第18話 7−1 リ・スタート
それから月日が流れるのはとても早かった。
俺の生活といえば朝早く起きてお店の手伝い。学校に行って放課後は零の練習があれば手伝いに行って、なければ自主練。夜の七時前にはお店に戻ってレジをして。閉店の九時前まで店番をしたらレジ締めをやって夕飯を食べて宿題があったらやって、という感じだ。
野球部に復帰するってなったらまずやらなくちゃいけないことがグローブなどの道具を揃えることだ。俺が中学までやっていた野球は軟式という括りのボールを使っていた。だけど高校野球は基本硬式のボールを使う。ボールの硬さが段違いなためにグローブからバットから専用の物を揃えなければならなかった。
だからそれを買うために自宅の手伝いをしてアルバイトとしてお給料を貰う形にしていた。
「必要なら買うぞ?お前がどんな形であれ野球をやるって決めたのならそれくらい……」
「ユニフォームとか遠征代とかで迷惑をかけるからさ。せめて道具類一式くらいは自分で揃えたいんだ」
「でも、硬式の奴って高いんだろう?」
「まあ。でも買うのはファーストミットとバットだけだし」
父さんから心配されたものの、必要なのはその二つだけ。それ以外のバッティンググローブとかスパイクとかは中学の頃に使っていた物を流用できる。高校野球をやる気だったから投手用のグローブと一緒にボールも買ってあったし、足のサイズもありがたいことに変わってなかった。
ファーストミットは縦に長い分普通のグローブより割高だけど、今までも貰っていたお給料があるという意味では全然八月には間に合う金額だった。
そもそも俺はこれからもそうだけど、今までだって手術代とか通院費だとかで相当迷惑をかけている。だから家族にかける負担なんて極力減らしたかった。
元々高校野球をやるつもりなんてなかったんだ。そのワガママを聞いてもらうためにかけるトータルの苦労を考えたらミットとバットなんてほんの一握りにしかならない。
「肩のこともあったからお前は絶対高校で野球はやらないと思ってたんだけどな。特に涼介君と違う学校に行くことに決めた時点でそれも良いかと思ったんだよ。あんな事故に遭うスポーツなんて、もうやらなくて良いって」
「その割には零に野球を続けさせてるじゃん?」
「お前がトラウマを植え付けられたからって、弟の零の将来まではどうもできないだろ。同じような怪我をしないで楽しんでくれればそれで良い。……お前が選手として野球をやって、顔が曇らないかが心配だったんだ」
その可能性は高い。なにせ入るチームには俺の肩を物理的に踏んだ奴がいる。そいつと顔を合わせながら二年間一緒に野球をやるとなったら、良い気分じゃないだろう。
それでも涼介と戦いたいし、「約束」しちゃったからには菊原で頑張るしかないんだけど。
「どうにかなるでしょ」
「なんか楽観的だなぁ。投手をやれないのに、高校野球が楽しみなのか?」
「楽しみにはなったよ。打者としての俺も捨てたもんじゃないらしい。投手に戻りたい気持ちはもちろんあるし、マウンドの上は格別だ。でも戻れないんじゃしょうがないじゃないか。甲子園のマウンドに立つ夢は零を頼って」
「零はそこまでか?」
「当時の俺以上。順当に成長すれば宮下智紀を超える投手になる」
「ああ、世界大会で涼介君と組んだ投手か。あの試合は凄かったなあ」
手術も終わって家にいてもできることがなくて。折角試合中継をテレビでしているんだからって家族で見た試合。涼介も馬鹿みたいに活躍していたけど、宮下もおかしかった。
三イニングとはいえ最強と言われるアメリカ打線を零封。その鬼気溢れる闘志に威力のあるストレート。綺麗に曲がるスライダーに芸術的なまでに遅いチェンジアップ。
あれほど完成された投手が同年代にいたなんて知らなかった。まあ、俺は軟式。相手は硬式で住んでいる都道府県も違ったんだから知るはずもなかった。後から由紀さんに世代最強投手として様々な雑誌で比較されていたと聞いた時には何で俺がっていう気持ちでいっぱいだった。
確かに当時の俺は軟式ながらストレートは135km/hを投げられたし、変化球もスライダーにカーブにフォークと三球種も投げられた。打つ方も宮下と変わらずチームの主軸くらいには打てたから比較できるところが多かったんだろう。
