客
百舌すえひろ
客
ぼくがその店に来て最初に目に付いたのは、ショーウィンドウに押しつけられたのぼりだ。
長い間、日光に晒されたであろう布地は白く、下にいくほど淡い
入口手前の台に乱雑に積み上げられた雑誌は色褪せ、その様子からこの店の
今日から盆休みが始まった。
朝のラジオ体操がなくなって遅く起きたぼくは、お昼のそうめんをのんびり食べた。
庭に面した窓は網戸によって開け放たれて、日差しを和らげるために吊るされた
リビングに敷かれたい草マットに横になっていると、玄関から車のエンジン音が聞こえた。
玄関口で「午後から雨が降るのよ」とお母さんが言うと、「本を買いに行くだけだ」と答えるお父さんの声がする。
ぼくは急いで玄関に出ると、車の窓を開けて換気をしているお父さんと目が合った。
「ぼくも行く!」と慌てて助手席のドアに駆け寄ると、お父さんはにやっと笑ってロック解除してくれた。
ぼくが「なに買うの」と聞くと、「週刊誌」と言ってお父さんはアクセルを踏んだ。
最初に最寄り駅のキオスクに寄ると、シャッターが閉まってた。
「他に扱ってる店は……」
お父さんはハンドルを切りながら目をきょろきょろさせていると、ぼくのお尻から『えいえんなのか ほんとうか~』と聞こえてきた。
「どこだ、ちょっと代わりに出て」とお父さんが言うので、ぼくの脚の下に埋まった携帯をとり出すと、お母さんからだった。
「牛乳買って来てってお父さんに言ってって」
お母さんからの電話の内容を伝えると、お父さんは「ふーん」と言って目の前の赤信号を見ていた。
信号が青に変わって、しばらく国道を進むと高速道路の高架下、脇にある細い道を右に曲がった。
道の先、突き当りには古ぼけた平屋建ての本屋があった。
「この店ならまだあるかな……?」
「お父さん、この店やめたほうがいいよ」
「なんで」
ぼくの顔を見つめるお父さんに、ぼくは思いつくかぎりのこと言う。
「ここのおじさん、カンジわるいもん。いつもメガネかけてて、おっかない顔してるし」
「おいマコト。お前、ここで立ち読みしてるんじゃないのか? さっさと買えば、お店の人は恐い顔なんかしないぞ」
お父さんは口の端を上げると、ぼくの頭をワシャワシャ触る。
なんとかしたいぼくは、とっておきの切り札をだした。
「立ち読みなんてしてないもん。……ここ、お化けがでるって有名なんだよ」
「どんな?」
「わかんないけど、ヨウちゃんが言ってた」
ヨウちゃんは近所に住む、同じクラスの友達だ。
学期最終日に一緒に帰ったとき「あそこはお化けがでる」と言っていた。
ヨウちゃんは今、おじいさんの家に行っている。
だから夏休みに入ってから一度も会ってない。
「わかんないんじゃ、ヨウちゃんも見たことないじゃないか」
「けど……」
「お化けは夜に出るもんだ。昼間から出ない。……マコトはヨウちゃんの言うことなんでも信じるのか」
「そうじゃないけど」
「ヨウちゃんの言うこと聞くのはDSのソフトくらいにしなさい。ヨウちゃんがダイアモンド買うなら、マコトがパール。それくらいの話し合いならお父さんは歓迎だ」
「今そんなこと話してないじゃんか」
「なんにしても、怖いなら車にいなさい」
お父さんはそう言うと車から降りて、店の正面のガラス扉に向かっていった。
ぼくは一人置いていかれるのがいやで、お父さんの後を追って助手席の扉を開けた。
店の入口、大きなガラス扉は歪んで、隙間が空いている。
頭の上では黒くて大きなエアコンが、ごうごうとうるさい。
入ってすぐの右のレジには、大きく開いた新聞の奥に、茶色くつやつやした
新聞の端が折れると、瓢箪に見えてたものは人の頭で、分厚い眼鏡をかけたおじさんが顔を覗かせた。
おじさんと目が合って気まずくなったぼくは、レジ前を離れて、右手の一番明るい絵本コーナーに向かった。
そこには
ぼくはもう二年生で、あの子のように絵本を楽しむ歳じゃない。
絵本売り場の奥、文庫小説が置かれた棚へ移動した。
途中、棚の前で緑の帽子を被った顔色の悪いお兄さんが「び、びゃく……びゃくや、こう……」とぶつぶつ言っているのが聞こえた。
文庫棚を突っ切って左に曲がると、正面入り口から直線に大きく空けられた通路が見える。
そこは平積み台が広く設置されてる、雑誌のコーナーだ。
