あと27日

今日の君は午前6時23分、元気いっぱいなキックで起床を教えてくれました。

午前3時まで寝なかったことを思えば、睡眠時間が短いように感じます。

…と思っていれば、お昼は熟睡ですね。

私もお昼寝できました。


最近の日課でお経を唱えていると、君は腕をぐりんぐりん回しておなかをくすぐってきて、笑って続きが読めなくなりました。

「ぐりんぐりん」は青空に小鳥が歌う前に歌うものだと、そのうち知るのかな。


今日は私が新しい小説を読んでいたからか、どこにも出かけなかったからか、おとーにゃんの顔を見る時間が少ないからか、とにかく大きめに暴れていますね。


出てくる足を押し返せば足の裏の形を感じ、伸びてくる手を押し返せば拳を感じます。


この頃とても考えるのは、「もし君が苦しいことに直面したとき、私はどう声をかけるのだろうか」ということです。

君が苦しむことを考えているのではなく、最近描いたシーンに私自身を重ねています。


私の思想が大きく反映される小説内で、私の描いた親は子どもに対して「自分たちが生まなければ君は苦しまなかった」と告げます。

私はそう、言うのでしょうか。


悩み苦しむおとーにゃんを見て、私は「見ていることしかできない」と泣きます。


「自分にできるのはいつだって見守ることだけだった」「傍にいることだけだった」そう心情をつづった主人公たちへは愛情を感じられるのに、私は自分をフォローする言葉が見つかりません。


もしこれが小説内だったなら、

「苦しむ姿から目を逸らさずにいることは難しいことだ」

「普通は目をそむけたくなるだろう」

「大切な人ほど、苦しむ姿は見たくないだろう」

「それでも見続けるのは、見放さないのは、愛情じゃないか?」

そう告げるキャラクターを登場させてでも精神的ビンタを食らわせて立ち直らせそうなのに、そこまで考えても私自身が立ち直らないのは不思議に感じます。


見ることしかできないのがつらくて神仏に頼ってみましたが、祈るという行為は他人(人じゃないか)に任せるのではなく、自分を整える作業に感じています。

私が何かを書いて心を整理するように、書けなければ他への祈りを通じて自分を見つめ直すのでしょう。


そこまで感じていてなぜ無力感に襲われるのかといえば、もう何のせいかはわかりません。

これが何のせいかわかったときには、私は君が苦しんでいるときにかける言葉を見つけているのでしょうか。


そういえばおとーにゃんは、君の生まれる日には傍にいてくれるようです。

退院後にお休みも取ってくれるそうです。

これはまちがいなく、君への愛情です。


君の手足の長さをおなかに感じながら今日の日記を終えます。

入院まで毎週なにかしらの病院があるけど、がんばろうね。


じゃあ、また明日。

君と会えるまで、あと27日。

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