第23話 曖昧なラプソディー
思案の海を漂い続け、どのくらいの時間が経っただろう。
日差しはゆっくりと傾き始め、風が、涙に濡れた頬を優しく撫でる。
そんな折、こちらに近付いてくる足音に気付いたキアラは、涙を拭うと扉に目を向けた。おそらく、散策に出ていたノーナが戻って来たのだろう。
「えっ」
だが、キアラの予想とは裏腹に、やって来たのはノーナではなかった。
扉の前に立っているのは、メイドのお仕着せに身を包んだ、三十代くらいの女性。
頬に大きな火傷痕を持つその女性は、窓際の椅子に腰かけたキアラを驚いた顔で見つめている。
「えっ……あ、れ? あたし、夢でも見ているのかしら……?」
「……」
「いえ、まさかそんな、ひ、姫様……?」
「久しぶりね、ロベリア。この城を手入れしていたのはあなただったの」
まるで幻を見たかのように瞳を震わせ、ゆっくりと近付いて来た女性に、キアラは小さく笑むと懐かしそうに声を掛けた。
ロベリアと呼ばれたこの女性は昔、キアラの身の回りを世話してくれていた侍女だった。自宅から通いで勤めていた彼女はあの夜、城にはいなかったはずだが、王都もまた激しい戦渦に包まれ燃えていたこともあり、生きていたことに、キアラも少し驚いていた。
「ええ。しかし本当に、夢ではありませんよね……?」
「間違いなく現実よ。でも、驚かせてごめんなさい。ちょっと色々あって……帰って来たの」
そろりそろりとキアラに近付き、彼女の存在を確かめるロベリアに、キアラは苦しげな笑みを浮かべると、事情を簡潔に説明した。
はじめは庭師の老人に言ったように、口止めするだけにしようと思っていたけれど、どの道、赤く泣き腫らした目に説明を求められただろうし、しばらくこの辺りに滞在するためにも現地に味方は必要だ。
そう思って話をすると、キアラの説明に涙を流したロベリアは、頭を垂れて言った。
「それでは我々が、この城で姫様を匿いましょう」
「……!」
「この城は王家の皆様方がいつご帰還されても良いように、隅々まで手入れを施しております。……これまでは、ただ我々の気休めでしかありませんでしたが、姫様のお役に立てるのならば、本望でございますわ」
こうしてキアラは、しばらくの間、エイビットの城に身を寄せることになった。
下手に護衛を増やして城下に噂が広がらぬよう、日中は通いの庭師がそれとなく見張りに付き、ノーナの指示の下、キアラを警護。身の回りのお世話はロベリアが、食事は城下で食堂を営む彼女の夫が提供し、今のところ、この生活に不自由はない。
だけど……。
(いつまでもこうして、甘えていてはだめよね……)
滞在四日目の夜。
部屋の窓辺に立ち、空に浮かぶ三日月を眺めながら、キアラは心の中で葛藤していた。
この生活が長引くほど、のちに多くの人に迷惑をかけることになるだろう。レイルやライアンが心配しているかもしれないと思うと、胸が痛む。
だがその一方で、ノーナやロベリアの厚意を無下にするのも辛くって……。
(私、どうしたら……。どうしたい?)
白いふわふわのネグリジェに身を包み、窓ガラスに映る自分の瞳を見つめながら、キアラは自分自身に問いかけた。
あの日受けたショックは、この数日で、緩やかにだが、回復に向かっている。今はもう長い時間泣くことも、心が不安定になることも、少なくはなってきた。
だけど、一人の時間を長く過ごすほど、虚無のような、寂しさのような……心にぽっかりと空いた穴が、大きくなっていくような……そんな気持ちにもなる。
キアラにとって事実が、それほど大きな衝撃だったのは間違いないけれど、自分ひとりでは、この穴の埋め方が分からなくて……。
(……レイル様にお会いすれば、何かが変わるかしら?)
すると、思い悩むキアラの脳裏にふと、そんな言葉が過った。
結局彼とは、まともな話もしないまま、こんなところまで逃げてきてしまった。
彼と会って話をすれば、何かが変わるだろうか?
何かを、変えてくれるだろうか?
会いたい。
(……会いたい?)
