ゆるふわ美人さんの名前が分かった

 もちろん、三行ももたずに本を閉じた。

 ダメだ、頭がクラクラする。

 翌朝、通勤電車に揺られたとき、座ることは出来なかったが入口付近を確保できた。

 その時、頭の中に浮かんだのは、やっぱり彼女の笑顔だった。最初はパンティだけだったのにな。


「よし、頑張って読んでみるか」


 僕はまた、D・カーネギーの本を読み進めた。

 それからしばらく経って、ようやくその本が半分ほど読めたときのこと。

 会社で外回りになったとき、先に別案件で外出していた田村先輩から連絡が入った。


「わりぃ、園崎。トラブってそっちに間に合いそうにないんだ」

「大丈夫なんすか?」

「新人が余計な心配すんな。そういうわけだから、今日の外回りはお前一人でやれ」

「は、基本は二人でしょ」

「色々電話して回ったんだが、あいにく都合がつかなくてな。わりぃ」

「そんな……。僕まだ入社してニヶ月少しですよ」

「お前ならやれる。最近良くなってきてるからさ。責任はもちろん俺が取らせてもらう。安心してヘマしてこい」

「先輩そんなぁ」

「案件は、メールに送ったから。じゃな」


 突然スマホを切られた。

 頭が真っ白になった。

 ちゃんと商品のことを伝えられるのか? 相手に失礼のないようにビジネス作法が出来るのか?

 まず出来ることからやろう。

 一応、係長にこのことを報告する。

 係長もそのことを了解していたようで、行って来いと言われてしまった。

 会社のパソコンに送れられてきた、先輩からのメールを読む。

 その時、俺の頭はまたまた真っ白になった。


「マジかよこれ……」


 とんでもない営業先に俺は愕然とした。

 その出先とは、あかね古本書店である。

 そう、あのゆるふわ美人な書店員さんがいる店だ。

 できればプライベートだけの付き合いでいたかった。

 ダメダメな営業マンの自分なんて、見せたくなかった。

 最後の希望は、おじいさんが応対してくれることだ。


「いらっしゃいませ。あら?」


 希望は絶望に変わった。なぜ、こんな時に限って昼間に彼女が店番しているのだ。

 僕はとぼとぼと、書店員さんの座るレジに歩いて行く。

 それを見た彼女は、心配そうに聞いてきた。


「どうかされたんですか? 暗い顔されてますよ」

「あ、いや」


 ああ、いけない。

 これは仕事だったんだ。

 営業スマイルを決めなければ。


 僕は名刺を見せた。


「先日お電話した伊勢商事です。営業部の田村はどうしても抜け出せない急な用件が入りまして、私一人でご挨拶に伺いました。申し遅れました、わたくし同じく営業部の園田と申します。この度は、大変申し訳ありません」

「あらあら、それはご丁寧に。お仕事だったんですね。おじいさんから聞いてますよ。今、おじいさんは腰を痛めて病院に言っているんですよ。奥で話しましょうか」

「店番もあるでしょうから、ここでも構いません」

「そうですか? でもお店は今の時間誰も来ませんよ」

「いいえ、こちらで結構ですので」


 いや、奥に行ってふたりっきりになったほうが。

 いやいや、なにを期待しているんだ。そんなの童貞の妄想だから。一○○パーセントありえねぇから。

 書店員さんは、思い出したかのように手を叩いてレジのテーブルの引き出しを開けた。


「あらあら、私ったら。名刺を頂いたのに、こちらの名刺を出さないなんて大変失礼しました。わたし、桐原久美子っていいます」

「久美子さん……」

「いまどき、『子』がつくなんて古臭いでしょ。だから嫌なんですよね」

「そんなことありませんよ」

「あら?」

「『子』は親が生まれた子供に賢く、優れた、優しい子になってほしいという願いが込められています。きっとご両親は、それをお調べになって名付けたのだと思いますよ」

「そんな風に言っていただけたの、園崎さんが初めてです。ありがとうございます」

「あ、いや。こちらこそ、出過ぎたことをしました」


 それから僕は失敗を取り戻すため、精一杯営業をした。

 商品は新しいレジスターだ。


 レジスターというのは、俗的に言えば「レジ打ち機械」だ。

 昔は簡単な計算が出来ていてセキュリティもそこそこで良かったが、今は多機能化が進んでいる。コンビニでよく見かけるレジはほぼほぼ時代の先端を行っているし、店によってレジスターの需要も変わる。だから、ちょっと検索かければびっくりするくらい種類があるのだ。

