第7話 憂鬱なお茶会②

「いーい? ぶつけちゃダメよ? 怪我はされると面倒だし。給仕あんたはあくまでドジったフリして、あの子のドレスを汚す! 失敗したらクビよ!」

「か、かしこまりました。スセリアお嬢様……」


 お茶会開始二時間前――。

 早々に準備を整えたスセリアは、妹分・ティニーと共に、廊下の隅で呼び出した使用人にそんな命令をしていた。

「あの子がいると、レイル様はすぐに揶揄からかいだす。だから退場させないと」

「名案ですね、スセリア様! これでレイル様とたくさんお話しできますよ!」

「ふふ。……いいこと? 失敗は許さないからね」

 辺りをはばかりながら、一切悪びれた様子なく笑ったスセリアは、気弱そうな給仕に再度指示を出すと歩き去った。

 どうやら今回のお茶会に際し、彼女はある企みをしていたようだ。



 ――そして現在。

 王宮中庭で催されたお茶会は、突然響いた陶磁器の音に静まり返っていた。

 音の方に目を向けると、キアラのすぐ傍に、粉々に割れたカップやソーサーが散らばり、テーブルクロスやドレスが紅茶やクリームで染まっている。

「……」

 どうやら、直接陶磁器が当たることはなかったようだが、割れ響いた甲高い音に、キアラは両手で耳を塞ぐようなポーズのままぎゅっと目を閉じていた。

 唐突な事態のせいか、青ざめた彼女は小さく震えているようだ。


「キアラさん大丈夫? お怪我はないかしら?」

「無事か、キアラ!?」

「……」

「キアラさん……?」

 そんな中、すぐに声を上げたのは、キアラの近くにいたノーナと、事態に気付いたレイルだ。

 二人は驚きと心配を混ぜた顔で彼女を見つめ駆け寄って来たが、彼らの声にキアラが反応することはなかった。

 それどころか、眉間に小さく皺を寄せた彼女は震えたまま誰の声も聞こえていない様子で……。

「キアラ? どこか痛むところでもあるのか?」

「お怪我はないようですが……キアラさん? 大丈夫?」

「…………」

 普段とは明らかに違うキアラの態度に、傍で彼女を覗き込んだレイルとノーナは、不安になった顔で、もう一度彼女に呼びかけた。

 これが二人を無視しているわけではないことくらい分かっていたが、ならばなおのこと、反応のない彼女が心配になってしまう。


「……っ」

 すると、数十秒にも及ぶ沈黙ののち、キアラはようやく二人の存在に気付いたようだ。

 ゆっくりと目を開き、順に彼らを見つめ返したキアラは、

「あ……その、申し訳、ございません。私は、大丈夫です」

「大丈夫には見えぬが……。茶器が当たりでもしたか? 火傷か?」

「……いいえ。驚いただけ、です。でも、この装いでは失礼なので、私は、これで……」

 いつもの調子を装うように、遠慮がちな言葉を繰り返したキアラは、おもむろに立ち上がると彼らに退席を告げた。

 彼女が着ていたアクアマリンカラーのドレスは、飛んできた紅茶や生クリームなどが付着し、参加の続行が難しいのは明白。

 それでも震える彼女が心配で、レイルは一礼するキアラを見つめると言った。

「ならば部屋まで……」

「お気遣いなく。私は一人で平気です」

「……」


 心配を滲ませた金色の瞳から逃れるように、淡々と告げたキアラは、そのまま彼らに背を向けると、覚束おぼつかない足取りでゆっくりと歩きだした。

 今いる中庭から、王宮内にある与えられた自室までの距離は、遠くない。そこまで辿り着ければ、大丈夫なのに……。

「……っ」

 皆の前を離れ、一人きりの空間になった途端、不意に零れたのは、涙だった。

 あの場では気丈に振舞っていたつもりだったけれど、大きな音が響いた途端、キアラは思い出してしまったのだ。八年前のあの日のことを――。


 あの日も突然大きな音がして、何も分からないまますべてを奪われた。

 ここがアイビア王国の王宮だということも、ここにはキアラに殺意を向け、命を脅かそうとする者などいないことも、頭では分かっているのに。

 子供のころに受けた傷が、思わぬきっかけで開いてしまったかのように、震えが止まらない。

(……落ち着くのよ、キアラ。大丈夫。怖くない。怖くなんて、ないんだから……)


 涙で滲んだ視界のまま、震える足をなだめるように、キアラは歩いた。

 もしこんな姿を誰かに見られたら、きっと不審に思われる。

 ただでさえ、陛下とノーナに変に思われたかもしれないのに、これ以上は……。

「……くすん」

 そうと分かっているのに、涙も震えもキアラは止めることができなかった。

 怖かった。

 八年経ってもあのとき受けた傷は癒えなくて、歩くうちに頭の中で記憶の音が鳴り響く。

 銃声が、爆音が、怒号が……恐ろしい景色が、はっきりと蘇ってくる。

 次第に視界が暗くなって、意識がなんとなく混濁してきた。自室に辿り着くためには、まだ、歩かないと、いけないのに……。


「キアラ!」

「!」


 そのとき、キアラの耳に届いたのは、低く澄んだ声。

 驚いて目を瞬くと、彼女の視界いっぱいに陛下の美しい顔が映った。


「まったく。どうしてお前は、そうも人を頼りたがらないのだ」

「……陛下」

「怪我はないな?」

「どうして……」

 心配と、わずかな怒りを含んだ表情でこちらを見つめる陛下に、キアラは思わず呆けた顔で呟いた。途端、自分が彼の腕に支えられていることには気付いたが、それ以上に、彼が今ここに居ることが不思議で仕方なかった。

