第18話 とある大臣の昔話
「さあ、観念して口を開けるのだ」
「……っ」
屈辱とは、こういうときのためにある言葉だろう。
目の前に突きつけられたゼリーを見つめ、キアラは思った。
先日、風に煽られたスセリアを救うため、両手を負傷したキアラは、治るまでの期間、極力手を使わないよう、レイルに命ぜられていた。
それだけでなく、再発防止のため基本傍で過ごすことになった彼女は今、イーヴェル作の柑橘ゼリーを餌付けされるという屈辱に、頬を赤らめている。
「レイル様……もうスプーンくらい持てますので……」
さりげなく肩に手を回し、間近でゼリーの乗ったスプーンを差し出すレイルに、彼女は俯くと蚊の鳴くような声で抵抗した。
彼
「駄目だ。ほら、食べなさい」
「……むぐ」
だが、抵抗も虚しく押し負けたキアラはやがて、
途端、嬉しそうに笑う彼の姿に羞恥は募り、恋人や夫婦とは、こんなにも親密でいるものなのかと戸惑ってしまう。
だけど、こんなやり取りも、最近は恥じらいの方が強くて、出逢ったばかりのころに感じていた嫌悪はなくなってきている。
その変化に惑いながら、キアラは残りのゼリーを前に息を吐いた。
同じころ。
王宮内にある大臣室では、ライアンが陸軍大臣と他愛のない会話に興じていた。彼とは、ライアンがこの国に連れて来られて以来の仲で、最早父親に近い存在だ。
「まさかきみが、陛下の護衛に抜擢されるとはのぅ。分からんものじゃ」
「ええ」
「これで妃選びの方も順調なら、我々の荷も下りると言うものじゃが……」
すると、ローテーブルを挟んで向かいに腰かけた大臣は、白い顎髭を撫でながら、
剣の腕を買われ、国民の命を盾に忠誠を誓わされた騎士が、ほかならぬ国王陛下の護衛に選ばれるとは、彼としても予想外だったようだ。
だが、続けざまにもうひとつの懸念を語る大臣に、ライアンは苦笑して言った。
「陛下は既にお心を決められたご様子です。私はお傍にいることしかできませんが」
「ほっほっほ、それは何よりじゃ。……しかし、陛下もご結婚の歳か。いや、あの戦がなければ、貴国の姫君をとうに迎えていたやも知れんのじゃが……」
「え」
「おや、知らなんだか? 我々は貴国で開かれた親睦会の折、親しげなお二人の姿によく噂をしたものじゃった。いつかそんな日が来ると、あのころは信じておった……」
そう言って、過去に思いを馳せ、目を伏せた大臣は懐かしげに呟いた。
以前イーヴェルも言っていたように、「シャローナ姫の輿入れ説」はまことしやか噂されていたらしいが、それを初めて知ったライアンは、妙に
(……そんな噂が出ていたとは……。だが、だとすれば陛下は、もとよりシャローナ様を見初めておられたのだろうか? ならば、この再会は……)
「そう、でしたか。では、陛下がこれまであまり女性と関わらなかったのも、それが原因で?」
運命付けられたかのような二人の再会に動揺しながら、ライアンはふと思ったことを口にした。
妃候補が選ばれるまで、レイルは女性に対して、一線引いた雰囲気があった。
もしそれが、姫を失った悲しみによるものだとすれば、今後彼のキアラに対する溺愛にも拍車がかかりそうだ。
「そうじゃなあ……それも一理ある。だが、大本の原因は他にあるのじゃよ」
「?」
すると、彼の問いかけに、しばらく間を開けた大臣は、重苦しげ囁いた。そして、疑問を募らせるライアンを見つめ、衝撃の事実を語り出す。
「もうきみには話そう。実はの、あの戦の引き金の一つとなったのは、ほかならぬ、レイル様なのじゃよ」
「なっ」
「自身のお言葉が前王の怒りを煽る結果となってしまったことに、レイル様は深く傷つかれた。人とあまり関わりたがらなかったのも、それが原因じゃ」
「……」
「レイル様は、今でも悔いておられる。あれから八年……早いものじゃな……」
話を聞き終えたライアンは、震える手で扉を閉めた。
衝撃的な話の数々に、湧き上がってくるこの感情は、怒りか。
八年前に起きたアイビアによるエイビット王国の軍事侵略。
その引き金の一つとなったのは、レイル自身だった。なのに、彼は今も堂々と姫の傍にいて、あろうことか妃になるよう要求している。
たとえレイルがどれほど悔いているのだとしても、父を母を、弟を失い、身分も、国をも失った姫に何かを望むなんて、そんな都合のいいことがまかり通っていいはずがない。
「……っ」
そう結論付けたライアンは、怒りのまま駆けた。
幸か不幸か、王宮内は静かで、誰とすれ違うこともなく彼の私室に辿り着いたライアンは、部屋の扉をノックすると、すぐさまレイルの元に駆け寄った。
何も知らないレイルは、ソファに座って読んでいた本から顔を上げ、不思議そうに怒りのライアンを見つめている。
「陛下……少々よろしいでしょうか」