けど、俺と宮下で決定的に違うところがあった。その差は大きすぎて溝だと言って良いほどに俺が大敗だと感じた投手としてのレベルの差。
宮下智紀のストレートは、三種類存在する。
これが俺からすればありえないって話だ。ストレートにもムービングボールや2シームのようにストレート系と称することができるボールがある。宮下はこの二つのボールを投げるのかと言われたら違うと断言できる。
宮下は、俺たちが一種類しか投げられないストレートというボールを三つに分岐させていた。
一番比率の多かったストレートはそれこそ回転が垂直の糸を引くようなストレート。そんな天性のストレートを投げられるだけでありえないって言いたかったのに、速いストレートはそれとは異なるバックスピンで投げていた。それに気付いただけで俺は宮下の凄さを思い知ったのに、更なる隠し球があったんだから降参もする。
宮下は中学三年生の段階で、ジャイロボールを投げていた。
ライフル弾のような回転と一般的に言われるジャイロ。それはそのボールの特性上高めのボールは本当に浮く。物理学に喧嘩を売っているかのように浮くのだ。そのボールを投げられる日本人は少ない。メジャーリーガーだってどれだけいるかわからない。
垂直回転のストレートにジャイロボール。習得している人間が日本人の中でも両手で収まるほどの特殊なボールを二種類も会得した上に、それとは違うストレートも投げられるのだ。
制球も問題なし、元々シニアのチームではエースだったということでスタミナも十分。そんな完成されたエースの姿を見て俺は嫉妬もできなかった。
涼介が組むような相手が、あれだけレベルの高い人間なのだと知って納得できたほどだ。
宮下という存在を知れたからか、正直エース云々にも結構気持ちの整理ができている。涼介が今後組む相手である柳田も良いピッチャーだし、そこに僻みとかはない。
だからただ野手として勝ちに行く。
今となっては投手への拘りは零への育成と、由紀さんとの繋がりくらいにしか思っていない。涼介と三年間バッテリーを組めて良かったと、思い出に昇華している。
「やるからには打者として暴れてきなさい。それこそ習志野学園と戦うのを楽しみにしている」
「チャンスは二年の秋と三年の春夏くらいか。地区も違うしあっちは県トップの強豪校。当たれる可能性は低いし、練習試合なんて同じ千葉じゃ受けてくれないからな」
「相手が強すぎるのも困りものってことか」
俺がいつレギュラーになれるのかもわからない。この肩というハンデがあって五代監督が使ってくれるかもわからないし、レギュラーになったからって習志野学園に当たる前に負けたらおしまいだ。
大きな公式戦の他に市主催の大会もある。これは秋にあって関東大会とかをやっている時期にやるんだけど、習志野学園はほぼ確実に関東大会に出ているために欠場。そもそも菊原は千葉市、習志野学園は習志野市だから市主催の大会でも当たることはないんだけど。
練習試合をやらないのは同じ県の相手に情報をばら撒きたくないから。県外の強豪とかなら甲子園で再会しない限り当たらない上に、その確率ってどんなもんだという話で。春に三十二校、夏に四十九校。この出場校が被ることもある上に全員と戦うわけでもないんだから県外の学校とは情報を隠す理由も少なく、本気で戦えるわけだ。
それに千葉は夏の大会となると二百校を超える学校がエントリーをしている。シードでなければ決勝までに八回戦とかもザラだ。その間に菊原が負けたら戦うチャンスがない。
習志野学園と試合をするのは、かなりハードルが高いってことだ。
「で、本気なのか?たとえ高校で活躍しても、野球は高校までなんて」
「本気だよ。肩が完全に治る保証もないのに大学とか社会人でまで野球をするつもりはない。零がもしも高卒でプロになれなかった時用に大学のための費用は必要だ。美優だってまさか高卒で働くとも思えないし、貯蓄は必要だろ」
「進路は変わらず専門学校か」
「うん。それは変わらない。というか、俺はプロにはなれないでしょ。せめて五十mは投げられないと」
「いやあ?もしかしたら高校通算本塁打六十本くらい打ってスカウトが来るかもしれないじゃないか」
「夢見すぎ。そういうのは零に期待しろって。肩さえ怪我しなきゃ、俺が習志野学園に行ってれば。プロも有り得ない選択肢じゃなかったんだろうけど」
