君は小説の中に
春雷
第1話
本屋に関する思い出が一つだけある。君にだけ話そうと思う。
あれは一年ほど前のこと。僕はとある小説を探していて、古書店を巡り歩いていた。その本はかなりマニアックというか、実在するかどうかもわからない代物で、色んな古書店やネットオークションを覗いてみたけれど、どこにも見当たらないのだった。本好きの知り合いにも訊いてみたが、見たことも聞いたこともない、と言われるだけ。彼曰く、その本はきっと都市伝説的な小説で、本当にあるのかどうか疑わしいということだった。ネットで検索してみるとわかる。その小説に関する情報は一切出てこない。
僕がその小説の存在を知ったのは、大学を除籍になり、部屋に一日中籠って、途方に暮れていた頃だ。突然、僕の前に女性が現れ、僕にその小説の存在を教えてくれたのだ。彼女は、ぼさぼさの髪に、分厚い眼鏡をかけた、だらしない身なりの三十代くらいの女性だった。彼女は唐突に僕の家に来て、こう言った。
「ねえ、誰も知らない小説を知ってる?」
もちろん僕は知りませんと答えた。新手の宗教勧誘か何らかのセールスだろうか。とにかく僕はこの女性とは関りにならない方がいいだろうと思い、そっけない返答をした後、「じゃあそういうことで」と、どういうことだかわからないことを言って、ドアを閉めようとした。
「あなたの親友を殺した男を知っている」
僕がドアを閉める直前、彼女がそう言った。
「え?」
僕は驚いて、閉めかけていたドアを再び開いた。鼓動が激しくなった。僕の親友が殺されたことを、この女性は知っているのか?
そう、僕が大学を辞める原因にもなった事件。僕が大学二年生の頃に、仲の良かったサークル仲間が、何者かに殺されたのだ。彼は登山が趣味で、いつものように一人で山を登っている時に、突然、何者かに刺され、殺された。犯人はまだ捕まっていない。彼は性格のいい奴で、人から恨まれるような人間じゃない。そのため、犯人は彼を狙って殺したのではない、と僕は考えていた。彼は無差別殺人に巻き込まれたのだ。
事件が発生した当初、ニュースや新聞で色々な報道がなされたが、その熱もすぐに冷めたらしい。一週間ほどで報道は下火になった。もっと他に報道するべきことがある、ということなのだろう。
僕は、彼女が発した言葉を頭に染み込ませ、冷静になるよう努めて考えてみた。
今は、ネットから事件に関する情報を入手することができる。情報の真偽はともかく、関心がありさえすれば、大量の情報を手に入れ、どこまでも深掘りできる。彼女が「あなたの親友を殺した男を知っている」と言ったのは、ネットで手に入れた情報に過ぎないのかもしれない。僕が彼と友達だったという情報が、ネットに流れているのかもしれない。
「だったら、警察に言ってください」と僕は言った。「僕がどうこうできる問題じゃないんです」
彼女は首を横に振った。
「ネットで色々見てしまって、正義感だか義務感だかで、このアパートまで来たんでしょうけど、そういうのは、全部警察に言ってください。僕個人でできることなんてほとんどないんですから」
僕がそう言うと、彼女はまた首を振った。
「全ては小説の中に書いてある。その小説には世界の全てが書かれている。そしてあなたにはそれを読む権利がある」
「……はい?」
電波な女性なのかもしれない。これ以上関わっては面倒なことになる。
もう一度ドアを閉めようとした時、彼女はドアに手をかけ、言った。
「木を隠すなら森の中。ならば森を隠すにはどこの中に隠せばいいのだろう?」
はっとして、僕は彼女の顔を見た。
「どうしてそれを?」
「彼との最後の会話……。でしょう?」
確かにその通りだ。彼はいつも、どうにも答えようのない疑問を口にするのが得意で、事件の前日にも、僕にこの妙な問いかけをしてきたのだ。
「どうして……、あんた一体……」
「全ては小説の中に。それは世界の全てを記述した小説。あなたはそれを見付けなければならない」
「小説……。小説って、一体何だ。どういうことだ」
「事件の前日まで私が所持していた。しかし、それは失われてしまった。次の所持者は未定。あなたはその小説を得る権利を持っている。故にその小説を探すべき」
「その小説に、犯人が誰か書いてあるというのか?」
彼女は頷いた。
「そんな……、そんなことあるわけないじゃないか」
「ある」
「しかし……」
僕が信じられないでいると、彼女は僕と彼しか知らない会話をいくつか口にした。それらはネット上では決して得られない情報だった。僕は彼女を信じてもいいかもしれない、と思うようになっていた。彼を失ってしまって、心の拠り所を探していた、ということもある。
「その小説って……、一体、どういうものなんだ?」
「その小説は毎日更新され、新たな文章が書き加えられ続ける。事件前日、あなたと彼との会話を読んだ後、複数の名前が書き加えられた。あなたの名前がそこにあった。それが小説を所有できる権利の証。その後、小説はふっと消えた。煙のように」
彼女は手をぱっと開き、そこにふっと息を吹いた。
「今はどこに?」
「わからない。『名もなき小説』だから。探すのはとても難しい」
「『名もなき小説』……」
「私がその小説を手に入れることができたのは、心から願ったため。知りたい、と願ったため」
「君は……、何を知りたかったの?」
「世界の全て」
「な、なるほど……」
