第2話 風呂と妖

 桜狩おうが家は由緒ある剣術の道場だ。

 故に屋敷は広く、千彰も入ったことの無い部屋が大半。ベテランの家政婦でようやく屋敷全体をどうにか把握している、というほど。


「お帰りなさい。無事でなによりです」


 厚手のタオルを手にふたりを出迎えたのは千彰の祖母である百恵ももえ鈍色にびいろの着物はミヤコワスレの可憐な紫色の花が一輪あしらわれ、とても上品だ。

 一方玄関には荒々しい虎が描かれた腰板が置かれ、百恵はその前に膝をついてふたりにバスタオルを手渡す。


「お風呂を用意してあります。からだを拭いたらすずめさんも入ってくださいね」

「あ、はい。ありがとうございます」


 まさか百恵が直接出迎えてくれるとは思っていなかったすずめはどこかぎこちなく応える。

 何度も顔を合わせているのに、百恵には緊張してしまう。

 幼なじみの祖母、というだけでなく、すずめの御堂家と桜狩家は千年以上の深く長い、ご近所付き合いと呼ぶには軽すぎる関係だ。


「なんですかすずめさん。じっと見たりして」


 うふふ、と上品に微笑まれてすずめは恥じ入るばかり。


「あ、す、すいません。お召し物、きれいだなって思って」

「でしょう? ほら千彰さん。こうやって褒めるんです」

「す、すいません」

「今朝のことは千彰さんが悪いんですよ」


 ふい、と顔を背ける様子がなんとも愛らしくて、きっとまた千彰くんが褒めなかったんだろうな、と容易に想像できたのが相まってすずめは思わず吹き出してしまう。


「うふふ。やっと笑ってくれました」


 またも上品に微笑まれ、すずめは頬を染めていた。


「さ、びしょびしょの靴下を預かります。足を拭いてはやくお風呂場へ」


 はい、と返した頃にはひと通りからだを拭き終えていたふたりはタオルを首に掛け、濡れた靴下を靴と一緒に脱ぎ、申し訳なさそうに靴下を渡して土間から上がり、屋敷に入る。


「じゃあお風呂、いただきます」

「はい。ちゃんと肩まで浸かって百数えるんですよ」

「もう、ちっちゃい子じゃないんですから、だいじょうぶですよ」


 苦笑するすずめに、百恵は凜と返す。


「私から見ればまだまだ子供です。孫の心配ぐらいさせてください」


 そう言われると黙るしかない。

 そして敬愛する百恵から、孫だと呼ばれて少し浮かれてしまう。

 すずめのゆるんだ頬を引き締める意味合いもあったのだろう、百恵はぱん、と勢いよく手を叩いてふたりの意識を自分に集める。


「さ、お話はこのぐらいにしましょう。お風呂に入る前に風邪を引いてしまってはいけませんから」

 はぁい、と返してふたりは足早に風呂場へ向かった。




「はーーーー、生き返る……」


 風呂の縁に後頭部をひっかけて千彰は湯船にぷかりと浮いて大の字になる。

 千彰の祖父や父が健在だったころは剣術の道場を開いていたので、風呂場も広い。大黒柱がいなくなったことで家計をどうするか、と思案していた時に家政婦のひとりが冗談交じりに、お風呂場を銭湯として開放してみてはどうか、と言ったほどだ。

