無名夜行 本屋と誰かの回顧録

青波零也

本屋と誰かの回顧録

 その『異界』は、懐かしい古本屋を思わせた。

 お世辞にも広いとは言えない空間に、かろうじて人ひとりが通れるスペースだけを残して立ち並ぶ本棚。そこにはありとあらゆる本が詰め込まれ、それでも収まりきらなかった本が無造作に床に積み上げられて山をなしている。

 昔、学生だった頃には私もよくこういう本屋に世話になったものだ。特に私が専門としていた分野は、その辺の本屋ではまともに手に入らない。出版社に問い合わせても既に絶版で在庫も無いことがほとんどで、古書店街の一角でお目当ての本を見つけた時の喜びといえば、筆舌に尽くしがたい。

 とはいえ、この『異界』に降り立ったXにとって、それらは単なる本という物体に過ぎない。背表紙に書かれている文字列は、ディスプレイ越しに見る限り私にも読めない文字であり、画像情報をデータベースにかけたところで、該当する言語はないに違いなかった。だから、正体不明の本に唯一の道を塞がれ難儀するXを、『こちら側』から観察することしかできない。

 すると、不意に、私にわかる――つまり、Xにもわかる声が聞こえてきた。

「ああ、お客さんか」

 Xの目が床に積まれた本から、正面に向けられる。本棚の間から顔を覗かせたのは、浅黒い顔に深い皺を刻んだ年かさの男性だった。どうやら、この男性が店主であるらしい。枯れ枝のような指を振って、「その辺のは、邪魔なら適当に退かしてくれ」と軽い調子で言い放つ。

「適当に、って言われても……」

 途方に暮れたXの声が、スピーカーから聞こえてくる。

 まあ、確かにそうだろう。この本の山だ、退かしたところで、他に置けるような場所もないのだから。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 かくして、今回の『異界』にたどり着いたXを待っていたのが、これだ。

 何とかかんとか本をかき分け、ある種のパズルのように上げ下ろしを繰り返して。やっと店の奥まで辿り着いたXに、店主の男性は黄ばんだ歯を見せてにやにやと笑ったものだった。

「いい運動になっただろう」

「ええ、とても」

「そんなツラするな。仕方ないだろう、これだけの本を扱っていると、どうやっても片付かないんだ」

 とはいえ、このディスプレイがXの視界を映すものである以上、「そんなツラ」を私が観測することはできないのだが。よっぽど恨みがましげな顔をしていたのだろうか。めったに表情を変えない人物であると認識しているために、私にはそんなXを想像することはできないでいる。

「しかし、うちに来たってことは、こいつらを求めて、ってことだろう」

 店主は店を見渡すような仕草をする。Xもそれにつられたのか、ディスプレイの視界がぐるりと巡る。背表紙を見る限り、薄い本もあれば分厚い本もある。雑誌のようなものもあれば、ハードカバーの豪華な作りの本もある。それらが、仕分けもされず雑然と本棚に詰め込まれ、床に積まれているのだ。文字が読めない以上、それぞれがどのような内容の本なのかは全く想像もつかない。

 だが、Xが本を求めてこの場所に来たというなら、それは誤りだ。我々はXを投入する先の『異界』を選べない。偶然『こちら側』から接続しやすい『異界』を探し、Xを潜航させる。その先のことは、どこまでも、Xが観測しない限りは定まらない事象なのだ。

「いえ、その、私は」

「仮に、お前さんの意志でないとしても。お前さんがここに来た以上は、うちに用があるってことだ。そういう『巡り合わせ』ということさ」

 定め、仕合わせ、もしくは運命って言い換えてもいいな、と店主は笑う。

 対するXは、多分、笑わなかったのだろう。そのくらいは、見えなくともわかる。

「運命という言葉は、好きではありません」

「そういうものは確かにあるってことだ。お前さんが好きでも嫌いでも、信じようが信じまいが関係なく、な」

 納得は、きっと、しなかっただろう。私はXという人物のことをほとんど知らないままサンプルとして運用しているが、今までの『異界』での出来事と、その過程で交わした会話の内容だけでも何とはなしにわかる。Xは極めて従順な『生きた探査機』だが、その一方で酷く頑固なところがある。ひとたび、納得できないと思えばそう簡単に揺らぐことはない。

 とはいえ、店主の言うことも一理ある。Xがどう思おうと、そういうものが「ある」ならば「ある」のだ。少なくとも、この『異界』ではそういう巡り合わせ、もしくは運命がまかり通る。そういうことだ。

「そうさな、そんなお前さんにはこの本がぴったりだろう」

 言って、店主が手を振ったと思えば、節くれだった指が何もないはずの場所から一冊の本を掴む。

 そのままXに向けて差し出されたそれは、深い、深い、光の加減では黒にも見える、紺色の本。カバーは布だろうか。やや薄暗い照明に、複雑な陰影と、その隙間に小さな煌めきを生み出している。表紙に琥珀色の箔押しで書かれた文字は相変わらず私の知らない文字、だが。

「……『回顧録』?」

 Xには、何故か、読めたようだった。

 Xの目が持ち上げられれば、店主は「そう」と言って笑った。

「ここにある本は、全て、全て、そういうものさ。出来事、経験、見聞きしたことを、『誰か』の目を通して綴ったもの。『誰か』の記憶そのもの、と言ってもいいかもしれないが、他者に通じる言葉にした時点で本人の感覚からかけ離れるものでもあるから、俺は、あくまで回顧録と呼んでいる」

