第11話 4−2 名門校のグラウンドで

 あれが本職は捕手の方の動きなのでしょうか。正直、甲子園常連校の外野手のレギュラーと言われても納得できます。


 けど涼介君は一年生で、しかもあまりやったことがないポジション。その上で打撃も相当だなんて、どうすればいいのでしょうか。


 今日、わたしは五代監督にお願いして練習を休んでまで習志野学園のグラウンドに来ていました。敵情視察という奴です。その結果は、正直三年間この学校に勝つにはどうすればいいのかと懸念事項ばかり噴出してきたという事実。


 涼介君はもう、言わずもがな。途中で登板した柳田君も、MAX138km/hのストレートを武器に先輩たちを抑えていきました。もう一人の一年生、西君はレフトを守っていたのですが、シャープな打撃と堅実な守備で、安定感のある選手。


 控え選手たちも、他の高校ならレギュラーになれるような逸材ばかり。紅白戦のはずだったのに、かなりハイレベルな試合を見せつけられました。


 昇格、降格を監督に言い渡されて、グラウンド整備を始めています。このことを五代監督にどう伝えるべきでしょうか。控えチームでウチと互角か、それでも習志野学園の方が格上だなんて。これが公立と私立の差でしょうか。それとも強豪校と勢いに乗り始めた新参者の差でしょうか。


 せめて、彼らを抑えられるような投手か、あの投手陣に負けない打者がいれば……。正直、打線であればどうにかなると思います。この前の公式戦のように継投策に出られなければ、ですが。


 あと、一人打者なら心当たりがいます。けど彼を説得するにはどうすれば……。

 とか考えていたら、その心当たりの人物が歩いていました。この偶然は神様からのお告げかもしれません。


 彼を勧誘しろという。


 そんな天啓のように感じてしまったからでしょう。後から考えれば絶対にしないような、ありえないミスをしてしまったのは。


「市原君!野球部に入りませんか⁉バッターとして!」


「宮野さん?……塁間すら投げられない俺がどこのポジションを守るって言うのさ?高校野球には指名打者制度がないんだよ?」


「ファーストくらいなら……」


「そもそも、俺が野球部に入る意味は?俺は小学校から投手しかやってこなかった根っからの投手だ。打席に立てば九人目の野手としてやれることはやっても、野手なんてやったことすらないんだ。それに高校野球は観るもの。やるつもりはないよ」


「あれだけのバッティングができるのにもったいないです!」


 事実、バッターとしても充分活躍できると思います。高校一年生になったばかりで、ホームラン級の打球を飛ばせる人がどれだけ全国にいるでしょうか。


 そういう人は甲子園で活躍して、将来はプロになるような人です。


 菊原の野球部に入れば即戦力だった、という理由もこの強引な勧誘を続けてしまった愚かな言い訳の一つでした。


「えー、兄ちゃんがコーチやんなくなるのは嫌だぜ?それに、兄ちゃんと涼介にぃが戦うところも見たくないなー。俺が見たいのはバッテリー組んでる二人だし」


「私も嫌です。お兄ちゃんは投手です。投手じゃないお兄ちゃんなんてお兄ちゃんじゃありません」


「すごい言葉だな、二人とも……」


 市原君の妹弟にも否定されてしまいました。やっぱり投手である市原君を皆期待しているみたいです。


 けど、野球は投手が全てではありません。野手だって野球の楽しさを感じられるはず。野球をやること自体が嫌いなはずありません。


 投手で楽しめないなら、野手として楽しみを見出してもらうまでです。


 こんな関係の薄い私がそう思っても、一ミリも心が動かないなんて想定できるほどこの時の私は大人ではありませんでした。目の前の人参に縋り付くだけの馬だったのです。


「今日の試合を見て、高校野球を見るのではなくやりたくなりませんでしたか?市原君もプレイヤーだったんです。この半年でどこまで良くなったのかわかりませんが、リハビリを続ければ涼介君にも負けないような──」


「──あなたがお兄ちゃんの何を知ってるんです⁉あのリハビリを見て、その上でまだ頑張れって言うんですか!やっと軽くキャッチボールができるようになって皆どれだけ喜んだと思ってるんです!お兄ちゃんが野球に関われるって知って泣いたことを知ってるんですか⁉そこまでなっても、自分じゃ迷惑になるからって野球部に入らないお兄ちゃんの気持ちを理解しようとしてますか⁉」


