飛ばない女

夜行性

飛ばない女

「うーん、何ていうか……一言でいうと響かない、っていうのかな」


 講評会で下山は俺の絵についてそう言った。他の六人は腕を組んだり鉛筆をくるくると手の中で弄んだりしながら黙りこくっている。おかげで壁に掛かった丸時計の秒針の音がやたらと大きく聞こえる。秒針のそのリズムと三分おきに豚のように鼻を鳴らす佐々木の癖が俺の聴覚を逆撫でる。いち、に、さん、し、ご、ろく、


「綺麗なんだよね、すごく。陰影も質感もすごい綺麗。——だけど僕にはどうしてこの構図なのかわからない」


 何人かがそれを聞いて納得したとでも言いたげにわざとらしく息を吐き出す。なな、はち、きゅう、じゅう、じゅういち、俺は爪の間に入り込んだバーントシェンナをほじくりながらイーゼルの前脚を見る視線を動かさないように細心の注意を払う。じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく、じゅうしち、ブグフゥゥンンン——まだ十七秒だぞ。


 下山はそのあとも他の六人について順にペラペラと喋り続け、俺はその間ずっと佐々木の豚鼻の間隔を数えながらチックについてググった内容を頭の中で思い出していた。下山がこのグループでただ一人の女子である野崎の講評を始める。野崎は茨城だか群馬の出身で親からは金をもらっていないと言っていた。だから授業料と生活費を稼ぐのに風俗と昼バイトを掛け持ちしているらしい。どういうわけかその手の話はどこからか広まって、ほとんどの連中がそれを知っていた。


 このグループ内では唯一の現役合格者である下山にどこか引け目を感じているやつが多い。下山の言うことにはいつも一理あり、俺の言うことはいつも負け犬の遠吠えというやつだ。俺は親から毎月仕送りがあり三回浪人し授業料も親が出している。


「もっと、モデルの向こう側を感じさせるべきだ。僕たちが描くのは赤ん坊じゃないんだ。何十年も生きている人間なんだよ」


 決め台詞のように毎回同じことを言う下山に皆は小難しい顔で頷く。俺は他人の描く絵なんて心底どうでもいいと思ってるしなんなら人物画にも興味がない。鉱物や金属や骨、そういうものを描くのが一番楽しい。人間の肌は気持ちが悪いから嫌いだ。自然光の下で見る人間は艶のない皮とアイボリーの脂肪の下にクリムソンレーキとビリジャンが汚く混ざりあった肉を隠している。


 下山と野崎はまだイーゼルの前で腕を組んであれこれと話しをしている。結局およそ三十分のあいだに佐々木は少なくとも十八回の豚鼻を鳴らしてこの埃臭い部屋に響かせたし俺の殺意にも響いた。


 俺はワニスと絵の具が染み付いて汚れた作業着のポケットを手で探りながら部屋を出る。まだ何本か残っていたはずだ。指に触れる潰れかけたパッケージの感触を確かめ早足で喫煙所に向かう。ようやく灰皿の前にたどり着くと捻れた一本を取り出して火をつけた。ゆっくり一口吸い込んで煙を吐き出す。これで俺の肉はもっと黒ずんで汚くなることだろう。


