今日、私は××。

 * * *


『運転手は高齢男性で逆走した末、歩道に――……』


 あっという間に明日はきた。

 家族が昨日の交通事故のニュースに釘付けになっている。

 勿論被害者の名前は「木暮譲治」。享年四十八。戦国時代では十分の長寿とはいえ現代ではまだまだ若い。

 もう戻らない一日限りの友人。

 ……。

「何で免許返納しないかね!」

「話ではクローバーのマークも付けていなかったらしいね」

「ジジイは変に意固地だからね。変な理屈こねては自分だけは大丈夫とか考えてたんじゃないの?」

「これ、マリ。口が悪い」

「だってそうでしょう!? 免許さっさと返納しとけば失われなかった命だよ!」

「こら、座りなさい」

 加害者のお爺さんはどーたのこーたの。

 お父さんと妹のマリはずっとそんなことばっかり言っているけれど、今はそんなこと考えていられない。

 被害者の譲治さん。

 顔色はちょっと生白かったけれど至って元気そうなおじさん。死ぬ気配なんてその直前まで一ミリもなかった人物。


 それが今日は私が――。


 瞬間脳裏に浮かぶイメージ。

 あれみたいな誰かが運転を誤った車が今ご飯を食べている我々の元に突っ込んできて、漫画に描いてあるみたいに酷い事態になって、皆が巻き込まれて……。

 唯ひとりお寝坊したお母さんだけが……取り残されるように生き残って……。


「ご馳走様!」


 いてもたってもいられなくなって家を飛び出した。


 後ろで何やらお父さんが言ってる気がする。


 聞いている暇はない。髪をとかす時間も惜しい。

 歯は行きがけにガム買っていけば良い。


 今は唯、私のせいで誰も死なせてはいけない。


 * * *


 バス停でバスを待つ時間さえ惜しかった。そこに留まってしまえばトラックが突っ込んで来たり、道行く誰か悪意のある人が刺して来たりする気がして。

 そうやってうろうろしている間にバスは来て、人だらけでぎゅうぎゅうのそれに何とか身を押し込むことができた。


 今日は何だかいつもより混んでる気がする。


 ――、――。




 ……全ての視線が気になる。




 全員の視線が刺さってくる気配がする、気がする。

 たまたま見た時に誰も見ていないのは私が見た時に皆が目を逸らしているから。

 そう感じた瞬間、今いる場が物凄く不快な場所に思えた。

 人の湿った吐息でいやに湿度の上がった車内、何かに厭味ったらしくクスクス笑う女子高生の二人組、人が乗り降りしている最中ずっと貧乏ゆすりをしている運転手。

 全部不快。これをあと三十六分も耐えなきゃいけないなんて!

 無意識の内に学生鞄を胸の前にしっかり抱き締めていた。

 と。

「ブレーキ踏みます!」

「わあっ!」

 蛙を追って飛び出してきた子どもに対応するためにバスの運転手が急ブレーキを踏んだ。それに伴って立っていた乗客の体がぐわんと前に引っ張られる。私も例外なきその内の一人。


 瞬間。


 後ろからカッターナイフがぶっ飛んできて、私の目の前をやけにゆっくり通り過ぎて行った。


 カンカララン。


「あっ、すすすすみません。そ、それ僕のです!」

 慌てて拾いに飛び出したのはすぐ後ろ、密着するように立っていた十代ぐらいの男。床に落ちたカッターナイフを隠すようにさっと拾ってキョロキョロ周りを窺いながら大きなポケットの中にそっと入れる。そして念押して蓋するかのようにポケットの上からそれを大事そうに撫でた。


 ……何で、? わざわざ。




 残り三十三分が余計に長くなった。


 すぐ後ろの男の荒い鼻息。


 わたしを、みているきがする。




 ――、――。


 昼。

 お弁当を包む暇もなかったため、学食をふらふら訪れた。中は野球部員達の野太い声で満ち満ちて騒がしい。

 兎に角お腹が減っている。そういえば朝ごはんもろくに食べず、ずっとここまで過緊張の状態で過ごしてきた。体育の時は自分の不摂生のせいで倒れそうになっていたのを何とか気合いだけで耐えたし、いつもはできる計算も頭が回らなくって死にそうだった。

 食券を買う行列の後ろに並んで何を買おうか働かない頭で考えようとした時、食堂に据え付けてあったテレビから昼番組のコメンテータの声が聞こえた。


『続いては先日起きた集団食中毒事件の話題に移って参りましょう』


 ……食中、毒。


『今回の食中毒の原因となった○×菌というのは具体的にどのようなものなのでしょうか』

『えー、○×菌というのはですね、普段××の大腸にいる大腸菌です。その生き物の体内に居る間、その生き物にとっては……えー、このように無害なのですが他の生物の体内に入った時が最悪です』