 結局その案は百恵の消極的反対もあってうやむやにはなったが、千彰はいまでもいい案だと思うし、風呂に入る度に思い出してしまう。

 風呂の床は板張り。木の香りはもうほとんど無いが、そんなものはなくても十分リラックスできる。

 そんな風に大浴場を満喫していた千彰の耳に、浴場の入り口が開く音が届く。

 誰だろう、と顔をあげてみれば、


「お前が桜狩千彰か?」


 まず目がいくのは黒の散切り頭。だがもっと目を引くのは全身至る所に、あらゆる種類の傷跡。なのに痛々しさは感じず、そのがっしりとした体つきを彩っているよう。


「……あんたは?」


 前も隠さずに立っていたその青年に、さすがの千彰もいぶかしげに問いかけた。


「オレは鶻業センゴウ。お前の次の対戦相手だ」

 言いながら湯気の立ちこめる浴室をずんずんと進み、千彰の入っている浴槽の手前でしゃがみ込み、慣れた手つきで洗面器で湯をすくってからだを流しはじめる。

 間近で見ると体躯は、一八〇センチメートルの自分とほぼ変わらない。だが、紺と黒をまぜたような肌は、あやかしだとはっきりとわかる。


「どうやってここまで」

「あ? 玄関から入って、あの百恵ってきれいなねーさんに対戦相手だって話したらどうぞどうぞって通してくれたぞ」


 言って洗面器を置いてどぶん、と湯船に入る。

 まったくあのひとは、と呆れつつ鶻業に問う。


「なんで、わざわざ」

「オレはいつも対戦相手とは話しをするようにしてる。相手を知っておけば無闇に殺そうって気がなくなるからな。それだけだよ」

「情が湧くってことか」


 まあな、と返して手でお湯をすくって顔を洗う。


「あー、いい湯だな」


 完全にリラックスしている鶻業とは逆に、千彰はまだ警戒を解いていない。じっと睨むように鶻業の挙動を観察する。

 妖と人とでは身体能力に大きな差がある。

 やろうと思えば千彰の分厚い胸板を指一本で貫くことも、手足を乱雑に引き抜くことだって可能だ。

 なのに、こいつはやらない。

 妖魔と妖は似て非なる存在。

 妖魔には野獣以下の理性しかなく、見境いなく暴れる。

 妖は人間以上の知性と理性があり、滅多なことでは人やその他の命を奪うことはしない。

 無論、例外はあるが。

 祖父や父から教えられたことを思い返しながら、千彰は観察を続ける。

 鶻業は見られることに不快感を示すこともせず、ただ湯を愉しんでいる。


「あんたたちも、風呂に入るのか」


 ぽろりと出た言葉だったが、鶻業は苦笑して返す。


「オレ達をなんだと思ってやがる。からだはあるし、汗もかく。風呂ぐらい入るさ。お前たちほど頻繁じゃないけどな」

「あ、ああ。すまない」


 いいさ、と返してもう一度顔を洗い、千彰をじっと見る。


「けどお前はずいぶんと頑丈そうだな。ながく楽しめそうでよかったよ」

「……あんた、そういうタイプなのか」

「あ? 別にいたぶったりはしねぇよ。初手で壁に吹っ飛ばして終わりとかじゃ観客にも悪いからな」

「そうか。疑って悪い」

「へんなやつだな」

「よく言われる」


 小さく漏らした笑みに、鶻業は口角をあげる。


「お、いい顔だな。ちゃんと笑えるやつでよかったよ」


 え、と問い質そうとするも、鶻業は勢いよく立ち上がる。


「ま、用はそれだけだ。明日はよろしくな」


 どこか釈然としないまま千彰は見送り、鶻業は静かに戸を閉めて出て行った。

 ややあって、閉められた入り口の向こうから、「あらもうお帰りですか?」「いい湯だったよ」「でしたらお夕飯もご一緒にどうです?」「すまない。人間みたいな食事は無理なんだ」「ああそうでしたわね。ごめんなさい」と、百恵と鶻業のやりとりが聞こえた。

 妖であっても気後れしない祖母の胆力にはいつも関心する。

 しかし困った。

 ああやって落ち着いて話しをした相手に、いざ明日の試合でどうやって殺意を向ければいいのか、分からない。

 湯船に浸かったまま困り果てていると、鶻業を見送った百恵が木戸の向こうから声をかけてくる。


「千彰さん、明香梨さんがいらしています。はやくあがってくださいね」

「え、明香梨が?」


 すずめの話しではあさってに帰ってくるはずではなかったか。


「はい。道場にお通ししていますから、上がったらすぐに行くんですよ」


 すずめから彼女の帰還が近いとは聞いていたが、再会は学校だと思っていた。

 けれど、会えるなら会っておきたいし、それが道場だというのならもっと都合がいい。


「はい。いまあがります」


 ざぱ、と立ち上がって脱衣所へ。

 いい湯だった。

 困りごとは出来たが、明香梨と会えるのならそれもどうにか出来ると思えた。

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