 そうして俺が肩を丸めて中毒患者よろしく卑屈に煙を肺に出し入れしていると野崎がやってきた。喫煙者だとは知らなかった。まあそれ以外のことも何も知らないが。


「おつかれ」


 野崎はそう言って俺の隣に並んで立った。俺もおつかれ、と返して右手のタバコを口に運ぶ。


「一本ごちそうして」


 当然だと言わんばかりの声で野崎は言った。俺はポケットに手を突っ込む。まだ一、二本はあったはずだ。


「いいけど、俺ピースだよ」


「いいよ、何でも」


 こいつはいつもこうやって誰かにタバコせびってんのか。そう思いながら俺はピースのパッケージに指を突っ込んで奥にある一本を取り出す。


「なんでピースなの」


「普通にうまいし、あとデザインが好きだから」


「ああ、たしかに。可愛いよね」


 野崎はなんでここに来たんだろう。今まで一度も喫煙所で顔を合わせたことはなかったはずだ。まさかもらいタバコするためじゃないよな。


「わたし矢野くんが描く絵、好きだよ。一度ちゃんと話してみたいなって思ってた」


「へえ」


「ねえ、暇ならこれから一緒に飲みに行かない?」


 野崎は俺のピースの二十分の一を灰皿にグニグニとねじ込みながらそう言った。俺は野崎の手の甲の血管を目で辿った。中手骨の出っ張りが綺麗だ。指も長くて男の手みたいな硬そうな質感がいい。


「いいよ」


 居酒屋で野崎はよく喋ったしよく飲んだ。これは割り勘になるのか。どう見ても俺のほうが飲んでない。突然野崎が真っ赤な顔で、大声を出す。


「あいつ、マジうざいんだよ」


 俺は枝豆を食う野崎の右手とジョッキを掴む左手をずっと見ていたせいで野崎の話をほとんど聞いていなかった。


「え? 誰が?」


 右手にはほくろがある。どっちかというと左手の方がいいな。


「下山だよ、下山。 矢野くんあいつ嫌いじゃないの? いっつも目の敵にされてんじゃん」


「そうなの」


「そうだよ! 誰がどう見たって矢野くんの方がいい絵描いてるよ。あいつ絶対嫉妬してると思う」


「そうなの」


「あたし、あいつに告られたけど断ったの。あたし矢野くんの方が好きだから」


「そうなの」


 ジョッキをテーブルに置いて、両手で頬杖をついて野崎がこっちを見ている。口元に覗く歯並びもいい。大きさが揃っていて、犬歯も綺麗に並んでいる。


「ねえ、矢野くんちって近いんでしょう。もう終電ギリだから泊めてよ」


「いいよ」


 俺は上手く行けば野崎が脱ぐんじゃないかと期待した。







「つか矢野くんって、女じゃダメな感じ?」


 俺の部屋で、俺の体をこねくり回していろいろ頑張ったあと野崎がタバコを咥えながらそう言った。野崎の体が見たいと言って脱いでくれたのはいいが鉛筆を握る間もなくベッドに転がされたせいで何も描けてない。


「そもそもセックスに興味がないって感じかな、どっちかって言うと。ずっと何にもしないでいるとさすがに夢精するけど」


「ふうん」


 がっかりしたような軽蔑したような、いままでの何人かと同じ表情で野崎は煙を吐き出した。口元に当てた左手がいい感じだったので俺はさり気なくクロッキー帳に手を伸ばし何枚か左手を描いた。そのまま裸でベッドに寝転ぶ野崎の脛や足の指、耳を夢中で描いていると野崎が小さくあ、と呟いた。


「勃ってる」


 それから野崎は時々俺の部屋に来て服を脱ぎ、俺の気が済むまで描かせてくれるようになった。そして酒を飲みタバコを吸いセックスをして帰っていく。


 野崎になんのメリットがあるのかいまいちよくわからなかったせいで、それからあいつが飲み食いする分はだいたい俺が出す羽目になった。


 夜中の二時までバイトしてアパートへの帰り道、なんとなく気配を感じて俺は振り向く。後ろには誰もいない。それでもまだ何かいるような気がしてあたりを見回すと歩道橋に女が一人いた。正確には歩道橋にくっついた信号の上に女が立っていた。歩道橋の柵を乗り越えて信号の上にいる。


 酔っ払いか、俺はそう思ったがこういう場合はどうするのが正解なんだろうか。警察か消防か。俺はなんとなくそのまま女を見上げる。東京の真夜中、手垢がついて汚れまくった静寂を背景に女は白いTシャツ一枚だ。剥き出しの脚には靴も履いてない。酔っ払いなら早々に手が滑って落ちるのだろうか。だが女は今のところ微動だにしない。


