第21話 女の喧嘩

「では、はじめ!」


 百恵の号令が桜狩家の剣道場に響き渡る。

 裾に菖蒲のあしらわれた着物姿の百恵は普段以上に凜々しく、表情も厳しい。

 明香梨の衣装は野穂高校指定のセーラー服を改造した、普段妖魔討伐の時に使っているもの。三つ編みも解き、いつでも角髪を解放できるようになっている。

 一方トワ子もセーラー服姿だが、素材は先日千彰に施したのと同じく指先から放出した糸を編み上げたもの。

 場に千彰の姿がないのは、「これは女の喧嘩です」と百恵に一蹴され、「御堂のお山で稽古でもしてきてください」と強引に追い出されたから。

 百恵が立ち会うのだから凄惨な結果にはならないだろうと千彰も渋々納得して、彼はいま御堂家が管理する山のひとつに入り、鶻業を呼び出して稽古に励んでいるはずだ。


「はああっ!」


 明香梨の右拳がトワ子の顔面に迫る。左手の甲で押し払いながらトワ子が一歩踏み込む。衣服が触れ合うほどの至近距離からトワ子はヒジを振り上げる。


「くっ!」


顔を反らしてギリギリで避けるも遅れた髪が数本切られ、はらはらと落ちていく。振り上げたヒジをトワ子は更なる力を込めて振り下ろす。


「シッ!」


その鋭利さは刀と呼んでも差し支えない。こんど当たればきっと衣服だけでは済まない。触れる寸前明香梨は体を開いて回避。トワ子に払われた右拳を握り直してレバーブローを放つ。

命中。

鬼としての力はさほど込めていないが、トワ子の体はくの字に折れ、表情が苦悶に歪む。


「んぬぁああっ!」


 拳を振り抜いてトワ子のからだ床に殴りつける。

 これは喧嘩なのですから、とトワ子はもちろん明香梨も刀を持つことを許さず、ふたりは素手。刀がなくても闘えるように、せめて増援がくるまでの時間稼ぎぐらいはできるようにと、明香梨も拳術や体術の稽古も欠かしてはいない。

 それが遺憾なく発揮される最初の場が、こんな痴話げんかにも似た状況だとは思いもしなかったが。


「まだやるの?」

「当然、です。あなたが身を引けば、我が主の恋路に障害はなくなりますから」


 腹ばいの姿勢で荒い呼吸のトワ子は、それでも明香梨への敵愾心を微塵も消すことなく睨み続ける。


「あのさぁ、それなんだけどさ。本当なの? 千年生きてるって」

「わたくしは、産生して頂いた頃に一度だけ主の記憶を見せて頂いたことがあります。そこに映されていた情景は、平安期のそれと言えるものでした」


 そんなこと言われても、と渋面で返しつつ、


「でもそんなすごいのがいるなら、もっと名前知られてるはずでしょ? なのにすずめも知らないって言うし、ひばりさまもご存じないって言ってるのよ?」


 え、と百恵が小さく声をあげる。


「百恵さま?」


 ふたりの視線を浴びて、百恵はいちど視線を落として考えをまとめ、


「ああ、いえ、だいじょうぶです。わたくしは昨日より前に二回ほど、鋏臈さんに会ったことがあるもので。あのひとも知っているのだと勘違いしていました」


 それは千彰が産まれたばかりの時と、百恵が千彰とふたり暮らしを始めたばかりの頃。

 最初は遠くから、二度目は庭先で洗濯物を干しているときにすぐそばで。

 ひとに化けることもせず、ひとの上半身を生やすこともせず、巨大な蜘蛛の姿のまま、ただ静やかにおだやかに百恵と幼い千彰を見つめ、去っていった。

 蜘蛛は家を守る益虫だ、と百恵は彼女の母から聞かされていたこともあって悪い妖魔ではないと判断し、胸の奥にしまっていた。


「だから先日、人の姿でやってきた時にすぐに分かりましたよ。あのときの方だって」


 柔らかくトワ子に微笑みかける。

 百恵の言葉に驚いていたトワ子も微笑み返す。しかしまだ立ち上がることはできないようだ。


「それは、我が主も喜ぶと思います」


 ふふ、ともういちど微笑み、百恵は話題を戻す。


「ともあれ、あのひとが知らなかったというのは方便でしょう。もしくは……、いいえ、これ以上は邪推がすぎますね」


 それって、と目を丸くする明香梨に、百恵は「素人の憶測ですよ」と意地悪く微笑みかけて追従を封じ込めてトワ子に向き直る。


「わたくしの目には、おふたりの力量差はじゅうぶんにあると判断します。それに、鋏臈さんは誰かの手で障害が取り払われたとしても素直に喜ぶようには思えない矜持をお持ちだと、わたくしは思いますよ」


