町の本屋さん

ミドリ

第1話 彼女と僕

 今日は、ずっと楽しみにしていたファンタジー小説の発売日だ。


 駅前の大きな本屋に行けば、確実に入手できるのは分かっていた。だけど、僕は家から一番近い、ちょっと寂れた商店街の片隅にポツンとある本屋で買うことに決めていた。


 財布をジーンズの後ろポケットに突っ込むと、これまた寂れたアパートの玄関を出て、役に立つのか立たないのか微妙な安物の鍵を掛ける。一番泥棒が解錠しやすいと言われている鍵だったけど、まあ特に大事な物も置いてない貧乏学生なので、あまり気にしていない。


 カンカンカン、と昔ながらの鉄製の外階段を駆け足で降りていくと、アパートの敷地から飛び出す。向かう先は、徒歩五分ほどの距離にある本屋だ。


 駆け足で走りながら、今日の店員さんはお父さんの方かな、それとも娘の方かな、とちらりと考える。


 僕が向かっている本屋はさして広さのない所謂町の本屋で、小説よりも漫画と雑誌の比率の方が圧倒的に高い。売れるものを優先的に置かないとやっていけないのかな、なんて勝手に心配してしまったくらいの規模だ。


 だけど最近、以前は旅行ガイドや趣味のコーナーだった場所に、突然ラノベコーナーが出来た。


 これまではラノベにそこまで興味はなかったけど、たまたま立ち寄って、可愛らしいポップを見て一冊を手に取った。すると、オーナーの娘で黒髪眼鏡の色白の彼女が、聞こえないくらいの小さな声で言ったのだ。「それ、滅茶苦茶面白いですよ」と。


 あ、この人喋るんだ。こんな声をしてたんだって、そんな当たり前なことにその時初めて気付いた。化粧っ気のない白い頬を紅潮させながら、その作品のオススメポイントを消えそうな声で語る彼女を、最初はぎょっとして見ていた。


 だけど懸命に語る彼女を眺めている内に、彼女のまつげが実は長くて眼鏡のレンズに付いちゃっていることや、薄めの唇の奥に見える舌先が細くてピンク色だなとか、指サックがはまった指は華奢なんだなとか、色んなことを考えてしまったのだ。


 その日から、僕は彼女の推し作品を購入しては読み切り、感想を彼女に伝える様になった。


 細い指に指輪ははまっていない。でも「彼氏はいないの?」なんて、恋愛経験がちっとも豊富でない僕にはハードルが高くて、未だに聞けていない。いつか連絡先を聞いて、オススメの本について彼女が語るのを聞いていたいと願うけど、勇気が出なくて今日まで一歩踏み出せていない。


 そんな中、やってきたのが待ちに待った彼女イチオシのファンタジー小説の発売日だ。彼女は、この本の作者について語る時、異様に早く喋る様になる。僕はそれを聞いているだけで幸せになるけど、出来たらそれをあの場所以外ででも聞きたいと願っていた。


 だから、今日こそ。


 息を切らしながら、本屋に駆け込む。すると、眼鏡の彼女が僕の顔を見て笑顔になった。


 きゅう、という小さな胸の苦しさに気付かないふりをして、僕は彼女が待つレジへと向かう。


「あ、あの! 今日、例のその、新刊……っ」

「ええ、ちゃんと取り置きしてますよ」


 以前よりも真っ直ぐに僕の目を見てくれるようになった彼女が、レジ脇に積んであった一冊を取り出した。


「あ、あの! もう読みました!?」


 しまった、声が裏返った。頭を掻きむしりたい衝動を必死に抑えながら尋ねると、彼女は例の可愛らしいピンク色の舌をちろりと見せ、はにかむ。


「が、我慢出来なくて」


 これぞ千載一遇の好機と見た僕は、どうしたって震える声を振り絞りながら、言った。


「あのっ! だったら僕、この後すぐに読むので! れ、連絡先を交換して、読了後の意見について語り合いませんか!」

「え……っ」


 彼女は眼鏡の奥にある目を大きくして僕を見上げていたけど、段々と僕が言っている意味を理解したのか、見ている間にも顔がまさに茹でだこの様に真っ赤になっていく。ああ、可愛い。僕は頬が緩みそうになるのを必死で堪えた。


「あの、じ、実は……」

「え……?」


 彼女は本を手に取ると、パラパラとめくる。どうしたんだろうと思って見ていると、栞が挟まっているページで動きが止まった。


 そこに挟まっているのは、栞と、一枚のメモ帳。


「わ、私の連絡先をですね、実はこっそり仕込んでいまして……は、恥ずかしい……っ」

「へっ!? え、僕にですか!?」


 連絡先を聞いといて何言ってんだとも思うけど、あがってしまった僕はもう何も考えられず。


 非常に素直な言葉が、口から出てきた。


「……う、嬉しいです……」

「へ、えへへ、やった……」


 二人とも真っ赤な顔をしながら、暫くはもじもじしていたけど。


 やがて目を自然に合わせると、僕たちは微笑み合ったのだった。

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