『ほぉ』

『症状としては吐き気、眩暈、腹痛……』

 気付けば五人ぐらいの人数が食券を買い終えていて、あと三人で私の番という所まできていた。

 前の人に続いて慌てて前進する。

『この菌の厄介なところといえば加熱にも耐性があるということですね』

『とすると、私達が普段もっている焼いて食べれば大丈夫という常識がこの○×菌の時には通用しないってことなんですね?』

『そうですね。……まぁ、今回の例のようにこうやって○×菌が食用肉に紛れ込む例というのは余り見られないのですが、ちょっと対処を間違うだけで酷い腹痛や吐き気に襲われ、――』


 その瞬間目に飛び込んできたメニュー内の「××肉のカツ」という文字とコメンテータの「死」という言葉に心臓がはねた。

 何も死の原因がひとつだけとは限らない。罠はそこら中に張ってあるだろう。


 それは何も学食においても例外ではなくって……。


 考えた途端、また体の震えが止まらなくなった。

 今の私は何で死ぬのかさえはっきりしていないのだから!


「あ、私、用事思い出しちゃった! 先どうぞ!」


 勢いで言ってぽかんとする生徒を置き去りに校舎の中まで駆け込んでいった。

 なるべく上の階へと逃げ、廊下・階段横の火災警報器の近くを陣取る。

 突然どこかが火事になっても良いように、不審者が来ても直ぐ逃げられるように、地震が来ても何とか自分の身が守れるように、大津波に突如として襲われてしまっても大丈夫なように。


 ノアの時のような大雨に突然見舞われても良いように。


 何で死んでしまうのか分からないのだから。


 * * *


「おい。おい羽取」


 突然の頭の鈍い痛みで目が覚めた。

「ウゥ」

「ウワッ、隈すごっ。お前、大丈夫か?」

「あ……」

 目の前の心配そうな顔の理科教師、杉田。今日は天文に関する特別授業のため、遥々門田中学からやって来ている。中学時代にはそれなりにお世話になった。

 出席簿の側面で生徒を起こすのはこの教師の癖だ。

「すっごい顔蒼いけど」

「……今何の時間ですか」

「課題」

「ゆすっても起きないし、うなされてたみたいだったから……ね、リサ。保健室行きなよ。今日のリサ、ちょっと、その……変だよ」

 隣に座る親友のりこが終始心配そうな顔しながらおろおろしてる。手元の課題の進捗具合を見るに、ずっと私の様子をみてくれていたらしい。

 ……ありがたい。


 でも。

 なら余計巻き込む訳には……。


「しっかり者のお前がこんな顔するなんて珍しいじゃないか。俺も保健室賛成派」

「や、でも……大丈夫です」

「……、リサ。何か嫌なこととかあった?」

「それか復習のために徹夜しちゃったとか? ははっ、あんまり寝ないでいると死んじゃうって話だけどなぁ」

「ちょっと先生!」


 ……


「死ぬんですか?」

「三日寝ないでいると死んじゃうって、有名な話だよ。ま、その前に体が寝ようとしてくるけどね」

 ほら、こういう風にさ、と私の机をとんとんと指で叩く。

「じゃあ私、死にかけてたってことですか?」

「……? や、知らないけど」

 頭をぱりぱりかきながら首を傾げた杉田。遂には痺れをきらしたのか私の腕を引き、

「お前達、課題やっとけよ」

と一声教室に向けて放った。

ほ、保健室に連行されるー。


 ――、――。


 ひんやり冷えた廊下に遠くから先生方の授業の声。

 二人押し黙って歩くこの非日常的空間はちょっと気まずい。


「なあ」


 ふと手を引く杉田がこちらも振り向かずに聞いてきた。




「『運命の書』って、何」




 先生の白濁の瞳がこちらをちらりと見る。


「何で、それを……」


 思わずそれが口をついて出た。

 そういえば先生は変に察しの良い人だったのをふと思い出す。


 * * *


 夜。

 家のリビングのソファに寝転んで先生から貰った黒耀石をぼんやり眺めつつ保健室前で交わした会話を思い出す。


『本占い?』


 道夫とかいうふざけた商人の話、彼の作った占いには運命神とやらの「運命の書」の紙片が使われているらしいという話、そしてその占いを貰ったことで譲治さんが亡くなってしまったという話。

 私は先生に諸々全てを打ち明けた。

 それに彼はフム、とだけ言って暫し一考。

『多分大丈夫だとは思うが……念のためだ。一応これを持っておけ』

『何ですか、これ』

『黒耀石。魔除けの石』

『お守りですか?』

『うん。何かあったらそれを地面に思いきり叩きつけて割るんだ』

『……』

『きっとお前を守ってくれる筈だから』




「……」


「……今日は疲れた」




「さっ、ご飯だよー」

 ――と。お母さんの声で目が覚めた。いつの間に毛布のように膝掛けがかけられている。

 またいつの間に寝ちゃってたのか。

 栄養の足りない体が休息によって体力の温存を図っているのが嫌でも分かる。

「わぁ、美味しそうー!」

 向こうでマリが大興奮してる。どうやら今日は久しぶりに母がフライパンを握ったらしい。とっても良い匂いがする。

「なぁに、これ」

「ふっふっふ。冷蔵庫の大掃除」

 ……大掃除。

 この母のことだ。何となく嫌な予感がする。

「この鶏肉」

「うん」

「あの冷凍庫の鶏肉?」

「そうだよ。あったから使ったんだ」

 矢張り……!!