 そして、伊勢商事が扱っている商品のひとつである。


 先輩がこの店の営業実績を調べてくれて、無理のない値段のものをピックアップしてくれた。

 だけど、僕はそれよりもまず久美子さんの話を聞くことにした。D・カーネギーの本にあった「人の話を聞こう」を実践しようと思ったのだ。


「桐原さんが、今お仕事で必要としているものは何でしょうか。レジスター以外でも構いません」

「ですけど?」

「ぜひお聞きしたいです」

「わかりました。ええとですね」


 僕は手帳を開いて、ペンを走らせた。

 相手の声の調子もメモし、なにをどう伝えたいのか聞き漏らさないようにした。もちろん、レコーダーも久美子さんの許可をもらって回している。

 全て聞き終わった頃には一時間が経っていた。

 久美子さんは、あらあらと立ち上がる。


「いけないわ。お茶も出してないだなんて」

「お構いなく。それよりもこのお店にぴったりのレジスターをご紹介させてください」

「え? あるんですか?」

「はい。自信を持っておすすめできます。ただ、お値段が少々張ってしまいます」

「分かりました。お話だけでも聞かせてください」

「ありがとうございます」


 久美子さんに紹介したレジスターは、先輩が見繕ってくれたものより三万円は高いものだった。

 むろんそれは原価の話であり、これがまとまれば会社に掛け合って値切るつもりでいた。

 話をすべて聞いてくれた久美子さんは、にこやかにこう言ってくれた。


「おじいさんに相談してみますので、折り返しお電話を差し上げてもよろしいでしょうか」

「もちろんです! 会社でも私宛でもどちらでも構いませんよ」

「では……その……、園崎さんにお願いします」

「はい、かしこまりました」


 久美子さんが少しだけ顔を伏せたような気がしたが、気の所為だったかもしれない。

 パンフレットに僕の仕事用の電話番号を書いて渡したあと、僕は三度お辞儀をして古本屋を出た。

 会社に戻り、係長に報告する。

 そのあと、こう聞かれた。


「どうだ、行けそうか」

「分かりません」

「まあ、うまくやったようだな。顔見りゃ分かる。田村から連絡あって、定時までには戻るそうだ。でも、先に帰っていいと言付かったぞ。どうする?」

「待ってます」

「そうか。好きにしろ。タイムカードは切っとけよ」

「分かりました」


 定時十分前、田村先輩が戻ってきた。

 僕の方へやってきて、手を合わせて謝ってくれた。


「すまん! 新人に負担かけちまった」

「そんな、もう謝らないでくださいよ。そっちはどうだったんですか」

「土下座で許してもらった」

「土下座したんですか!?」

「こういうことは、経験しない方がいいが、残念ながらよくあることだ。ミスはどうしたってやっちまうもんだからな。で、お前、そっちの営業はどうだったよ」

「なんとか、失礼のないようには出来たと思います」

「そっか、そっか。わりぃ、タバコ吸ってくるわ。お前もう上がっていいぞ。俺のタバコは長げぇから」


 歯を見せてにかっと笑った先輩の顔は、どこかスッキリした感じだった。

 ミスを引きずっていないように見えたけど、そうじゃないかもしれない。

 きっと先輩を一人にしてあげたほうがいいのだろうと、僕はなんとなく察した。

 元気よく「お先です! お疲れ様でした」と挨拶して退社した。

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