第2話 美術書の西森さん

 これは30年前の話。多少の脚色はあるが、全て実在の人物と実話を元にしている。


 都内某所に牙城を構える大型書店。新人の俺が配属されたのは「美術・芸術」のフロアーだった。絵画や彫刻、陶芸や写真。大きな箱に入った一つ云十万円の豪華本などを扱っている。世界一小さい本というのも展示していた(当時)


 そこで働くのはやはりプロフェッショナル。ここでは前回で語った男たちとはまた異なる修羅の話をしようと思う。


 美術・芸術書のフロアにおいて最重要分野である「美術・デザイン書」を担当していたのが西森さんだ。ちなみに女性なので呼び捨てにはできない。


 そのジャンルの中には美術における画集・絵画技法書・美術芸術史・美芸に関する読み物と、デザインに関する同種の書籍が含まれる。レジ前の大型平台を領有し、その近隣の島棚しまだなをも支配下に置く、フロアの最大勢力を采配していたのが、まだ二十代の半ばにも達しない、うら若き女性だった(社内で可愛いと評判だった)


 これは書店、ないし図書館に働く者としてはあるあるではあるが、書籍の在庫を聞けば「◯番棚の△段目の左から◇冊目」と答える記憶力の持ち主であるばかりでなく「常備回転中につき数日で再入荷」「版元品切れ中」「絶版」とまで回答してくる。


 凄すぎて怖い。ちなみに告白すると、俺はついぞそこまでのスキルを持ち得なかった。


 特定の書名が分からない顧客からの「こんな本を探している」という問い合わせにも、書店員は対応する必要があるが、西森さんはそれも凄かった。


 特に美術に造詣があった訳ではない(と思う)が、単に商品知識として、数多ある書籍の大まかな内容を把握し、顧客に対して適切な助言を行っていた。


 もちろん担当する書籍の全てに目を通すことは不可能だ。ではなぜその様な事が可能だったのかと言えば、それは広大な売り場面積を誇り、それに比例して大きな売上を上げる大型書店だからこその秘密がある。


 出版社の営業担当は、書店の平台が欲しい。新刊の初回発注が欲しい。だから足繁く書店に通い、自社の欠本を調査し、新刊の案内を行う。その際に新刊の内容とセールスポイント、類書との差別点を説明してくれる。


 それを記憶して、顧客の要望にマッチさせるのだ。記憶力が怖い。


 しかしある日、西森さんはサラリーマン風の男性客から問い合わせを受けた。


「ポリマーの本はどこですか」

「ホリマーですか?」

「いや、ポリマー」

「ポリャマー?」


 苛つく男性客。俺は見兼ねて助け舟を出した。


「恐れ入ります。高分子のポリマーでしたら、一つ下のフロアで取り扱っております」


 男性客はブツブツと文句を言いながらエスカレーターへと消えていった。


 ジャンルに特化したプロフェショナルも、他ジャンルに関してはからっきし。これはある意味、当時の大型書店の弱みであったかも知れない。


 その後「知らないよそんなの!」と西森さんはキレていた。怖い。でも可愛い。


 ちなみに30年経った今でも、上記のやり取りは一言一句正確に記憶している。

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