それは図らずも心の中に浮かんだ言葉。
彼に会いたいだなんて、そんなことを思った試しがこれまでにあっただろうか。
いつだってキアラは、レイルが望むまま傍にいて、自分から何かを望んだことなんて、ただの一度もなかったのに。
なのに、今、会いたいだなんて……。
(自分から逃げておいて、都合のいいことね……。でも――)
「――あれから一週間。キアラはまだ見つからないのか」
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ、レイル様~」
一方、アイビアの王宮ではレイルが眉根に皺を寄せ、苛立っていた。
いなくなったキアラの行方は依然
もちろん、彼女の素性や、いなくなった経緯を正確に話せない以上、難しい案件なのは分かっているが、それでも彼女を想うと苦しくて、会いたくて、たまらなかった。
「く……っ」
「ほらほら、まずは落ち着いてください~。僕ティラミス作って来たんで、食べます~? と言っても、今回の件がレイル様の落ち度である以上、苛立つのも分かりますけど~」
すると、やるせない表情で地図を見つめ、頭を抱えるレイルに、向かいのソファに座っていたイーヴェルがいつもの調子で言った。
レイルの秘密も、キアラの素性も知る彼は、現状に何を思っているのか、呑気にティラミスを食べながら、正直に傷を抉ってくる。
「……」
「だってそうでしょう~? キアラ様が目を覚まされるまで、レイル様がちゃ~んと、お傍にいてあげれば、こんな事態にはならなかったんですし~。そもそもレイル様は本当に、キアラ様が自分の意志で逃げたんじゃないって、思ってるんですか~?」
「……キアラはもともと、
「なるほど~。じゃあやっぱりレイル様が悪いですね。なんで傍を離れたんですか~?」
「それは……」
イーヴェルが放って来る言葉の刃を受け止めながら、レイルは自分の考えを吐露していった。
芯の通った高潔な姫君が、すべてを放り出し、ただ逃げ出すとは考えられない。だからこそ、誰かが連れ出したとの結論に至ったわけだが、傍を離れた理由を問われると、上手く、言葉を返せなくって……。
「……一人で、心を整理する時間が必要かと…思ってな。私が傍にいることで、呑み込んでしまう感情があっては、余計彼女を苦しませてしまうかと……」
幾度かの逡巡ののち、レイルは小さく答えを絞り出した。
頼ることに消極的な彼女は、きっと、レイルの心配に強がったことだろう。
辛そうな顔のまま、「大丈夫」の言葉を繰り返させるくらいなら、少しの間傍を離れ、心に向き合う時間が必要だと考えた。
だが、そんなレイルの回答に目を細めたイーヴェルは、大きくため息を吐いて言った。
「その発想がダメですね~。辛い事実を知って暗闇にいる彼女が目覚めた瞬間、ぎゅーってしてあげるくらいの気概がないからダメなんです!」
「……」
「一人になって傷が埋まると思います? むしろ開く! そういうときこそ出番なのに~!」
「だが私は……」
「いいんですよ! 自分が原因とか、そういう細かいのは! ともかく、不安な女の子をひとりにさせたレイル様が悪い! 僕そろそろ戻りますけど、しっかり反省して、さっさと彼女を見つけてあげてください~」
「……」
なんとなく怒っているようにも聞こえるイーヴェルのダメ出しに、レイルは目を白黒させると、何とか首肯を繰り返した。
いくら幼馴染とはいえ、こんなにも堂々と意見を提示してくるのは、彼くらいのものだろう。
だが、どんな話にもちゃんと向き合ってくれるイーヴェルに、内心感謝の念を懐きながら、レイルは嵐の如く去って行く彼を見送った。
「……一人にしては駄目、か」
イーヴェルが去った室内で、レイルは、広げていた地図に目を落とすと呟いた。
窓から入る晩夏の風が彼の赤い髪を揺らし、同じくテーブルに置かれた地図の端をはためかせる。
穏やかな昼下がり……。
ほんの少し前までは、彼女と一緒に甘いものを食べながら、他愛のない会話に興じていたものだ。傍にいるのが幸せで、彼女が頬を赤らめるたび、愛しくて、たまらなかった。
だけど、あの何気ない時間がどれほど幸せなものだったか、今なら痛いほどよく分かる。
だが不思議なことに、それが崩れ去るまで、人は意外と気付かぬものだ。
あのときもそうだった。
あのときも、レイルは父の行動の真意を知って初めて、自らの過ちに気付いた。
最初はただの憧れで、すべては国を想うが故だった。
なのに、結果としてそれは悪い方へと転がり落ち、あの戦を招いてしまった。
やはり、自分が誰かを想うのは罪なのだろうか。
自分があのとき、憧れたりしなければ、今に続く苦悩はなかったかもしれないのに。
――すべての始まりは十一年前。
あの一家との出逢いが、レイルの、そして国にとっての分かれ道だった。
もう何をしても取り返しのつかない、過去。
それを今、明かそう――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます