第9話 狭間にあるもの
信じるしかない、というのは不安で不安で仕方ないことと同義だ。
過去何度も何度もこうして札を授け試合へ、あるいは妖魔の討伐へと見送ってきた。その度に不安は鎌首をもたげていたが、今回は事情が違いすぎる。
いつもの試合なら千彰より少し強い相手を、妖魔なら援護が必要かどうかを配下の陰陽師の報告などを元に十分に吟味してから依頼している。
組合に加盟していない妖からの試合の申し込み、というすすめが経験したことのない事態に困惑しつつも、彼女は情報収集を怠らなかった。
なのに、鋏臈に関する一切の情報が入ってこなかった。
なのに、迎えに来たのは鋏臈本人ではなかった。
不安材料なら山ほどある。
でも、闘うのは千彰だ。
湧き出てくる不安を半紙で顔ごと隠し、すり抜けるように千彰の左に立ち、できるだけ毅然と言う。
「御堂家の統領として、なにより桜狩千彰くんの友人として確認します」
「なんでしょう」
トワ子からの水を差すな、と含めた鋭い視線に耐えつつすずめは続ける。
「この試合、審判がいないようですが」
そんなことですか、と嘆息するトワ子。
「不要、と我が主が判断しました。あなた方が普段やっているような野蛮な試合ではありませんので」
野蛮、と断じられて激しく反論しようとしたが、ぎりぎりで自制し、続ける。
「ならルールはどうなっているのですか」
「そちらと同じです。故意に殺害する。相手の攻撃でリング外に落ちる、あるいはダウンの後テンカウント経過する、それらいずれかの該当で敗北です」
「審判がいないのにそれをどうやって判定するんですか」
「カウントぐらいはそちらで数えて頂いて結構。それに今回は試し。殺害に至るまでするつもりは毛頭ありません。ご安心を」
でも、と不安が拭いきれないすずめは食い下がる。
「なら、せめてあたしがセコンドとしてタオルを投げることは認めてください」
「……いいでしょう。それであなたが満足して試合を始めさせてもらえるなら、主も気にはしないでしょうし」
根負けしたように、ため息交じりに言われて内心歯噛みしつつもすずめは頭を下げた。
「ありがとう。邪魔をしてごめんなさい」
千彰に視線を向け、
「ちゃんと、帰ってきてね」
「わかってる」
短く言葉を交わしてすずめは試合場からよいしょ、と降りる。明香梨は何か言いたげに手を伸ばしただけで口を噤み、すずめと共にリングから降りた。高さも普段使っている試合場と変わらない。すずめの鼻から上がようやく試合場の床面からのぞける程度。
「…………」
無言で抜刀し、同じく正眼に構える。
その試合の開始に、明確な合図があったわけではない。
ただどちらからともなく動き、間合いを計りながら初手を叩き込む隙をうかがう。
先に動いたのは千彰。
一見無造作に二歩間合いを詰め、こちらの右下から左上への逆袈裟切りを放つ。バックステップで避けられる。だがこれは行動を制限するための一閃。さらに間合いを詰めて胸元へ突きを放つ。セーラー服のリボンへ触れる寸前、ぬるりと左へ抜けるトワ子。
「まだまだですわ」
す、と右の中指で千彰の刀の腹を押す。放った突きにより姿勢の制御ができない千彰の狙いはそれだけで大きく逸れ、自分の左側面を無防備に晒してしまう。
切られる、と覚悟した刹那、トワ子は背中をこちらに向け、からだを深く沈める。
「せっ!」
背中全体で殴られた。
千彰のその感覚は間違っていない。トワ子が放ったのは体重全てを乗せたタックル。こんな細身のからだでよくこんな威力を、と半ば感心しながら千彰は吹っ飛び、何度かバウンドしてリングの端ぎりぎりで止まった。
即座に立ち上がったそこに、トワ子の右ハイキックが迫る。こめかみを精確に狙った蹴りを千彰はしゃがんで回避。そのまま地面に手をついて水面蹴り。左足のみ、しかも攻撃中の不安定な状況でありながらトワ子は水面蹴りを平然と受け止め、ハイキックから、かかと落としに移行する。