「どうして、だと?」

「!」

 すると、キアラの呟きに肩をすくめたレイルは、

「お前のことが心配だからだ。それ以上の理由はいるまい?」

 そう言って、不意に彼女を抱き上げた。

 それも、お姫様抱っこだ。


「……っ、陛下っ! あの、歩けますので……!」

 予想外の出来事に、キアラは思わず顔を赤くすると抵抗を試みた。

 陛下にお姫様抱っこさせるなんて……というか、お姫様抱っこされているなんて、誰かに見られでもしたら、勘違いされそうで恐ろしい。

 だが、今回の彼に譲る気はないらしく、腕に力を込めたレイルは彼女を見下ろして言った。

「駄目だ。今のお前の言葉は信用ならない。このまま部屋まで届けよう」

「いえ、しかし、畏れ多いですし、お茶会も途中で……。それに私、今汚いので、陛下のお召し物を汚してしまいます」

「構わない。知っているだろう、私も茶会の気分ではないのだ。せめてこういうときくらい、私を頼るといい」

「……」


 真剣な顔をして自分を見つめる彼の表情に、キアラは俯くと黙り込んだ。

 本当はこんな状況断固拒否したいはずなのに、走馬灯のようにめぐる恐怖が勝っているせいか、何も言えなくなってしまう。

 と、その沈黙を肯定と採ったレイルは、彼女を抱いたまま部屋に向かって歩き出した。

 傍にいると、彼女のミュゲすずらんの香水がかわいらしく香ってくる。

 春の日差しがゆったりと照らす中、二人は会話もないまま城内へと戻って行った――。



(……どうしましょう。こんな姿を誰かに見られては大変。でも、まだ震えが止まらないわ。いつまでも怖がっていてはいけないのに……)

「フフ……」

 コツコツと靴の鳴る音だけが響く王宮の廊下で。

 彼に運ばれながら、ぎゅっと目を閉じて思案にふけっていたキアラは、不意に聞こえてきた笑い声に気付くと、目を見開いた。


 城内は、キアラにとっては幸いなことに人気はなく、与えられた自室まではあとわずか。

 その状況で零れた笑みに驚いて顔を上げると、レイルはかわいいものを見るような目でキアラを見つめ、

「そんなにしがみつかなくても、落としはしないよ」

「!」

 そう言って笑うレイルの言葉に、キアラは初めて、自分が何をしていたかに気付いた。

 確かに、恐怖が心にあったのは間違いないけれど、そのせいでキアラはずっと、彼のスーツの襟を握りしめていたらしい。

 何とも子供じみた状況に、慌てて手を離したキアラは、

「も、申し訳ありません……っ。私ったらなんてことを……」

「フフ、構わない。実に愛らしいと思っていたところだ」

 胸の前で両手を握りしめ、小さくなるキアラに、レイルは笑みを深くすると、徐に彼女を抱き寄せて言った。

 普段は凛としていて平静を崩さない彼女の心許ない姿は、とても愛らしい。叶うことなら、もっと傍で、その表情を独り占めしてしまいたい……。


「……っ」

 予期せぬ衝動に駆られ、レイルは気付くと、彼女のおでこに口づけていた。

 柔らかい肌の感触と、甘い香りに、心が、騒めく。


 その一方、ほんのわずかに触れた唇に、不意を突かれたキアラは、うっかり頬を赤らめてしまった。なぜ今の流れで口づけられたのかは理解不能だが、お姫様抱っこに加え、この行為は、なんとなく恥ずかしくて……。

「……」

「すまない、出来心だ」

 顔を赤くしたまま俯くキアラに、レイルは少年らしさの滲む笑みで囁いた。

 いつの間にか与えられた自室の前に着き、キアラを下ろした彼は笑って言葉を続ける。

「みっともない姿を見せてしまったな。今日はゆっくり休むといい」



「はぁ……」

 彼に礼を告げ、部屋に戻ったキアラは、汚れてしまったドレスを着替えると、ため息とともに猫足のソファに座り込んだ。

 ライアンと再会してからまだほんの一時間足らずだと言うのに、とても長い時間が過ぎたように感じる。

 心の中で色んな感情がごちゃ混ぜになって、さっきからしているこの動悸が、何を意味しているのかも分からない。

 だが、結局は今日もレイルの傍にいてしまった事実に、キアラは先程口づけられたおでこを撫でると、呟いた。


(出来心……)

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