高校の結果次第だけど本気で目指していたと思う。由紀さんとの約束を守ろうと思ったら一年からベンチ入りして投手として活躍しなければ達成できなかったし、そんな風に目立っていればプロもおかしな話じゃなかっただろう。
涼介も実際、もうスカウトから色々と話を貰っているらしいし。関東大会での活躍が鮮烈すぎたな。
本当に投手だったら考えてた。というか中学の頃は本気で目指してた。けど今から野手になって頑張ろうと思っても打撃だけに集中できるわけでもない。ファーストの守備もしっかりと打ち込まないといけないし、走塁だって力を入れないと。打撃にかまけていたらレギュラーになれないかもしれない。
それと高校通算本塁打六十本っていうのは化け物のことだ。プロ入りするスラッガーと呼ばれる人たちだって三年間を通じてそんなにホームランを打ったりしない。試合数が圧倒的に足りないからだ。プロみたいに試合を毎日のように組んだりしないし、公式戦も負けたら試合数が減る。
たった二年半で六十本。最初の半年なんて本数をほとんど稼げないだろう。そう考えるとたったの二年で六十本、つまりは一年で三十本ペースで打たないといけない。それってプロでもかなりの好成績を残していることになる。実力が違うから単純比較が難しいけど、かなり難しいことはわかる。
そんな記録を目指せとは、俺の父親はかなり夢見がちらしい。
「菊原はそんなに練習試合をやらないだろうからそんな記録は産みっこない」
「結構勝ち進んだって、年間四十試合くらいか?それで約二年で六十本ってなると、ほぼ毎試合ホームランを打たないといけない?」
「大雑把だけどそうなる。名門のように毎週末練習試合をするような学校じゃないんだから、試合数が圧倒的に足らないんだよ」
「じゃあ涼介君はそんな記録を作るかもしれないと?」
「……まあ、敬遠されまくらなければ?八十は超えるんじゃないかな?」
春大会の予選で二本。関東大会で五本。これが夏前のアイツの公式戦でのホームラン数。ここに練習試合も加わるんだからもう十本は超えてるだろう。たった三ヶ月で十本も打ってれば、本当に三年になった頃には八十本どころかもしかしたら夢の三桁も有り得るかもしれない。
涼介の場合は夢物語じゃないんだから凄い。これから始まる夏の予選でもどれくらい打つんだか。
「夏の予選は見に行くのか?」
「土日で習志野学園の試合があればって感じ。美優も見たいだろうから。その代わり零の試合とかあったら任せるよ」
「おう。そっちは母さんが行ってくれるから大丈夫だ。バイトの方もいるし」
零だってそろそろ夏の大会が始まる。夏休みだからさもありなん。そうなったら基本は母さんに頼むことになっている。車での送迎とかあるし。遠方になればバスを借りるけど、千葉県内だったら父兄が車を出すことになっているために母さんに頼むしかない。
父さんは店で洋菓子を作らないといけないし、両親のどっちかとなったら母さんが行くことになる。
父さんだってたまにはお店を休んで零の活躍を見てもいいと思うんだけどな。自営業なんだし、早めにお店の前に貼り紙を出しておけば大丈夫だと思うけど。
「俺の試合とかは観に来なくていいから。零優先でお願い」
「見られたくないってことか?」
「まあ、そう。マウンドに上がってない俺なんて見たってしょうがないでしょ」
「ん、了解。じゃあ夏の最後の試合は見に行くからな」
「最後くらいならいいか……」
ただ最後の年ってなあ。俺が高三で零が小六。どっちも節目になる年なんだよな。試合が被ることもあるかもしれない。高校野球は平日に行われることが多いからその辺は試合日程を天に祈るしかないな。
「んで、いつ入部届け出すって?」
「菊原の予選での勝ち上がり次第だけど、終業式の前には出すつもり」
「途中からってのは大変だろうけど頑張れよ」
「うん」
チーズケーキの型を作って、オーブンに入れる。今日はこの一個だ。こうやってケーキを作るのも当分はできなくなるんだろうな。だから心を込めて作った。
今日は学校の後に病院に行かなくちゃいけない。これで肩の通院は最後になる。お医者さんから最後のお墨付きをもらったらもうリハビリのために通うことはなくなる。
さあ、ここから。リスタートだ。
フォークボール(ウチの三姉妹外伝) @sakura-nene
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