「シッ!」
「おおおっ!」
立ち上がりながら刀の峰で受け止める。そのまま立ち上がりながらトワ子の足を押し上げ、てようやく転倒させる。追撃。小さくジャンプしながら刀を逆手にトワ子の心臓を、
『いくらあたしのお札でも、心臓とか頭とか潰されたら助けられないからね!』
すずめが普段から口を酸っぱく言っている言葉が千彰の脳を過る。
そして同時に、紺袴に白胴着姿で道場にうずくまる祖父と、少年用の木刀を握る幼い自分の姿も。
「ぬああああっ!」
間一髪。
切っ先はトワ子の左耳を掠めるようにリングへ突き刺さった。
刀身と石のリングが衝突した高音に耳をやられながらも千彰安堵すると共に、吐息が触れ合うほどの距離にあるトワ子の表情が恐怖の色を一切感じなかったことに、むしろ千彰のほうが恐怖を感じた。
静かに息を呑み、心を落ち着けて。千彰は覆い被さっていたトワ子のからだから離れ、納刀する。
「あら。降参ですか?」
嘲笑でも挑発でもない、穏やかな笑みに千彰は憐憫を感じた。
「違う。あんたは妖か人間かわからない。だから殺すようなことはしたくなかっただけだ」
「お優しいのですね」
他人事のように微笑むトワ子に、千彰は思わず声を荒げる。
「殺されかけたんだぞ。恐かったり、憎んだりしないのか」
「これは試合。仮に命を落としたとしてもそれは同意の上のこと。それに、わたくしは主命を果たすだけの存在。いつどこで朽ち果てようと、それが主命で、」
「そういうことを、言うな」
悔しさを滲ませて遮って。ぽたり、とリングに落ちた滴は、汗か、それとも。
「……困りましたわね。千彰さまがそんな風になってしまわれたら、これ以上続けることが難しくなってしまいました」
芝居がかった様子で人差し指を顎に当てて考え込むトワ子。
千彰はいちど大きく深呼吸をして、まっすぐにトワ子を見据える。
「すまない。水を差すようなことをした」
「わたくしは構いませんが、千彰さまは……あらあら、問題なさそうですわね」
再び抜刀し、正眼に構える千彰の眼差しに、翳りは見えなかった。
「では、仕切り直しとしましょう」
こくりと頷く。間合いは千彰で三歩。トワ子で四歩半。互いに二呼吸。動いたのは千彰が先。切っ先は左下。油断の一切ない正面からの突進。狙うは右胴。そこまであと半歩の間合いでトワ子が動く。
「ふふっ」
またしても左へぬるりと抜けるトワ子。しかし今度は切っ先をそこに置いてある。切り上げる挙動に入っていた千彰は踏み込んでいた右足でブレーキをかけつつ柄を握り直し、左側面を広く薙ぐ。
「くっ!」
切ったのは空のみ。
「さてどうしましょうか」
視界の端でトワ子が顎に指をあてて考える素振りをする。わざとらしい、と思うが振り抜いた反動から体勢をまだ戻せていない自分にはなにもできない。
「またタックルでは芸がないですし」
トワ子のつぶやきを無視して刀を握り直し、からだを開いてトワ子へ正対。上段に振りかぶる。
「そうだ」
なにかを思いついたのか、トワ子は無防備に一歩間合いを詰めて懐に入り、そっと千彰の左頬を撫でた。
「??!?!」
混乱するばかりの千彰は、刀を振り上げたまま固まってしまう。
「隙あり、ですわ」
トワ子の左手にいつの間にか刀が握られている。まずい。距離を、いや、このまま柄頭で、と刹那に考えをまとめ、振り上げたままの刀をトワ子の鎖骨目がけてそのまま振り下ろす。
「さすがですわ」
すす、と頬を撫でた右手を千彰の胸にまでおろし、軽く押す。それだけでトワ子のからだは大きく後退。千彰の攻撃はまたも空を切る。だが刀は正眼。このまま間合いを詰めて袈裟懸けに、と一歩踏み出したそこに、トワ子は突きを置いていた。
まずい、と思うのと、その落雷は同時に起こった。
「千彰ぃっ!」
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