第3話 鬼の姫

「はー、いいお湯でした。百恵さま、ありがとうございます」


 百恵が用意した紺色のトレーナーの上下に身を包み、髪にタオルを巻いた姿ですずめが茶の間にやってきた。


「いえ。お食事も用意してありますから、食べていきなさい」

「いえいえそんな、そこまでしていただくわけには」

「子供が遠慮なんかするものではありません」


 きっぱりと言われ、反論もできなくなって、それでもぐずぐず漏らしていると、


「大丈夫です。御堂の家には私から連絡しておきましたから」


 にこりと微笑まれて、これ以上遠慮するのは本当に無礼になってしまうとすずめは承諾した。


「では、お言葉に甘えます。……正直嬉しかったんです。百恵さまのお料理とても美味しいから」

「あら。嬉しいこと」


 ころころと笑う百恵はとても愛らしくて。


「あれ、そういえば千彰くんはどうしたんです? 先に上がってると思ってたんですけど」


 それがね、と眉根を寄せる百恵。


「鶻業さんていう方と入れ違いに明香梨さんがいらして。道場であの子を待つと言うので通したんです。それはいいんですけどそれ千彰さんはお風呂上がりに胴着に着替えて道場に行ったんです」


 気になる名前をふたつも出され、すずめは混乱する。


「え、鶻業さんて妖の、ですか?」

「ああ、やはり妖の方でしたか。千彰さんの次の対戦相手だから話しをさせて欲しい、と言われたので」


 あっけらかんと言われてすずめは頭がくらくらした。


「え、ええと、鶻業さんとは以前からのお知り合いでした?」


 すずめがなにを問題視しているかを察して、百恵は真面目に答えた。


「いいえ。きょうが初対面です。物腰もよい方でしたので、問題ないと思いましたから」


 なにか言おうとしては口ごもり、を何度か繰り返して。やがて力の抜けた笑みを浮かべた。


「……ときどき、百恵さまの胆力が恐く感じます」


 ありがとう、と微笑み、


「妖の方々は、とても純粋です。それだけは、忘れないでください」

「……はい。あたしも、妖の方の知り合いもいるのに、つい忘れてしまいます」

「最前線に立つすずめさんは、仕方ないことでしょう」


 いえ、と首を振って、百恵から告げられたもうひとりの名前に話題を変える。


「それでええと、明香梨さん、来てるんですか?」


 近く帰還する、と本人から報せはあったが、こちらに来るとは思っていなかった。


「はい。本人はお土産を届けに来ただけ、と言ってましたけど、千彰さんがいますよ、と言ったら道場で待ちます、と」


 こんどは上品に微笑む百恵。彼女も千彰と明香梨の関係は好ましく思っている。


「で、千彰くんはお風呂上がったのに道場へ行ったんですね」


 道場でやることと言えばそう多くはない。

 これにはすずめも苦笑するしかなかった。


「まったくあの子は。お風呂だって安くないのに」


 むふん、と鼻息を荒くする百恵に、すずめはまぁまぁとなだめる。


「じゃあいまごろ……」

「ええ。ひとまず放っておくとして、お夕飯の準備をしてきます。すずめさんはくつろいでいてくださいね」

「ああそんな。手伝います。タダでごちそうになったら母や祖母になんて言われるか」

「いいんです。あのひとたちのことは」


 ふん、と鼻息荒く言い捨てる百恵。彼女の旧姓は御堂。すずめの祖母の妹として産まれ、桜狩の家に嫁いできた。つまりすずめから見て大叔母に当たる間柄だ。

 その鼻息の奥にある事情を知るすずめは、なにも言えなかった。


「さ、かわいい孫のすずめさんを困らせてもつまらないですし、お台所に行きましょうか」

「あ、は、はい」

「お大根が安かったから、きょうはふろふき大根にしましょう。すずめさん、皮むきをお願いしますね」


 はい、と返すすずだが、百恵の心によけいな影を落としてしまった罪悪感に、表情は晴れなかった。