「ここにある本は、これも含めて、全てが誰かの回顧録、であると」

「そう。人が一人生まれれば、一冊の本が生まれる。そいつが経験した出来事の全てが綴られゆく本が人知れず生まれる。書かれる出来事はそいつの主観だから、全てが事実に基づいているわけじゃない。だが、そいつからすれば真実だ。うちは、それを集めて、求める奴に譲るのが仕事ってこと」

 これは『異界』なのだ、『こちら側』の理論は通用しない。だから、そういうものが「ある」と言われれば、ひとまず一旦は飲み込まざるを得ない。つまり、ここにいる私にも、向こう側にいるXにも、一冊の本があるのだろうか。過去から今に至るまでを記す『回顧録』が。

 Xは、差し出された本の表紙に指を滑らせる。武骨な指が表紙の文字をなぞる。私が観測できるのは、Xの視覚と聴覚までで、触覚や嗅覚、味覚はわからない。だから、この本の触り心地も、店に漂う匂いも――あの、古書店特有の香りがしているのではないか、とは思っているのだが、これはあくまで想像に過ぎない――、私は確かめることができない。

 それでも。

 Xの手がわずかに震えているのは、ディスプレイ越しの視界から、わかる。

「これは、誰の回顧を綴ったもの、なのですか」

「さあ。俺はここの本に何が書いてあるのか、ほとんど読めないからな。読めるのは、この本の書き手と何らかの縁がある奴だけだ。俺は、縁の糸を手繰って、本を求める奴に譲ることができる。その程度」

 つまり、この本の作者――言い換えれば「この本そのもの」である人物は、何らかの形でXに関わった人物なのか。

 Xは死刑囚だ。片手の指では数えきれない程度の人数を手にかけた、殺人鬼。異界潜航サンプルとしてXを運用している私は時折忘れそうになるが、彼には彼の人生があり、犯した罪があり、故に死刑囚としての今がある。

 ただ、私はそれ以上のことを知らない。使い捨てのサンプルを扱うにあたって、背景情報はノイズでしかないから、今まで積極的に知ろうとしたことはない。

 とはいえ、気にならないわけではないのだ。

 従順で生真面目で、私の目から見る限りは極めて強固な自制心を持つこの人物が、一体どういう経緯で殺人鬼として裁かれるに至ったのか。果たして、何を見て、何を聞いて、何を感じてきたのか。

 ――例えば、この本が「誰」についての本であるのか。

 店主は落ちくぼんだ目をXに向けて、笑っている。

「お前さんの方が、わかるだろう。これが、誰の本なのか」

「……この本には、その人の、全てが書かれているもの、なのでしょうか」

「ああ、そうらしいな。言った通り、俺は中身を読めるわけじゃない。そいつと縁があって、そいつについて知りたいって思ってるやつに譲るだけだ。どうだ、今なら安くしてやるが」

 安く、と言ってもXに手持ちの金はない。『異界』に持ち込めるのはXが認識する自己のイメージを元にした意識体のみであり、そもそも金銭を持ちこめたとして、『異界』で通用するかもわからない。

 それとも、何か別の対価が必要なのだろうか。例えば腕一本だとか、目玉一つだとか、魂の一部だとか。今までの『潜航』でそういうものを求められたことが、ないわけでもない。

 支払える対価ならば、支払いたい。この本は、Xにそう思わせるだけのものなのか。私はつい、息を止めて成り行きを見つめずにはいられない。

 しばしの沈黙ののち、Xが首を横に振ったのが、ディスプレイの視界からわかる。

「いえ。やめておきます」

「いいのか。他にないぞ、こんな機会」

「そうですね。それは、わかります」

 Xにとって、我々にとって、ほとんどの『異界』は一期一会だ。『異界』と『こちら側』の位置関係は常に変動しており、同じ『異界』に潜るのは難しい。だから、この機会もきっと一度きりになるに違いなかった。

 それでも、Xは。

「その人のことを、知りたいと思っているのは、本当です。知れば楽になれることも、きっと、たくさんある。しかし、知らないままの方がいいことも、あると思うので」

 そう言って、本をそっと店主の方に押し返す。店主は本を持ち上げて、口の端を露骨に歪めてみせる。

「案外意気地なしだな」

「意気地なしで結構です。私は、ずっと、大切な人のことを知りたいと口先で言いながら自ら知ろうともせず、それは結局のところ今も変わらない。それだけの話です」

 知りたいと言いながら、知ろうとはしない。その感情を、私も理解できないわけではない。どれだけ大切な人物であろうと――むしろ「だからこそ」というべきか。その人の本心を知るのはどこか恐ろしい。自分がそうと信じているものを、覆されないかという恐れ。

 ただ、それ以上に、私はXの言う「大切な人」というものが頭に引っかかった。

 Xにも、大切に思う人物がいたということ。知りたいと願い、かつ、知りたくないと思うほどの存在が、Xの中に今もいるということ。

 その人は今、どこにいるのだろう。既にどこにもいないのか、それとも、Xの知らない場所で、今も生きているのか――。

 そうかい、と言って、店主が本を引っ込めようとした、その時だった。

「あの、――もう少しだけ、いいですか。中身は、見ないので」

 店主は「何だい、面倒な客だな」と言いながらもXに改めて本を差し出す。

 Xはそれを受け取ると、その表紙を撫ぜる。言葉の通り、本を開くことはなく、ただ、ただ、紺色の――夜色のそれに、触れる。夜闇の上に星々の光が瞬く、不思議な本。その質感を、温度を、忘れまいとするかのように、ごつごつとした指先がそっと本の形をなぞっていく。

 私はXについて、何も知らないと言っていい。異界潜航サンプルを運用するにあたって、必要以上の情報はいらない。Xは『生きた探査機』で、それ以上でも以下でもない。

 ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、Xの「人としての」横顔に触れた気がして、何とも落ち着かなかった。

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