第16話 鏨牙 (前編)
「邪魔するぞ」
落雷と共に試合場に現れたのは、おそらくは人間。
年の頃なら七十代。顔にこそ皺が複数刻まれているが、体格はがっしりとしていて、千彰と比べても遜色がない。
身長は千彰と比較して頭ひとつ高く、手足もそれに準じて長くたくましい。
いや、たくましいと言うには言葉が足りなさすぎる。
以前闘った鶻業。彼以外にも千彰は様々な妖や妖魔と戦ってきたが、そのいずれよりも筋肉は分厚く、うかつな剣術では文字通り歯が立たないと物語っている。
振り返ったふたり、そしてわずかな怒りをもって男を見据える鋏臈。三者の視線を受けながらこちらを睥睨するその瞳を顔を、千彰はある人物と重ねてしまう。
「じいちゃん……?」
千彰の記憶の中にいる祖父の玄壱とよく似ていた。
生きていた。
十年前に行方不明となった玄壱が、あの頃の姿とまるで変わらずに。
それがなにより嬉しく、警戒心を、
「ちがう千彰くん! そのひとが玄壱さまのはずがない!」
すずめの叫びに千彰は我を取り戻し、構える。だが男の方がはやい。
「まずは、鬼!」
巨躯と言っても過言ではない体躯からは想像もできないほどの速度で男は動き、明香梨の喉輪へ手を伸ばす。
「なんなんですか、あなた!」
非難しながらもすずめは一瞬早く明香梨の額から札を剥がす。解放された明香梨は立ち上がりながら鞘で男の右掌を受け止める。なのに反動で数メートルは後退させられてしまう。明香梨は壁が近いことを感じ取り、鞘だけを捨ててバックジャンプ。壁を蹴ってさらに高く跳躍し、男の頭上を越えてすずめからもリングからも離れた場所へ着地する。
「我は
名乗りながら男、鏨牙は明香梨のもとへ疾走。
逃げることは不可能と判断し、峰に左手を添え、鏨牙の突進を受け止めようとふんばる明香梨。
「急急如律令!」
鏨牙の背後からすずめが叫ぶ。ふところから大量にばらまいた札が彼女の命ずるまま、鏨牙の足下に進路上に集まり、光を放ちながらイバラへと姿を変え、鏨牙の両足に絡みついていく。
「む」
鏨牙の突進がびたりと止まる。だが時間を稼げたのは数瞬。まとわりつくイバラを、足を上げることで強引に引き剥がし、そのまま歩き始める。突進に移行しないのはイバラが絡み続けるから。
「明香梨さん逃げて!」
くじけることなく札をまき散らしながら叫ぶすずめに、応えたのは千彰。
「おおおっ!」
吠えながら鏨牙の左横から飛びかかり、上段から斬りつける。
「ぬうんっ!」
からだを捻りながらの右拳がくる。巨岩と錯覚するほどの拳圧に、千彰はしかし怯まず拳へ振り下ろす。硬い。いままで斬ってきたどんな妖魔よりも硬く、中指と薬指の間にわずかに食い込ませた以上に刃を進ませることができなかった。そして千彰のからだが一瞬止まった隙を鏨牙が見逃すはずもなく。
「ぬるい!」
突き立てられた刃に滑らせるように鏨牙は拳を打つ。
「がっ!」
刃を鍔を滑り抜けて腹部に命中した拳は、千彰を軽々とリングまで吹き飛ばし、石造りの床を何度もバウンドし、転がる。
「千彰さん!」
それを受け止めたのは鋏臈。糸を放出して網を造って受け止め、勢いを丁寧に殺して最後は自身で受け止めた。
「悪い」
「いえ。伴侶として当然のことです」
冗談ではないのだろうが、少し心が軽くなった。
「助かった」
「では援護いたします」
どうやって、と思う間もなく鋏臈は天を仰ぎ、甲高く咆哮する。収まると同時に物影から壁の隙間から蜘蛛が無数に湧き出す。大きさは、小石ほどのものから大型犬ほどまで多様だ。
「明香梨!」