『今回の食中毒の原因となった○×菌……』


『症状としては吐き気、眩暈、腹痛……』


『最悪の場合は死に至る……』


 死に至る……。

 死に至る……。

 死に……。


 頭の中でコメンテータの張り付いたような笑みと繰り返し流れるあの解説が、ぐるぐるぐるぐる。


「ご、ごめん。今日は食欲ない……」

「え、ちょっと!? リサ!? こらリサ! 今日も朝食残したでしょ……」


 心配して怒ってくれる母の気持ちを踏みにじるようで何か辛かったが今日だけは、今日だけは食べる訳にはいかなかった。


 だって、だって……。

 食中毒で……。


 人工的な白色の明るさの下、震える体を毛布でくるむ。

 明日。夜明けがくるまでまだ七時間もある――。


 * * *


『シャーロックホームズの「緋色の研究」』


『処女作にして傑作です』


『そんな話ではないけど……良い感じに長いし時間を潰すのに丁度良いよ』




 すぐそこに放り出してある本をふと手に取った。

 眠いのに眠れない。

 足元にはお父さんが昔使ってた木製バットにトンカチ、小学校でもらったカッターナイフ、彫刻刀。

 勿論強盗に入られても大丈夫なように。――こんな体でこんな数々を使いこなせるとは思ってもないけれど。

 窓の鍵も戸の鍵も何もかも。家の鍵という鍵は私が徹底的にチェックした。それでも時間は十分ぐらいしか経ってくれない。

 SNSだって深夜は誰も起きてない。さっき見たことのある投稿ばかりが目立って仕方ない。

 大好きな動画投稿サイトも今日は全然内容が頭に入ってこない。どちらも何だかつまんなくって見るのをやめてしまった。


 万策尽きて、まだ夜は長くって。

 そんな時に目についたのが彼から貰った本だった。


 今更ながらこの本は彼から与えられた何かしらのヒントだったのではないかと考え始める。

 ちょっと分厚い本を手に取ってぱらぱらめくれば文字の洪水。疲れた頭がウッと悲鳴をあげたが逆から考えればこれだけ馬鹿になってる頭で頑張って朝まで読めば何か、彼の言わんとしていることが分かるのではないか。かつ、彼の言葉ではないが、時間も良い感じに潰せるのではないか。そうとも考えた。

 コーヒーメーカーでコーヒーを淹れて、先生から貰った黒耀石をパジャマのポケットに入れて。

 頬をはたき、気合を入れて一頁をめくった。




 ……、……、……。


 ……、……。


 ……。




 * * *


 本屋でとある本に出会ってから人生が変わったという話は多い。


 そのメッセージは僕宛てのものだとか。

 その言葉に心が救われたとか。

 その諭しから光明を見出しただとか。


 君にもそんな経験はある?

 これからお見せするこの本はそういうものだけど……。


 ぶっちゃけ僕はそういうの、信じてないかな。

 別にその本は君だけのために作られた訳ではないし。

 無責任の方が人生楽だしね。




「だって、今回の『本占い』は画数に依拠しているのだから。本当に僕のせいなのであれば全国の同じ画数の人が同時に死ぬことになる」


「ねっ。そうでしょう?」

 言葉も分からないようなぽかんとした黒猫を道夫は店じまいしながらよしよし撫でる。手の動きに合わせてゴロゴロ喉を鳴らして可愛いやつ。さっき食料にと取っておいた缶詰を善行のつもりであげてからずっとこの調子だ。

 後で見たら食べようと思ってたその缶詰は高級猫缶だった。

「言い訳に聞こえちゃうかな」

 またぽかんとしている黒猫。しかし今回は珍しく鳴いた。

 今度は道夫がぽかんとなる。

「そういう所だけ返事しやがって」

 むっと頬を膨らませてみせた。しかし文化がそもそも違う猫には意味も彼の気持ちも何もかも伝わらない。


「……まあ」


「本当に彼は運が悪かったんだよ」


 車が激突した今だ血痕残るぐちゃぐちゃの壁。近くに備えられている花と花瓶の中に彼は八百円を入れて手を合わせた。

 背後から温かなひかり。

 振り返れば眩しい旭日が――。




「ほらごらん、黒猫」




「朝日が綺麗だよ」




 * * *


 同時刻。武器を魔法陣のように周りに置いていた娘は犯人のトリックに呆然としていた。

 その意味を無理矢理分かろうともう一度丹念に読みだす。


 そのトリックとは――。


(おわり)

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「明日、お前は死ぬ」 星 太一 @dehim-fake

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