 突然の少女の叫び。それはこのグラウンドに良く響きました。観戦に来ていたお客さんも野球部の方々も、この叫びに動きを止めました。


 まだ十歳ぐらいの女の子。その子の怒声は、気にしない方がいない程甲高く響いてしまいました。


「一番やりたいことができないお兄ちゃんに他のことで妥協しろって言うんですか⁉わたしはそんなこと言えません!だってお兄ちゃんはもうずっと頑張ってるから!あんな事故がなければここで野球をやって、涼介さんともバッテリーを組んでいたはずです!そんな些細な夢が叶わなくなって、他の、なんてことのないことで軽々しく勧誘なんてしないでください!」


「わ、私はそんなつもりじゃ……」


「でも、自分の利益のためにヒロ君を野球部に誘ったでしょう?打算的なのね、菊原のマネージャーさんは」


 どこかで見た女の人に言われて、たしかにその通りだと反論もできそうにありません。完全に私欲で、強力な即戦力が欲しくて。


 うちの学校も弱くはないんです。習志野学園が強すぎるだけで。


 一番の理由としては勿体ないと思うのです。これだけの才能を持っている人が身近にいて、それが野放しにされているというのはどうかと思うのです。


 勝てるピースがあるのだから、それをできることなら手籠めにしたい。それが甲子園に行きたいという願いを持つ者の、当然の思考の帰結だと思ってしまいました。


 本当に、浅ましい女でした。


「……妹と、由紀さんにここまで言われたら俺も少しは言わないと。正直、野球ができるなら続けたいさ。けど、俺は菊原で甲子園を目指したいかって言われたらそうでもないし、今さら野手なんてやろうと思ったら、どれだけ時間がかかるか。……現実的じゃないんだよ。塁間投げられるようになるまで、どれくらいかかるかわからない。それで、野手としてやれるようになるまで部活入って、体力作りとかしかできないんだったら俺が部活入る意味ないじゃん」


「それこそ、守備練習とか……」


「にーちゃんこんなこと言ってるけど、クラブで俺たちに守備練習してくれるくらいにはどこでも守れんだぜ?今でも朝走り込んでるし、俺たちの練習に付き合ってもらってるからやれって言われたら何でもできると思うよ?でも、だからって野手として部活やるとは思えないんだよねー」


 零君が呆れたように言います。今でも身体を鍛えているということは、やっぱり野球を諦めていないということなのです。


 ただ、私と市原君の想定している『野球』が異なるだけで。


「いい?にーちゃんは、誰からも投手として期待されてたの。で、にーちゃんのやりたいことも投手なの。何で投手として戻りたいって思ってるにーちゃんにわざわざ野手なんてやらせようとしてんの?別に野球って高校が全部じゃないじゃん」


「つっても、高校出たら専門学校行くわけだから、涼介たちとちゃんとできる野球は高校が最後だけどな」


 じゃあ今は投手として戻れるようにリハビリを頑張っていて。それこそ高校三年間をリハビリに費やしてでも、ちゃんとした舞台じゃなくても投手としてありたくて。


 甲子園なんかより・・・・・・・・、大事な物があると。


「こんな肩になった時点で、俺は高校野球を諦めてるの。実家も継がないといけないし、零にはちゃんと高校で活躍してそれこそ甲子園に出てほしいからコーチもしてる。俺に高校野球やらせたかったら、肩が使えなくなる前の俺に会って事故を防ぐくらいしないと。なんてったって俺が憧れてた高校野球はこの習志野学園のグラウンドでやるもので、菊原のグラウンドでやるものじゃないんだから」


「推薦貰えなかったらヒロ君がウチの学校に来る意味ないもんねえ。私立の進学校でも、進路が専門学校で野球ができないんじゃ」


「下に二人いるのに野球もやらないで私立に行く意味はないですから」


 家庭の事情というのもあるのでしょう。おそらく零君は習志野学園に入りたいのだと思います。だとすれば、一人私立に行くことが決まっていて三人兄弟なら、一番上の市原君が公立高校に行くのも道理かもしれません。


