紙がない訳ではない。異様なのは、題名も作者名も、何の字もそこにない点だ。
「これ……」
指先で触れて、その白いのは、背表紙とは反対側の裁断面、小口と呼ばれる箇所と確認する。文庫本何冊かが、反対向きに入れられているものと分かった。
「これ……」
同じフレーズを口にしつつ、梶尾は男性客の顔を見た。まさか、お客様がなさったのですかと聞く訳にもいかない。そもそも、相手の質問から考えると、この人も不思議がっているのは確か。
梶尾はモニターで見たことを思い起こした。
そこへ中年男性が再び口を開く。
「私がここに来たとき、真っ先に目に着きました。この角の部分だけ、白くなってたんですから、当然です。一体何だろうと思い、手に取ってみたところ、本が反対向きになっている。最初は無視して通り過ぎたものの、自分で言うのも何ですが、私はどうも几帳面なところがありまして、直したくなった。それでぶつぶつ言いながら、一冊ずつ取り出して直しているところへ、あなたに声を掛けられたものだから、びっくりした」
「びっくり?」
「この店の方針で、反対向きに入れているのかと。それを勝手に直した私を咎めに来たのかと」
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