「……お帰り。なんだ、連絡もなしに急に」


 髪を乾かす時間も惜しんで紺の胴着と剣道袴に着替えた千彰は、桜狩邸の一角にある剣道場でひとりの乙女と対面していた。


「ただいま。派遣先のお土産を百恵さまに届けに来ただけよ」

 神棚に正対し、張り詰めた弓のような空気をまとって正座する彼女の名は七星ななほし明香梨あかり

 雪のように白い肌と、黒の長髪。左右の頬の横を流れるひと房の先だけは深紅。彼女も紺袴に紺の胴着姿だ。


「だったらその格好はなんだよ」


 ため息の千彰にくるりと正座したまま振り返り、頬を赤らめながら明香梨は返す。


「つ、ついでだからあんたがなまってないか視てあげるって言ってんの」


 振り返ったので逆になっているが、彼女の右側には木刀が一本置かれている。


「移動で疲れてるんだろ。さっさと帰って寝ろ」

「すずめが。すずめがいなきゃ帰りづらいし居づらいのよ、あの家」


 千彰とすずめは幼なじみだ。だからこそ、御堂の家を支配するあの重苦しい空気は幼いころから感じていたし、いまでも出来れば近寄りたくはない。


「んじゃ、ついでに飯も食ってけ。たぶん今頃すずめと作ってるはずだし、百恵さんもそうしろって言うはずだからな」


 言いながら千彰は壁にかけてある木刀を手にする。


「……うん。ありがと」


 ん、と返し、木刀を腰にさして開始線の前に立つ。


「なに、もうやるの?」

「飯は腹減ってたほうがうまいからな」

「ふんだ。あたしにまともに当てたことなんかないくせに」

「うるせえ。今日は加減してやらねぇからな」


 言いながらふたりは道場の中央で切っ先を前に蹲踞の姿勢をとり、こん、と木刀を合わせる。

 それを合図にふたりは立ち上がり、中段に構えて間合いをはかる。

 百十八勝、 二百三十七敗。

 七星明香梨は桜狩千彰にとって天敵だった。




「そこまで。まったく、いつまでやっているんですか」


 百恵が中断させたのは、陽もとっぷりと暮れた頃。


「も、百恵さまっ。申し訳ありませんっ」


 瞬く間に胴着の乱れを直し、流れるように正座をする明香梨とは逆に、千彰の動きはひどく緩慢だった。


「また負けたのですか」

「は、はい」

「まったく。本当にあなたは昔から明香梨さんには弱いのですね」

「相性が、悪いようです」

「技量に差はほぼありません。むしろあなたの方が優れている面も多いというのに。もっとしっかり精進なさい」

「はい」

 巨体を小さくさせる千彰に小さくため息をついて。

「ともかく、ふたりともお風呂に入ってらっしゃい。お夕飯も用意しましたから明香梨さんも食べていってくださいね」

「あ、すいません。すぐ帰ります。こんなに長居するつもりじゃなかったのに」

「まったくもう、最近の子は遠慮しかしないのですか」


 嘆息とともに愚痴をこぼす百恵に、恐る恐る千彰が口を挟む。


「百恵さんが恐いからだと思いますけど」


 じろ、と睨まれ、身をすくめつつも千彰はさらに言う。


「ほら、そうやってすぐ睨む」

「目つきが悪いのはいまさらどうにも出来ないです」

「目つきだけじゃないような気もしますけど」


 こほん、と咳払いで誤魔化し、


「ともかく、連絡はしておきますからお夕飯召し上がっていってくださいね」

「あ、ありがとうございます」


 にこりと返す百恵。


「では千彰さん、明香梨さん。ちゃんと肩まで浸かって」

「百数えるんですよね。わかってます」


 意地悪く笑って返す千彰。


「分かっているなら安心です。さ、はやくなさい。ご飯が冷めてしまいます」


 はぁいとふたり揃って立ち上がり、風呂場へ向かった。

 男湯と女湯に分かれているのはこういうとき便利だと千彰は思った。

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