すずめの護符による足止めも功を奏し、鏨牙と明香梨の距離はまだある。明香梨は角髪を展開してはいるが動けないでいる。攻撃の隙をうかがっているのか、威圧されているのかはここからでは判らない。
「……そこか」
蜘蛛が大量に湧いたことで鏨牙がこちらに視線と殺意を送ってくる。ほんの数瞬前に返り討ちにされたというのに、あれだけの殺気を放っているというのに不思議と恐怖は感じない。
となりに鋏臈がいるからかと思ったが、少し違う。
鋏臈とは出会いの仕方こそ最悪に近い形ではあったが、刀を交えて伝わってくる思いに一切の邪気や悪意がなかった。だから信じられると思える。
そんな彼女が味方についてくれることに安堵はしているが、しっくりくるものではなかった。じゃあなにが、と理由を探して出た答えが、鏨牙が強いから、だと行き着いた。
自分はつくづく、と思う。
「千彰さま」
一瞬の思考を中断するように、鋏臈が呼びかけて頷くのを見て千彰は走り出す。
「いきなさい蜘蛛たち!」
鋏臈の号令の後、湧き出した蜘蛛たちが一斉に鏨牙へ襲いかかる。
「むうぅっ!」
拳で脚で蜘蛛を払う鏨牙だが数には勝てず、すぐに埋め尽くされてしまう。最初は人の姿をした山だったそれは蜘蛛たちの圧力により次第に崩れ、間もなく平坦に、
「ぬりゃあっ!」
鏨牙の気合いと共に火山の噴火のように大小の蜘蛛がはじけ飛ぶ。垣間見えた鏨牙の上半身へとそれでも蜘蛛は押し寄せ続ける。
「うぬうっ!」
蜘蛛たちの隙間から鏨牙は両手を左右に突き出し、手近な蜘蛛を左右それぞれに鷲掴みにして、札へと変える。
え、と千彰が驚きの声を上げている間に、鏨牙が手にした二枚の札がばちばちと火花をあげる。まさかそんな、とすずめの顔が青ざめる。
「明香梨さん!」
「七星さん逃げて!」
すずめと鋏臈の叫びも直後の爆発にかき消され、四人は身をすくめてしまう。
「ふんっ!」
その隙をついて蜘蛛の大群の残骸から飛び出し、明香梨の喉輪を掴み上げる。
「くぁ……っ!」
ぎりり、と鬼の肉体であっても危険だとわかる音と苦悶の声に千彰が飛び出す。
鏨牙の背後から。極限まで音と呼吸と気配と殺気を消して。
これを卑怯だと断じていいのは人間同士の、命のかかっていない試合のみ。そして、話せば分かってもらえるなどという戯れ言も。
人間か鬼であれば心臓があるあたりをまっすぐに狙った突き。間合いに入る。寸前。
気付かれた。
「ぬんっ!」
振り返りながら、明香梨を掴み上げながら、鏨牙の左裏拳が迫る。巨岩かと見紛う拳はしかし、千彰ではなく刀身を狙った一撃。だがそれは鏨牙のからだをがら空きにする。
「急急如律令!」
「蜘蛛たち!」
すずめは大木をそのまま加工したような巨大な矢を、鋏臈は無数の蜘蛛を。ふたりの同時攻撃を、鏨牙は裏拳を止めて正面から受ける。
「ぬおあっ!」
裂帛の気合いと共に矢は無数の札へと還元され、はらはらと地面へリングへ舞い落ちていく。それはいい。いま放った矢は鏨牙の気を逸らすことだけが目的。自分の術は未熟。そして鏨牙は強い。だから無効化される。悔しくない。絶対。
それよりも注視すべきことは別にある。
「煩いわ!」
これだ。
鏨牙は大木の矢から還元した札を使って爆発を起こし、鋏臈が放った大量の蜘蛛たちを一斉に退治したのだ。
「やっぱり使った!」
鏨牙は、陰陽師だけが使える札を使える。ならば人間。それも陰陽師だということ。なのに鏨牙の見た目は角髪こそないが、鬼族に比肩するような筋骨隆々とした姿。
そんな存在があることなんて、いままで聞いたことがない。
「おおおおっ!」