「……あなた、そんなにヒロ君に野球部に入ってもらいたいなら勝負しない?」


「はい?勝負、ですか?」


「そう。ちなみに野球経験は?」


「小中と七年間やってきましたが……」


 質問の意図が分かりません。ですが答えると、市原君の隣にいたお姉さんはニコッと笑いました。


「ヒロ君とバッティング勝負して、あなたが勝ったらヒロ君が野球部に入るっていうのはどう?」


「由紀さん⁉何で勝手にそんなことを!」


「いつぞや言ってた何でも言うこと聞くってやつ。別にイーじゃない。ヒロ君が勝てばいいんだから」


 勝手に話が進んでいきます。それは市原君にとっても予想外のようでした。約束を反故にはできないためか、低く唸った後にうなだれました。


「……わかりました。それで手を打ちましょう」


「あ、ヒロ君が勝ったらまだお願いは有効だからね?」


「言うこと聞くわけじゃないのでそれも受け入れます。……バッティングセンターにでも行くんですか?」


「ううん?河川敷でいいんじゃない?ピッチャーわたしね。涼介ー。あんたキャッチャーやりなさい」


 ……清水君が破天荒な人と言っていた意味が分かりました。この物を言わせない感じ、なんというか魔王様です。


 その破天荒っぷりに呆れることなく従うかつての黄金バッテリー。


「おい、野球小町が投げるってよ」


「市原のバッティングもかなりのもんだったからな。見られるなら見てみたいぜ」


「ありえない姉弟バッテリーだぞ。もう撮れないかもしれないから写真に収めておけ」


 残っていたギャラリーも注目し始めています。記者さんたちまでカメラを取り出す始末。なんか、大事になってます?


「羽村投げんの?なら俺らが守備ついてやろうか?」


「柏木。あんたら今日オフでしょ?」


「オフっていうか調整だし。河川敷なんて行かずにここでやればいいじゃん。このギャラリー動かすのは面倒だぞ?」


「グラウンド整備どうすんのよ?」


「俺たちがやるって。お前ら姉弟は色んな意味で有名だし、後々この映像がTVとかに出るんだぜ、きっと。なら協力したっていいじゃん。あとは、お前の自慢の弟子のバッティングに興味がある」


「わたしが教えたのはピッチングで、バッティングは手をつけてないけどね」


 この前の大会で三番を打っていた習志野学園のキャプテン、柏木さんまで話に関わってきました。な、なんで部外者が習志野学園のグラウンドでバッティング勝負をすることになっているんでしょうか……?


「じゃ、監督に許可貰ってくる」


「お願いねー」


 そして簡単に済ましてしまう由紀さん。二人はどういう関係なのでしょうか。というか着々と準備が進んでいってます⁉涼介君はもうプロテクターをつけていますし、市原君もバットを借りて素振りしています。


「あれ?あの女の子、二代目野球小町じゃないか?」


「お?じゃあ初代と二代目の対決ってことか?」


 野球小町?何のことかわかりませんが、何故か私まで注目されているようです。よくわかりませんが、グラウンドには入ります。


「ねーちゃんも野球小町って呼ばれてたんだ。ピッチャーやってたの?」


「いえ、私はずっとセカンドでしたよ」


「なーんだ。じゃあユキちゃんやにーちゃんみたいにピッチャーの在り方なんてわかんねーわけだね」


 零君には納得されたように、でもつまらないというように両手を頭の後ろに回しながら言われました。


 ピッチャーをやったことがないのでたしかにピッチャーの心理なんてわかりません。


 それと市原君の妹さんが、すごい睨んできます……。


「羽村ー。許可取れたからやっていいぞー」


「ありがと。あと十球で肩作るから」


 そう言って由紀さんは涼介君に投げ込みます。高校の制服のまま投げ込みますが、スパイクだけは借りたみたいです。


 投げているボールはとても綺麗なスピンがかかっていて、とても速く感じます。吹奏楽部ということでまともに三年間くらい野球をやっていなかった人が投げるボールなのでしょうか?


 そこら辺の中学生よりもよっぽどいいボールを投げています。


「よし、終わり。じゃあルール説明ね。三打席勝負して、ヒットが多かった方が勝ち。簡単なルールでしょ?四球もヒット扱いにしよっか。そうじゃないとこの守備陣からヒット打つの大変かもしれないし」


 ルール自体はまともです。そして、その守備陣の豪華さ。この前の春の大会のレギュラーメンバーが守備についているのです。


「ヒロ君が有利になってもアレだし、わたしが投げられる球種教えとくね。ストレートとスローカーブとスライダー、あとツーシーム。たとえヒロ君が相手でも全力で行くから」


 そう言ってマウンド上でギラギラとした目で宣戦布告をする由紀さん。完全に勝負師の目です。結局誰のために由紀さんはこの勝負をふっかけたのでしょうか。落としどころを見出すため、にしては市原君たちへのメリットがありませんし。