 船の舳先へさきのアレみたいだなと思った途端、俺は急に気分が乗ってきて背中のリュックを下ろしてクロッキー帳を取り出す。サイズが小さいのが惜しいがまあ良しとしよう。とりあえず俺はその女の形を紙の上に写した。何枚か描いてみたがやはり遠すぎる。


 俺は歩道橋を駆け上り女がいる真ん中あたりに近づいた。不自然に後ろに回した腕と肩、柵を掴む指も変な力の入り方だった。俯いて下の道路に向けられた目にも特になんの表情もない。石膏像みたいだ。アジア人のは見たことないけど。学校に来るモデルと違って女はガリガリに痩せていた。筋肉なんてほとんどなくて関節の骨がくっきりと浮かんでいる。そういえばジンクホワイトの残りが少なかったな。俺がそうやって何枚か夢中になって描いていると女はようやくこちらに気がついて俺の方に顔を向ける。


「あんた、何してんの」


 お前が言うのかよ、と思ったが飛び降りようとしているらしい奴を必死に描いている俺も一緒に警察行きになりそうな気はする。


「あ、俺そこの学生なんですけど、お姉さんがなんかすごいんで今ちょっと急いで描かせてもらってます。すぐ済みますから」


「ふざけてんの? ちょっとやめてよ!」


「すいません、あと少しだけ飛ぶの待ってもらっていいですか」


「意味わかんない! あんた頭おかしいだろ!」


 女が鬼のような形相で唾を飛ばしながら叫ぶ。こんなの見たことない、すごい顔だ。光源が弱いがとりあえず線だけなぞる。


「もう終わりますから、そしたら俺帰るんで」


「ハァ? あんた人が飛び降りようとしてんのに絵ぇ描いてそのまま帰る気?」


「え、どうしよう。俺どうすればいいすかね」


「お前! あたしのこと馬鹿にしてんだろ!」


「つーか死ぬなら別にどうでもいいでしょ何がまずいんですか」


「勝手に死ぬとか決めんなバーカ」


「ええー、」


 確かに歩道橋から飛び降りたくらいじゃ死なないだろうなぁと俺も何となく想像してみる。夜中の国道沿い、誰かは起きているのだろう。このふざけたやり取りを通報したらしい。歩道橋の下にパトカーが二台やってきた。ああ、俺も逮捕されるのかな。


 警官が二人、歩道橋の階段を登ってきた。信号の上の女と俺を見てゆっくりと距離を詰めてくる。


「お兄さん、どうしました?」


 警官の一人が俺に呼びかけてくる。


「えーと、俺は家に帰る途中なんですけど、そしたら歩道橋にこのお姉さんがいて、びっくりしたんで絵を描いてました」


 警官は納得したのかしないのか判別できない表情で唇をへの字に曲げた。


「お知り合いですか」


「いえ、知らない人です」


「彼女を説得していた、と」


「いえ、俺は別に何も」


「下でお話聞きますんで、このままゆっくり離れてあの警官とパトカーまで移動してください」


「はあ」


 早く帰ってシャワーを浴びたかったがここで走り出したら絶対追いかけられるだろうなと思って俺は警官について行って車に乗った。あの女を見つけたところから警官が来るところまで四回話してクロッキー帳と学生証も見せ、やっと帰れる流れになった。


「いや、咄嗟にそうやって引き留められる人はなかなかいないですよ。お兄さん冷静でしたね。今彼女の方からも話を聞いて、問題ないようなので。お帰りいただいて結構ですよ」


「はぁ、じゃあ帰ります」


 警官は脱いで助手席に置いていた帽子を被り直し、ああ、と続けた。


「あの人ね、なんかすっかりあなたの事ばっかりで、死ぬ気はどこかに飛んでったみたいですよ。まあ、よかった」

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