行商人
葉舟
第1話
「ごめんください」
返事をする間もなく、引き戸の玄関が開けられる。
入ってきたのは左右に特徴的な髭を持ったナマズ顔の男。背には大きな行李がある。
背から下ろされた行李はよく使い込まれており、幼い頃から見続けた行李も、この男も変わらない。変わるのは行李から出された荷ばかりだ。
和綴じにされた書物を男は並べていく。
どれも薄く、題名は墨で書かれている。表紙に絵はなく、色のついた紙に落ち葉や花があしらわれていた。
いくつもの本を並べてはいるが、この男が売ってくれるのは一度に一冊のみ。次に来た時には同じ本は並ばない。どれもこれもが一期一会で、そんな四字熟語を織り込んだ手ぬぐいを男は首から下げていた。
手に取っていいのは一冊だけ。だからこそ、じっくりと表紙を眺める。けれど、いつも選ぶ一冊は男が並べている時からわかっていた。
どうしようもなく惹かれ、目を逸らそうとしても目を向けてしまう。そんな一冊が、毎回必ずある。
意識してしまえば、もうその一冊しか選べない。浅葱色の表紙に小さな白い花がいくつも配された、風と題のついた本を手に取る。
「まいどあり」
手にすればお買い上げ確定。いつものこのながら、ひどい押し売りだ。けれど、代価はお金じゃない。
男が真っ白な本を両手で捧げるように出してくる。そっとそこに本を手にしていない右手を置く。
本が紺色に染まった。
染まる色は毎回違うが、いつも暗黒色になる。淡い色や鮮やかな色に染まった事はない。綺麗な花があしらわれることもなく、螺鈿細工の様な模様ができた。
最後に、題名が浮かび上がったところで手を離す。
祖父は曽祖父に本が赤く染まったら、遺書を書いて病院に行けと言われたそうだ。その曽祖父は大往生している。
なので、おそらく、代価は寿命ではない。たが、何かは取られていた。
「ほな、おおきに」
本を丁寧に行李に仕舞うと、ナマズ顔の男は去っていた。
行商人 葉舟 @havune
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