「最初はどっち?」


「俺から行きますよ」


 市原君が右バッターボックスに入ります。涼介君と少し話してから、勝負に移ります。


 由紀さんが振りかぶってからの一球目。綺麗なスリークォーターから放たれたのはさっきも見た綺麗な真っすぐ。それを市原君は真後ろにチップしました。


 そして、バックネットではスピードガンを持っていた人たちを中心に騒ぎが起こっていました。


「え⁉128km/hっ⁉」


「野球小町改め舞姫健在だなあ」


 128km/h⁉速いとは思っていましたけど、女性が投げる速度じゃありません!高校生の男子が投げられる平均速度と大差ありません!


「可愛げのない」


 チェと聞こえてきそうな溜め息。ですが、市原君の方は集中したままです。


 二球目も真っすっぐ。ただしこれはインハイに外れました。


 三球目。アウトローに曲がるスライダーを追っつけるように当てて、ボールはライト線に向かいます。


 ですが、わずかばかり切れてファール。もう少しでライトを守っていた方が追いつきそうでした。


「あれがもう少しでアウトってどういうことだよ」


「俺としては完璧なコースに来たスライダーをあそこまでお前が持っていったことに驚きなんだが」


「こら、涼介。さっさとボール寄越す」


「はいよ」


 市原君と涼介君の雑談はすぐに打ち切られてしまいました。


 やっぱりあのバッティング能力、欲しいです。


 四球目。もう一度スライダーが来ましたが、これは低くて市原君は悠然と見送りました。


 由紀さん、想像以上に投手として完成されています。今のボールもおそらく計算して外したボール。そのコントロールと度胸、計算高さからエースと呼んでもおかしくはない能力です。


 五球目。インローに来たストレートを逆らわずに打ちました。ショートの頭を超えるかと思った鋭い当たりはショートを守っていた柏木さんにジャンプされて捕られていました。


「はい、ヒロ君アウト」


「あれ抜けないのか……。すごいな。というか仕留められなかったからには、俺がバッター向いてないってことなんじゃ?」


「春の甲子園ベスト四の守備ってこと忘れるなよ」


 市原君が戻ってきます。その次は私なので左バッターボックスに入りました。


「えっと、宮野さんって言ったっけ。左打ちなんだ?」


「はい。よろしくお願いします」


「二代目野球小町のことは知ってたけどさ。……たぶん格が違うよ」


「はい?」


 囁き戦術でしょうか?いけません。打席に集中しないと。


 一拍深呼吸を挟んでからバットを構えます。それを見てから由紀さんは振りかぶりました。


 え?サインの交換いつしたんですか?


 一球目。インハイへ来たストレートを空振りしました。タイミングが合っていませんでしたし、バットもボールの下を振っていました。綺麗なスピンで体感速度が思ったより速く、ボールも手元で伸びていました。


 涼介君がボールを返してすぐまた振りかぶっていました。


 やっぱりサイン交換していない⁉


 二球目もインコース。ストライクから外れるほどは変化しないけどゆっくり大きく曲がるスローカーブでした。緩急もありますが、大きな変化に合わせるのが手一杯で、本当に当てただけのファールでした。


「あの、サイン交換していないんですか?」


「今回に限ってね。由紀姉が自分の力でねじ伏せるって」


「よく球種もコースもわからずに捕れますね……」


「ま、何となく。姉弟だから」


 涼介君は当然というようにボールを由紀さんに返していました。私は山勘でストレートに的を絞って構えると、やはりすぐ振りかぶっていました。


 三球目。一球くらい遊び球があるかとも思っていたのですが、真ん中高めの威力あるストレート。全力でバットを振ったのですが、空振りしてしまいました。


 三球三振。駆け引きなんて要らないとでもいうような真っ向勝負でした。完全に力負けです。


 受験勉強もしながら、それでも野球をやり続けるために身体は鍛えてきました。だからブランクなんてないんです。


 経験の差?それとも野球に対する想い?何が差なのかわからないほど、私と由紀さんの能力の差は歴然でした。


 一番使いたくない言葉は才能の差。これはどうしてもあるものですが、たった一打席でそんなものを感じたくなかったのです。

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