すずめの動揺を払うように千彰が雄叫びをあげ、鏨牙の、明香梨のノドを掴む右手首を斬り上げる。やはり、硬い。刃は手首の肉を少し裂いただけで止まってしまう。
だがなんだというのだ。
脚を踏ん張り、全身の力を込めて振り上げる。
「あああああっ!」
脚が地面にめり込み、全身を押しつぶすような圧力を超えて千彰は刃を押し上げ、鏨牙の右手首の切断に成功する。
どさりと明香梨のからだが地面に落ちる。すかさず蜘蛛たちが明香梨の首に絡みつく鏨牙の手首を器用に外して放り投げる。別の蜘蛛が同時に明香梨を診察する。意識を失っているが、傷は浅い。その報告を受けて鋏臈は安堵しつつ蜘蛛たちへ新たな指示を出す。
直後に地面との隙間にわさわさと潜り込んで明香梨を持ち上げて主人の元へ走る。
鏨牙が妨害してこなかったのは、その視線が千彰に向けられていたから。気絶したことで明香梨から興味が薄れたのはひとまず幸運だと鋏臈は蜘蛛たちをこちらへ呼び寄せる。
「ふー……っ」
同じく千彰の元へ集まった蜘蛛たちを、千彰は鋏臈に視線を送って拒否。荒い息をどうにか整えながら、鏨牙へ構える。
鏨牙は落とされた右手にも、手首から流れ落ちる血にも興味を示さず、千彰に向き直ってじっくりと観察する。
「
落ち着いた声音で言われ、千彰は面喰らう。
「なんなんだ、あんた。札を作ったり札を使ったりして」
「もはや覚えてはおらぬ。だが、鬼も妖魔も滅する存在だということは覚えている」
ぐるりと明香梨たちへ顔を向けるよりもはやく、千彰がその視線の先に回り込む。
「すずめ、鋏臈! はやく逃げろ!」
「妖士が妖魔をかばうか!」
胸ぐらを掴まれ、軽々と持ち上げられる千彰。
「あんたこそ、なんだ。妖とは闘うだけだ。殺し合う相手じゃない……っ!」
「妖魔が、妖魔こそが諸悪の根源! 滅ぼさねば、ならぬ!」
一八〇センチメートル近い千彰の長身をさらに持ち上げ、ついにつま先が地面から離れる。
「が……っ」
「あれらをかばうのなら、ぬしもまた敵。滅するのみ!」
反動を付け、頭から地面へ叩き付ける。
「急急如律令!」
地面へ激突する寸前、鏨牙たちの足下に散らばる札を使役して急ごしらえのクッションを作るすずめ。しかし、
「ぬるい!」
またもすずめの札は無効化され、千彰の頭部は地面へ叩き付けられてしまう。土煙が派手に立ち上り、衝撃波とそれに乗った砂礫がすずめたちを襲う。
「千彰さま!」
収まらない土煙を手で払いながら鋏臈が駆け出す。
「ぬおおっ!」
鏨牙が放つ裂帛の気合いで土煙が吹き飛ばされた、と思ったのも束の間。鏨牙の丸太のような豪腕が鋏臈の喉元へ迫る。
「妖魔風情が!」
「鋏臈!」
割って入った千彰はリングを斬りつけて石つぶてに変え、鋏臈へと迫る左腕へ当てる。
ダメージには至っていないが、目標をこちらに切り替えることはできた。
「ならば貴様から!」
瞬く間に詰められた間合いと、どうにか視界に捉えられた鏨牙の拳を、千彰はスウェーで避ける。柄を逆手に持ち替えて逆袈裟に切り上げるも刃に沿うように蹴りが来る。構わず切る。
交錯。
「がはっ!」
相打ちだったが吹き飛ばされたのは千彰。リングと水平に蹴り飛ばされながらも、意識ははっきりとある。
「くっ」
飛ばされながらものけ反り、頭をぐるりと下に、次いで両手の平をリングにしっかりとつく。ハンドスプリングでジャンプして距離を取り、リングの縁ギリギリに着地すると同時に両足に力を溜める。
「おおおっ!」
追撃に迫る鏨牙の右拳を、リングに這うようにしてからだを低くして避ける。腕が伸びきるのを待って立ち上がりながら鏨牙の胴を切り上げる。