 前半は厳しく、後半はやさしく言い、トワ子の反応を待つ。


「……はい。それは、理解しているのです。でも、個人的な感情がどうしても抑えられなくて……」

「それだけ、鋏臈さんのことを大切に思っているのですね」


 こくりと頷くトワ子。


「大切なひとの恋路を応援したい気持ちはわかりますが、時としてそれは無粋なものと捉えられることは多々あります。トワ子さん、いまは引いたほうがよろしいでしょう。これ以上喧嘩を続けると、明香梨さんも抑えが効かなくなるでしょうから」

「……はい。身に染みています」


 強く殴りすぎたかもしれない、と自省しつつ明香梨は言う。


「じゃあもう、わたしには絡んでこないのね?」

「わたくし個人としては、明香梨さんに喧嘩を売ることはもうないでしょう」

「そう。ならいい」

「はい。ではこれでこの喧嘩はおしまいです。いますぐ仲良しこよしにはなれないでしょうが、無用な喧嘩は避けるようにしてください。どうしても、というのなら今回のようにわたくしが立ち会います」


 ぱん、と柏手を打ってにこりと微笑む百恵。

 ふたりも素直に頷き、どちらからともなく視線を合わせる。

 互いに妙に気まずい気持ちになって、それに耐えきれなくなった明香梨が口を開く。


「そ、そういえば千彰くん、そろそろ戻ってきてもらってもいいんじゃないですか?」


 あらいけない、とこちらも話題を変えて欲しかったのか、百恵は大げさに手を叩いて袂からスマートフォンを取り出して千彰の番号をコールする。


「……でないわね。稽古に夢中になっているのでしょうか」


 一旦呼び出しを切って袂にしまって立ち上がる。


「お茶を淹れましょうか。冷めてしまいましたから」


 はい、とトワ子が頷き、明香梨も立ち上がる。


「わたし、千彰くん呼んできます。御堂の家のお山ならわたしでも入れるでしょうから」


 わたしも、とトワ子が立ち上がらなかったのは、百恵をひとりにさせないため。そのことを口にすれば彼女は「構いませんよ」と言うのは目に見えていたので、トワ子はあえて渋々お譲りします、という体裁で言う。


「お願いしますね、鬼のお姫さま」

「あんたこそ、粗相するんじゃないわよ」

「お姫さまこそ、迷子にならないようご注意なさいませ」


 うるさいわね、と口をへの字にして睨み付け、百恵に一礼して去って行った。


     *     *     *


「ふふ、トワ子ったら」


 そんな様子をトワ子の目を通じて見ていた鋏臈は、住処としている町外れの森でひとり微笑んだ。

 千彰たちが暮らす、野穂の町は森に囲まれている。

 御堂の家が管理するのは北側。妖魔を含む妖たちはそれ以外の三方に住まい、鋏臈と出会った地下闘技場は南側。彼女が住処とする一角だ。

 五十年前の和解より以前から、御堂の家は妖魔も生態系の一部、という通念があるので無闇に攻め入ったりはしない。あくまで人里に降りて人々に害を為す妖魔だけを討伐している。


「鬼のお姫さまも、ずいぶんと変わられましたね」


 千年前、鬼と人は和解した。

 その証として、人の剣士である桜狩家の男と、鬼の姫が婚姻した。

 鬼の一族は和解以前、妖をまとめる立場にあり、彼らの圧倒的な戦闘能力は人を窮地に追いやっていた。


「わたくしがあの方と出会ったのは、あの頃でしたわね」


 平安の世とは名ばかり。

 京の都はそこかしこに行き倒れや餓死、妖魔の食い残しなどによる遺体や白骨が散見され、政治はそれを無視するかのように享楽に明け暮れていた。

 民草のため、と立ち上がったのは陰陽師たち。

 発端は貴族たちを妖魔から守るため。だが妖魔と戦ううちに民草が置かれている惨状に心を痛め、心ある侍たちなどを中心に討伐隊が結成された。


「あの方も、その中にいらっしゃった」


 いまでこそ、妖は人の感情を糧としているが、千年前は当たり前に人肉を喰らい、糧としていた。

 鬼の一族という強大無比な戦力をなくしたことで戦力差は一気に人間側へ傾いた。

 困ったのが残された妖たち。

 人を安定的に喰うことができたのは、鬼の圧倒的な戦力があってこそ。

 妖たちは人肉を喰らうことで得ていた感情の力を、それ単体で吸収できるように徐々に変化し、いまでは人肉を喰らうことしかできない存在を妖魔と呼称するようになった。

 桜狩の剣士と鬼の姫のなれそめに話を戻せば、とは言っても複雑なことはない。

 ひと目惚れだった。

 お互いに。

 それも命をかけた戦場で、だ。


「恋は盲目。それはわたくしにもわかります」


 恋に落ちた剣士と姫は申し合わせたわけでもなく、自身の陣営に和解を推奨し始め、その熱意に押し切られるかたちで和解が成立した。

 実際、剣士と鬼が駆け落ちをするケースはそれまでも多々あり、それがついに、という雰囲気もあった両陣営は和議を結び、その証としてふたりの披露宴が行われた。

 それは人からも鬼からも祝福をもって受け入れられ、駆け落ちしていた者たちや、その機会をうかがっていた者たちもこの際だから、と招待され、結局三日三晩続く大宴会と成り果ててしまった。