「何事だ?」
「先程、陸軍大臣アードック公爵から聞き及んだのですが、八年前……あの戦の引き金の一つとなったのが、陛下自身であると言うのは本当ですか?」
「……!」
「正直にお答えください」
厳しい口調でそれを問うライアンに、レイルの表情が強張った。
金の瞳を大きく見開いた彼は、まっすぐに視線を向けるライアンを恐れたように見つめている。
「……それ、どういうこと……?」
と、そのとき。
不意に入り口付近から聞こえてきたのは、動揺を滲ませたキアラの声だった。
医者に呼ばれ、手の包帯を替えに行っていた彼女は、耳にした言葉に足を
「シャローナ様……」
「ライアン、それは、一体……」
「公爵が話してくださったのです。我が国に対する侵略の引き金……。その一つがほかならぬ陛下自身のお言葉だと。私はその真相を確かめるために参りました」
キアラの問いかけに、ライアンは躊躇いがちに呟いた。
本当は残酷な現実を彼女に伝える気などなかったのだが、こうなってはもう、引き返すことはできないだろう。
「さあ、お答えください。陛下」
「……。……子供の発言、それが言い訳にならないのは分かっている」
長い長い沈黙の末、なおも答えを望むライアンに、レイルは苦しげに呟いた。苦悶に満ちた表情は悲痛に彩られ、俯く顔をはっきりと窺うことはできない。
「つまり、認めるのですね」
「ああ。……だが、お前たちに知られたくはなかった……」
「それは、なぜでしょう」
「キアラを愛してしまったからだ。私のせいで人生を狂わせてしまった……。だからこそ、これ以上お前たちを傷つけることなく、一生秘密として隠しておきたかった」
俯いたまま、レイルはライアンの詰問に正直に答えていった。
彼の表情は心底苦しげで、大臣が言っていた彼の心情も嘘でないと分かる。
だが、あの場にいなかったレイルのエゴに、ライアンの怒りは収まりそうになかった。
「……そん、な……」
息が詰まりそうなほどの静寂の中、しばらくして囁きを漏らしたのはキアラだった。
ローズピンクの瞳に大粒の涙を溜めた彼女は、耐えがたい苦痛に、部屋を出ていってしまう。
途端レイルは後を追おうと腰を上げたが、
「あなたに追う資格がおありだと思いますか、陛下。愛しているというのならば、あの方を自由にして差し上げるべきです。それなのに、なぜ、自分を愛せなどと……!」
「ほしいと思った彼女を手放したくなかった。キアラが私のせいですべてを失ったと知ってなお、愛した彼女に愛されたいと願ってしまった……。自分の罪は承知している」
「……っ」
「ライアン……私は、キアラを幸福にすると誓おう。悲しみも苦しみもすべて受け止め、誰よりも幸福にすると。だから追わせてほしい。彼女を私に任せてくれないか」
本来の立場で言えば、一介の騎士が国王に物言いするなどありえない事態だろう。
だが、怒りのままレイルに視線を向けるライアンに、彼は静かに許しを請うた。
不意に立場が逆転したような、妙な錯覚がその場を過る。
「……分かりました。しかし、これ以上の無理強いはおやめください。姫様の未来は、姫様自身がお決めになることです」
葛藤の末、静かに頷くライアンの言葉に、レイルは部屋を飛び出した。
廊下にはもちろん姿などなく、正直言って当てもない。
だが、いかに王宮が広いとはいえ、彼女が出向ける場所は限られている。
自室か、庭か、はたまた図書室か。使用を許された幾つかの場所を回れば、きっと……。
「陛下! あぁ、今しがた伺おうかと……」
「……!」
そう推察し、急ぎ足で角を曲がった途端、出会い頭に姿を見せたのは、従者・ドラーグスだった。
細面の顔に汗を浮かべた彼は、訝しむレイルに今しがたの案件を報告する。
「実はつい先程、来年の欧州国際連盟親睦パーティの件で、連盟本部より使者が参りまして、陛下に
「なんと。今はそのような場合ではないのだが……」
「お急ぎのご様子で誠に畏れ入りますが、本部の使者を
「む……」
そう言って同行を願う従者の言葉に、レイルの表情が曇った。
本音を言うならば、今は誰のどんな案件も放り出して、キアラを探しに行きたかった。
だが、レイルは国王だ。彼には国王としての責務があり、欧州国際連盟を無下にすることは確かにできない。
「仕方ない、すぐに謁見の間へ通せ」
数秒ののち、レイルは肩を竦めると、急ぎ歩き出した。
愛しい姫よりも王としての責務を優先しなければいけない自分に、腹が立つ。
それでも、あわよくば彼女を見つけるのは自分でありたくて……。
(すまないキアラ。すぐにお前の元に参ろうぞ……)
心の中でキアラを案じ、レイルは謁見へと臨んだ。
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