事故物件

醍醐潤

事故物件

 人の気配がする——。


 一人暮らしをしているのに、今、ベッドの側に誰かが立っている気配がする。


 絶対に開けたくないまぶたをゆっくりと開けた。体は動かすことができたので、金縛りではなさそうだ。


 気配はまだ感じる。


(怖いけれど見るしかない!)


 心拍数が異常に高まっている。しかし、私は数十年に一度しか出さない、とてつもなく大きな勇気を振り絞り、壁の方を向いていた顔を反対方向へ向けた。


「お目覚めになられました?」


 そこに立っていたのは、白い服を着た髪の長い女。私のことを見ていて、話しかけてきた。


 眼球が飛び出るかと思った。


 体は硬直し、動かせない。


 完全に思考が停止してしまった。


 どのぐらい時間が経過しただろう。少しずつ、緊張がほぐれていき、冷静を手に入れたところで、私は叫び声をあげた。


  〇


「な、なんなんですか、あなたは!」

 ようやく悲鳴を発した直後に、女に尋ねたのはこれだった。


 女は緊張したような態度で言った。


「わ、私は地縛霊です……」


「地縛霊って、どこのよ?」


「ですから、この部屋の……」


 この部屋の地縛霊? 一体、どういうこと?


「この部屋、家賃安いですよね」

 地縛霊と名乗った、色白の女が言った。たしかに、駅からも近く、都会には十分足らずで行ける立地に建つマンションにも関わらず、家賃は驚くぐらい安かった。


「この部屋、実は、事故物件なんです」

「嘘でしょ⁉」

「嘘じゃありません。本当です」

「一体、何があったの?」

「自殺です。あなたが住む以前、ここで二十九歳の女性が亡くなりました」

 私と同い年。地縛霊の話したことを聞いて、その人のことがかわいそうに思えてきた。


 だが、

「ちょっと待てよ」

 私は気付いた。「もしかして、亡くなった女の人って……あなた⁉」


「はい。私です」

 それがなにか、とでも言いたげな表情を地縛霊の女はする。


 電気のスイッチに手を伸ばした。


「なんてことしてくれたのよ! すごくいい物件見つけてラッキーって思ってたのに、事故物件だなんて聞いてないわよ!」

「それは不動産会社に言ってくださいよ……」

「まさかだけど、この前、電気がついたり消えたりしてたのって……」

「おそらく、私かもしれません」

「出てってよ! ここから出てって!」


「そ、そんなこと言われましても、私、この部屋の地縛霊ですからできません」

「じゃあ、さっさと成仏してよ」

「それができないから、こうして今、あなたの目の前に現れているんじゃないですか」

 サイアクだ。二十九歳、アラサー。この年でこんなことになるなんて……。


「とにかく、これも何かの縁です。これからよろしくお願いします」

 地縛霊は丁寧に頭を下げた。

 こうして、私と地縛霊の同居生活が始まった。


  〇


「お帰り。ご飯できてるよ」


 彼女と同居してから一ヵ月。


 最初はびっくりしたが、あれから急に肩が重くなったり、物が突然動くなどの怪奇現象がとくに起きたわけもなく、普通に生活している。困っていることはなく、むしろ助かっている。地縛霊が家事全般をこなしてくれているため、会社から帰って来れば、できたての食事とお風呂が用意されている。お互い打ち解けられ、会話はタメ口だ。


 毎日が楽しくなった。一緒にテレビを見たり、ゲームをしたりと退屈することがなくなった。


 生活が変化してからさらに月日が流れたある日。


「ただいま……」

 腹の底から重たいため息を吐き出しながら、私は玄関ドアを開けた。帰りに立ち飲み居酒屋で何杯か飲んだので、少し酔っていた。


「おかえ――どうしたの? 大丈夫?」


 その日の私は、ひどく落ち込んでいた。目が熱くなり、すでに涙が出そうになっている。私はもう我慢できず、体が透けているが地縛霊に抱きついた。


「何があったの? 本当に大丈夫?」


 頭を優しく撫でてくれた。


 今日。

 私は会社でミスを犯した。上司や同僚にたくさん迷惑をかけるようなできごとを起こしてしまった。


 上司には、「なんてことをしてくれたんだよ、お前は!」と、きつく強く怒鳴られ、「申し訳ありません」ひたすら謝り続けた。幸い、周りからのフォローもあり、大事にはならずに済んだが、私のメンタルはもう、ズタボロ。終業時間まで落ち込み、帰り道も、普段ならまっすぐ家へと帰るのに、途中の居酒屋に入って、ビール、ウイスキーなどを飲んでしまった。