「せあっ!」
「ぬりゃぁっ!」
切っ先の向こうから鏨牙の膝がリングすれすれを奔ってくる。全身の膂力を最大限に使って鏨牙の腹部を胸を切り上げ、ついに吹き飛ばす。
「ぬうっ!」
間髪を入れず、仰向けにダウンした鏨牙へと切っ先を下に飛びかかる。しかし鏨牙は肩甲骨を支点としてぐるりと一回転。その回転力を使って両足を揃えての蹴りで迎撃に入った。
「うおっ!?」
驚きは一瞬。やることは変わらない。鏨牙の蹴りを頬ぎりぎりで掠めさせつつ支点となっている頭部へ切っ先を、
「ぬぅん!」
逆立ち状態の鏨牙が今度は縦に回転。同時に閉じて揃えていた足を開いたため、鏨牙の両足を抱え込む形になっていた千彰はヒザがまともに顔面に命中。またも吹き飛ばされ、リングを転がってしまう。
力量の劣る千彰が、唯一有利な点は間合いだ。人間同士であれば、遠隔から僅かな傷を与え続けることで相手の戦意を奪うことが剣術の目的だ。
が、鏨牙にはその戦法は使えない。第一に渾身の力を込めなければ損傷できない。第二に札を使って傷を癒やされる可能性がある。
なので急所を一撃で貫かなければ勝利はない。
そんなことを考えながらも、千彰のからだはほぼ自動的に立ち上がり、正眼に構え直していた。
「ふー……っ」
楽しい。
これだけ追い込まれながらも、千彰の胸に去来するのは興奮と高揚感。
あれだけ渋っていた、ある種のトラウマにもなっていた人の形をしたものとの対峙がこんなにも楽しい。こんな思いは物心ついたころ、祖父に誘われて剣術をはじ、
「がはっ!」
あっという間に距離を詰めてきた鏨牙に、右フックを脇腹に食らってしまう。
いけない。いま対峙しているのは、考え事をしながら戦っては勝つどころか生き残ることもできない相手なのだ。
内蔵を捻り潰されるような衝撃を懸命にがまんしつつ、千彰は鏨牙の首筋を狙って刃を振り下ろす。ぬるり、と粘り気のある挙動で鏨牙は刃を避け、一旦距離を取った。
「千彰くん!」
視界の隅にいるすずめが飛ばした札が、意志を持つかのように脇腹に張り付き、治療を始める。ありがたい。内心で感謝しつつ鏨牙へ斬りかかる。
焦りも油断もぬかりもはなかった。
こちらから動くことで生まれる鏨牙の隙を、という腹づもりだったがそんなものは向こうからすればただ殴られに来ただけにしかならなかった。
「がはっ!」
どれだけの乱撃を受けたのかすらわからないまま千彰はまたも吹き飛ばされ、今度は受け身を取ることも出来ずにリング場外と客席を隔てる金属製のフェンスへ背中から叩き付けられてしまった。
「とどめ!」
リングを蹴り、鏨牙は大きくジャンプ。土むき出しの天井すれすれを通って放物線の描く先には、フェンスにからだをあずけてぐったりと座り込む千彰。
「千彰さま!」
「千彰くん!」
鋏臈とすずめが駆け寄りながら自分の名を呼んでいる。鏨牙の巨躯が、牙を剥き出しにした龍の顎のように迫る。それらは感じ取れるが、できたことは指先がわずかに動いただけで千彰の意識は、そこで途切れてしまった。
「しっかりして!」
「目を覚ましてくださいまし!」
懸命に声をかけながら走るふたりの頭上を、何者かが通り過ぎる。
「おっと。お嬢ちゃんたちは下がっておれ」
上から響く年老いた男声に、ふたりは視線を上げる。
「馬籠さま」
すずめがつぶやくように、その主はカンカン帽に着流しの浴衣姿の馬籠。鶻業との試合後に、「桜狩の家の贔屓じゃ」と千彰たちに話しかけてきたあの妖だ。
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