 鋏臈もひっそりとふたりの祝宴に参加していたが、めざとい剣士に見咎められ、妖魔だからと切り捨てられそうとしたところを主賓である桜狩の剣士に、祝宴に刃傷沙汰はないだろうと助けられた。

 そのことに恩を感じ、彼をひっそりと守ろうと誓った。


「それなのに、あの方は……」


 婚姻から一年後、流行病であっさりと去ってしまった。

 病床で彼は「また会おう」と言ってくれた。

 占いは得意だった。

 元来彼女の一族は易者として人に紛れていた。混迷する時代に易者は重宝され、彼女の一族は鬼族よりもいち早く人とまぐわっていた。

 結果、妖としての種族としては滅んだが、人界で活躍する占い師たちの一部は鋏臈の一族の血を引く者も少なからずいる。

 いままで培ってきた全ての技術を注ぎ込んで鋏臈は彼の魂の行方を懸命に追い、千年後にもう一度桜狩の剣士として生まれることを突き止めた。

 だが個人的な理由で占星術を使ったとして彼女は一族から追放された。

 それをきっかけに鋏臈は占いの技術を棄て、二度と使うことはなかった。


「あの方、いいえ、千彰さまと添い遂げられるのなら、その程度どうということもありません」


 それからの千年を、どう過ごしたかを鋏臈はよく覚えていない。

 妖は人よりも長命であるが、それでも千年を生きた個体などほぼいない。

 それでも、鋏臈は決めたのだ。

 千年後にもう一度あの剣士と会うと。

 最初は冬眠のようなことをしようとしたが、自然界は移ろいゆく。一定の場所で無防備なまま、たとえば土中などに身を潜めていると、大雨での土砂崩れや地震などによる鳴動に巻き込まれる可能性がある。

 そのほかの理由により鋏臈は冬眠を諦め、自らの精神が摩耗しないことを念頭に延命を開始した。

 幸い自分は蜘蛛の妖だ。

 脱皮と同じ要領で自身と同じ肉体を産生し、食わせることで肉体の劣化を防ぎ、人の屍肉をほんのわずか取り入れることで精神の摩耗を防いだ。

 なぜ妖魔が人を喰らうかと言えば、人の感情を採るためだ。

 それは屍肉にも、わずかにだが残っている。人の放出する感情は日々の糧として、百年に一度屍肉を喰らって魂の糧にしてこの千年を生き延びてきた。

 そして占いの結果通りに千彰は産まれ、喜びと共に見守る中、ほんの数ヶ月前に鋏臈は斑目トワ子を産生した。

 素材は、行き倒れていた女子高生。

 きっと妖魔にでも襲われたのだろう、半死半生の彼女が鋏臈のねぐら近くふらふらとに現れ、助ける代償にそれまでの記憶をもらい受けている。

 その感情も記憶も、よほど愛されて育ったのだろう、味としては申し分なかった。それどころか従者として活用できる。これは僥倖だと強く感じた。

 自分の血肉を与え、自分の娘であると記憶を書きかえたはいいが、そのときに千彰と明香梨との関係も一緒に書き加えたため、あの過剰な反応をするようになってしまった。


「わたくしのためを思っての行動なのはありがたいのですけれどね」


 入浴中の千彰を連れてくるまでするとは思わなかった。あのあとしっかり言い含めておいたから二度とやらないだろう。それに、明香梨とトワ子は、あの感じであればいずれよい友人にもなれるだろう。


「さて。トワ子はもう大丈夫でしょう」


 思い残すことは、無論ある。

 

「千彰さま、どうかお健やかに」


 馬籠は三日だと言った。

 けれど、足下にある試合場から感じる鏨牙の気配は、時を追うごとに増大していくのをひしひしと感じる。


「馬籠さま、いま参じますわ」


 十年前は玄壱と共に、そして今回は馬籠の元へ。

 十年前はついに百恵の元へ帰すことができなかったが、今回はそれを覆す。

 なによりもまず、千彰が健やかに生きていられる世界にすること。

 千年前のように見送ることだけは、二度としたくないから。

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