「私ってダメ人間だよ……」

 ソファに腰掛け、膝を抱え込んだ。「昔は結構すごかったんだよ。ピアノを習ってて、コンクールにも何度も出て賞を取ったし。勉強だって、ちゃんと宿題して、塾も面倒くさがらずに行って、成績はいつもクラスの上の方で。大学は名門って言われるところに入学した。今の会社に内定した時も親は喜んでくれた。仕事も真面目にやってきたし、今まで順調だったのに……」


 嘆いている間も、こぼれ落ちた涙で、服はビショビショになった。初めて味わった挫折だった。挫折なんて、自分には関係ない。スポーツ選手や芸能人が経験するもの、ずっとそう思ってきた。でもそれは、間違っていたことを今日、嫌なぐらい知った。


 彼女は泣いている私をそっと抱きしめ、慰めてくれた。その優しさに包まれながら、いつの間にか私は眠っていた。


  〇


 次の日の朝。

 私はベッドの上で目を覚ました。どうやらあの子がベッドまで運んでくれたみたい。


「おはよう」

 地縛霊は朝食を作っていた。今日は休みなので、ゆっくり過ごせられる。

 作ってくれた朝御飯を食べていると、地縛霊が突然こんなことを言ってきた。


「実は私、生前は占い師だったの」

 二日酔いで頭が痛い。あまりにも信じられない発言だったので、痛みが少し増した。


「本当?」

「嘘じゃないよ」

 でも信じられない。


 地縛霊はどこからともなく、カードの束を取り出した。

「このカードを使って占いをします。では、生年月日を教えて」

 言われた通りに誕生日を答えた。彼女は一枚、カードをひいた。

「このカードによると、あなたの性格は……」

 当たっていた。怖いぐらい、自分に当てはまるものだらけだった。


「す、すごい……」

「どう? これで信じてくれた?」

 私は頷くしかなかった。あまり占いというものをあてにするタイプではなかったけれど、今ので価値観がガラリと百八十度ひっくり返った。


 地縛霊による占いは続いた。人生の転換期や初恋の時期など、すべて当てられた。彼女は間違いなく、本物の占い師だったようだ。


 地縛霊の御手並を拝見したところで、ふと思った。

「あのさ……」

「なに?」

「これからさ、どうすればこの先の人生が上手くいくとかの、アドバイス? それって教えてくれたりする?」

 地縛霊は笑顔で言った。


「もちろんだよ! 人生相談も立派な占い師の仕事。私になんでも言って!」

 救われた気がした。気持ちが楽になった。

「ありがとう――」

 地縛霊に抱きついた。幽霊だから体温はないはずだが、彼女は暖かった。


  〇


 よく晴れた空に飛行機雲が一つ、伸びていく。


 会社の本社ビルの十五階。私は取締役室から外の景色を眺めていた。


 あれから地縛霊の言う通りに動いてみた。すると、絶望しかけていた物事が上手くいくようになり、とんとん拍子に出世していった。今では、この会社で史上最年少かつ初の女性取締役となった。


 住んでいた部屋は、ある程度、収入が安定すれば引っ越してもいいという助言のもと、一年前に去った。


 あれ以来、地縛霊には会っていない。


 楽しかった思い出しかない。久しぶりに会いたくなった。


 しかし、疑問も残る。どうして彼女は自殺なんてしたのだろう。どうして人のことは救えるのに、自分は成仏できないのか。


 もうすぐお盆を迎える時期になった。



         了

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事故物件 醍醐潤 @Daigozyun

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