しばらく二人とも黙っていた。空はオレンジ色に染まっていた。鳥たちが家路を急いでいる。
「それで……、親友を殺した犯人を知りたいと心から願えば、僕の前にその小説が現れる、と。そういうこと?」
「犯人を知りたいというよりは、事件の真実を知りたいと願った方がいいかもしれない」
「どうして?」
「個人への復讐は小説の望むところではない、と考えるから」
「その小説には意志があるの?」
「あると考える。小説は人が創ったものだから」
その日から、僕はその小説を探すようになった。色んな場所に行った。バイトをして金を貯め、県内県外問わず様々な場所に出向いた。しかしその小説は見つからなかった。そもそも、その小説は一体どんな形をしているのだろう。装丁はどんなだ? タイトルも作者名もないなら、一体どうやって探せばいいのだ。まるで見当もつかない。
彼女は望めば現れる、と言った。
僕は望んでいないのだろうか。
事件の真実を知ることを。
京都にある、とある古書店。表通りから遠く離れ、ひっそりと営業している遺産的な古書店に、僕はいた。小説を探し始めて一年が経とうとしており、ここでも見つからないのなら、もう諦めようと思っていた。その古書店はお爺さんが一人で経営しているようで、実にこぢんまりとしていて、客は僕一人だった。店主は奥のカウンターで分厚いハードカバーの本を読んでいた。
僕は一通り店内を眺めた後、目当てのものはない、と結論付けた。僕が探しているそれは、きっと僕の前には現れないのだろう。たぶん僕は恐れているのだ。事件の真実を知り、彼が本当にこの世界から失われてしまったと実感することを。僕の中では彼はまだ生きていて、頭では彼は死んでいるとわかっているのだけれど、心ではそれを否定している。シュレディンガーの猫のように、僕の中で彼は生きているし、死んでいるのだ。靄がかかって曖昧模糊な状態。それは不安定な状態ではあるけれど、一度確定してしまえば、もう元には戻れない。真実を知ってしまうと、僕の微かな希望、幻想は打ち砕かれてしまう。
もうやめにしよう、と思った。僕にはその小説を見付けることはできない。心からその小説が現れることを望んでいないのだ。犯人に対して思うところは山ほどあるが、それ以上に、僕は真実を知ってしまうことを恐れているのだ。
僕は溜息を吐いて、その古書店を後にしようとした。
その時、「奥にも本が山ほどある」と店主が突然僕に話しかけてきた。
「え?」
「あんた、本を探しているんだろう? なら奥も見ていきなさい。きっとあんたの望む小説がそこにある」
「僕の望む小説が? どうしてそんなことわかるんです?」
「私はな、ずいぶん長く生きてきた。長く生きるとな、色んなことが見えてくる。その人が今、何を望んでいるのか。私にはそれがよく見えるんだ」
「僕は今、何を望んでいるんです?」
僕がそう言うと、店主は本から顔を上げ、じっと僕を眺めた。
「再会、かな」
「再会、ですか」
「愛していた者との再会」
その言葉を聞いた後、視界が歪んだ。水の中にいるみたいに、眼の前の風景が掻き乱された。
何故?
そうか……、僕は泣いているんだ。
どうして泣いている?
どうしてだろう。たぶん、気付いたからだ。
気づいた? 何に?
僕が彼を愛していたことに。
そうだ……。僕はいつの間にか、心を押し殺していたんだ。彼のことが好きだったけれど、それはきっと叶わぬ恋だからと、一度彼への好意を口にしてしまったら、僕らの関係は壊れてしまうだろうからと、僕は自分の心を見て見ぬふりをしていたんだ。そんな気持ちは忘れてしまおうと、失くしてしまおうと、蓋をしていたんだ。でもその気持ちは蓋の中で腐ることなく、むしろ膨らんでいった。
事件の前日。僕は、彼に思いを告げてしまおうと考えていたんだ。どうにも気持ちが抑えられなくなって、夜通し考えた末、彼に告白しようと思ったんだ。でもできなかった。勇気がなかったんだ。このままでいい、と思ってしまった。彼をこうして眺められるだけで、それで十分だ、と。
そして事件が起きた。
僕が受けた衝撃は、全宇宙を吹き飛ばすほどのものだった。僕がこの世界で生きていく意味は失われた。僕の心は空っぽになった。何を見ても、何を聞いても、何も感じなくなった。何もしたくなくなってしまった。大学にも行けなくなり、僕は除籍となった。
彼のこと……。そうだ。僕は彼をもっと知りたかった。彼が僕をどう思っていたのか。それを知りたかったんだ……。
泣いている僕の前に、店主がやってきて、そっと本を手渡してくれた。
「あんたの求めている本がわかったよ。きっとこの小説だろう」
それは真っ白な本だった。タイトルのない、真っ白な本。
「これは……」
「私は長く本屋をやっている。お客さんが何を求めているか、望んでいるか。それがわかるんだ。お代はいらないよ。もうこの店も終わりだからね。私は君を待っていたんだ。君が最後のお客さんだ」
「あなたは……、一体……」
「ただの爺だよ。本好きのね」
僕は店主に何度もお礼を言った。そしてその本を持ち帰り、ホテルへ帰った。部屋に戻ると、僕はその本を開いた。そこにはたった一行、こう書かれていた。
「俺も好きだった」
僕にはそれが世界の全てだった。
君は小説の中に 春雷 @syunrai3333
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