餅は餅屋 異世界は本屋

西野ゆう

第1話 永遠の別れ

 ――オレは初めてその手で、シャーローンを抱きしめたのだった。(完)


「嗚呼、せめてオレの頬を流れる水をシャーローンに与えられたなら……」

 制服の上着を椅子に掛け、その制服に皴が寄るのも気にすることなく、男は背もたれに体重をかけて天井を見上げた。

 ただ、男の頬に涙はない。目が潤んでもいない。むしろ、スマホの画面を見つめていたために、ドライアイ気味ですらある。

 それでも口にした言葉は本気なのだろう。

 数年間リアルタイムで追いかけた物語。その物語が今終わった。完結した。ヒロインのシャーローンは美しい姿のままで逝った。

「明日からオレはどうしたら良いんだ」

 男はどこまでも物語の主人公になりきっていた。いや、主人公以上にヒロインを、この物語を愛していた。

 スマホを机の上に置き、拳を握り締める。力を入れて腕が震え始めた頃、手を開いた。そして血液の流れを自覚すると、再び握りしめる。

 ――この世はなんてつまらないんだ。

 大きな穴が開いた男の心に、そんな思いが流れ込む。指先への道を閉ざされた血が、色と目的を変えて胸に渦を作っているようだ。

英雄ひでお、ごはんだよー」

 階段の下から男の母親が声を上げる。子供部屋への薄い扉と壁は、簡単に声を通す。そして、母親の声は容易に男を現実に引き戻す。

「ほーい」

 男、英雄はテーブルに手をつき、スマホを握って立ち上がった。そして一歩を踏み出しつつ、制服のズボンのベルトとボタンを外した。三歩進んだ時には、ズボンは蝶の幼虫がさなぎになるときに脱ぎ捨てる最後の脱皮のように、ぼてりと床に置き去りにされた。

 ズボンの下から出てきたのは蛹ではなく、不自然に大きな胸を突き出して笑顔を振り撒くシャーローンがプリントされているボクサーパンツだった。


 白いワイシャツの下からチラチラ除くピンクなボクサーパンツ。ピンクでありながら実際の色は緑。ただし、シャーローンを除く部分は。シャーローンは褐色の肌だ。

 そんな情景を嫌悪感丸出しに目を細めてみる少女が、頬張っていた「悪魔の僥倖ぎょうこう」こと鶏のから揚げを飲み込み、口を開いた。

「ヒデニキ、キメェわ。なんか履け」

 英雄はその言葉を無視して少女の隣の椅子に座った。

「お兄様に対してなんだよ、その言い方は。真夕まゆこそなんか履け」

 兄妹揃って制服のシャツと下着という格好に対し、母親は関心がないようで、十月中旬でもまだ暑いだの、天気や気温の話をしながら残りのおかずを配膳した。

「ママもなんか言ってよ」

 真夕は母親に加勢を求めたが、エプロンで手を拭く母親を見てこうべを垂れた。やはり彼女も下半身は下着一枚だった。

さらに「ただいま」と帰ってきた父親は、玄関にあがるや否や、ASAP、ズボンを脱ぎ棄て、トランクスの上から尻を掻きつつ「あっちぃ」と言い残してトイレへと消えた。

「やだ……パンツ一家だ」

「ひふんほ、ほのいひひんひゃろ」

 悪魔の僥倖に口内を征服され、満足に発音できない英雄が真夕をたしなめた。

 その英雄の行動に、悪魔は突然牙をむいた。揚げたてのから揚げから、熱々の肉汁が零れた。そして、その雫が一直線にシャーローンの胸の谷間に向かって落ちた。

 その場所は、英雄の英雄な部分の先端だ。

「んひゅう!」

 英雄は熱さに悶絶し、肌に密着するボクサーパンツを摘まみ上げた。

 英雄は初めてその手で、シャーローンを抱きしめたのだった。


 そんな出来事があった夜、英雄は夢の中でシャーローンを抱いていた。

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