思い出の古書店

鹿嶋 雲丹

第1話 思い出の古書店

 私は学生時代を過ごした街に、おばさんになった今でも暮らしている。

 そして、駅近くを車で通過する度に思うことがある。

 今は小さな喫茶店になっている、とあるビルの一階にある一店舗。

 約三十年前、そこには喫茶店ではなく古書店があった。

 当時女子高生だった私は、その店の前の道を通学路としていた為、平日は毎日その前を通り過ぎていた。

 何度かお客さんとして来店し、本を買ったことがある。

 店主は、人の良さそうなおじいさんだった。

 実は自宅の近所にも、今はなき古書店があるのだが、そちらよりもこの店の方が強く印象に残っているのは、一度困っているところを助けてもらったからだ。

 自転車通学者にとって痛手の、自転車トラブルである。

 なぜかはわからなかったが、学校の自転車置き場に置いていた自転車のチェーンが、下校時に外れていたのだ。

「朝はなんともなかったのに……」

 私はもやもやした気持ちで自転車を押して歩きながら、馴染みの自転車屋さんまでの距離を頭に描いてげんなりした。

 自転車に乗れば20分で済む距離だが、歩くとなると倍以上かかる。

 体力に自信のなかった私は、心底憂鬱だった。

 誰か、助けてくれないかな……

 と、ぼんやり考えた私が足を止めたのが、その古書店の前だった。

 私は店の前にチェーンの外れた自転車を置き、店内で本を選んでレジに持って行った。

 そして、会計中の店主のおじいさんに悩みを吐露したのである。

「実は、自転車のチェーンが外れちゃって……困ってるんです」

 おじいさんはいつも通り丁寧に本を私に渡すと、自転車を見てくれると言った。

 神だ……

 私はひたすら謝りながら、自転車にチェーンを嵌めるおじいさんの背中を見つめていた。

 今では顔も思い出せない、古書店の優しいおじいさん。

 それでも、その店があった喫茶店の前を通る度に、私はその出来事を思い出す。

 人の優しさに触れた時に感じる、あの胸の熱さと共に。

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思い出の古書店 鹿嶋 雲丹 @uni888

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