店の入口を眺めると、入り口手前の棚でお父さんが週刊誌を探してる。
とても真剣そうな顔で、ぼくが手を振っても気づかなかった。
ぼくの立ってる文庫棚の端から、直線状に伸びる最奥の棚の影に、三人の男の人が背中を向けてしゃがんでいるのが見えた。
後ろから近づいて見ると、一人は銀色の細い鎖を首から下げている。
近所に住むヨシタカ兄ちゃんだ。
「ヨシタカ兄ちゃん、なにやってるの?」
ぼくが声をかけると三人はいっせいにふり返って、目を大きくした。
「マー坊!? 静かにしろ」
ヨシタカ兄ちゃんはぼくの口元を軽くおさえた。
「……なにやってるの?」
ぼくはもう一度、今度は小さな声で聞いてみた。
「小学生には関係ないよ。あっち行ってろ」
そう言うと、ヨシタカ兄ちゃんと二人のお兄さんは、さらに店の奥の棚に移動した。
ヨシタカ兄ちゃんは去年まで一緒に登校していた。
面白くて、大好きな近所のお兄ちゃんだ。
中学校に行ってしまってから会えなくなって、少し寂しかった。
久しぶりに会えて、嬉しかったのに。
関係ないと言われると、余計気になる。
ぼくは黙って後ろからついていった。
一番後ろにいた坊主頭のお兄さんが、一瞬ぼくに振り返ったけど、無表情のままヨシタカ兄ちゃんの手元に注目していた。
ヨシタカ兄ちゃんは裁縫用の小さなハサミを取りだす。
後ろにいる眉毛の太いお兄さんが、ヨシタカ兄ちゃんに声をかける。
「折れ目はみ出さずに、きっちり切れよ」
「わかってるよッ。……押すなシゲ」
ヨシタカ兄ちゃんは、声をかけた眉毛の太いお兄さんを小さく睨むと、手に持っている雑誌のページにハサミを入れた。
だけどハサミの刃が小さすぎて、重ねたページに切り込みを入れられなかった。
「そんなチャチいハサミやめろ。これ使え」
シゲと呼ばれたお兄さんは、ヨシタカ兄ちゃんに細いカッターを渡した。
カッターを渡されたヨシタカ兄ちゃんは、キチキチ鳴らしながら出した刃先を、雑誌の折れ目に入れた。
だけど三センチも切らないうちに、シゲお兄さんが止めた。
「そんなに刃先を押さえたら中が傷つくだろ、へたくそ」
そう言うと、ヨシタカ兄ちゃんからカッターを取り上げた。
ヨシタカ兄ちゃんはむっとした顔をして
「だったらお前がやれよ」
と二人は小さく言い争い始めた。
「ねぇ、どうしてそのページつながってるの?」
ぼくは二人に聞いた。
ヨシタカ兄ちゃんはぼくを見て目を細めた。
「なんだマー坊、まだいたのか」
「ねえ、なんでそのページつながってるの?」
ぼくの質問に後ろのシゲお兄さんが答えた。
「製本のミスだよ。俺たちが見つけて直してるんだ」
「どうして隠れるの?」
「本を作った会社の人たちの失敗がバレないように、こっそりやってあげるんだよ」
「そうなの?」
ぼくの問いかけに、シゲお兄さんの隣にいた坊主頭のお兄さんが頷いた。
すごい。
本の製本なんてやったことない。
中学生になると、いろんなことに気づけるんだ。
「でもきれいに切らないと、価値が下がるから大変なんだ」
「ぼく、折り紙とか得意だよ」
「折り紙じゃないんだよ」
「その折れてるところをきれいに切るんでしょ?」
「折れ線からズレたら価値がないんだ」
「ぼく、指でできる」
「ほんとかぁ?」
ヨシタカ兄ちゃんとシゲお兄さんは、顔を見合わせるとニヤッと笑った。
「いいよ、マー坊……やってみろよ」
そう言うと、手元の雑誌を渡してくれた。
「こっちは
ヨシタカ兄ちゃんは十五センチくらいの物差しをとりだすと、別の雑誌を取って、繋がったページの内側に差し込み、ノコギリをひくように慎重に動かした。
ぼくは汗ばんだ手の平に指先を当てて握ると、湿らせた指先を折れ目の先に馴染ませた。
折り紙では切れ込みを入れようとするとき、同じ線を何度も谷折りと山折りを繰り返したりするけど、これはそうもいかない。
折れ線部分をきれいに切ることだけに集中する。
ごうごうとうるさかったエアコンの音が途絶えた。
その代わり、ゴロゴロと遠くのほうで響く地鳴りのような音と、細かい水滴の流れる音が聞こえてきた。
「なぁ。テレフォンカードなんか、いいぞ」
シゲお兄さんの肩に寄りかかり、身を乗り出した坊主頭のお兄さんが耳元で言った。
ぼくが顔を上げると、お兄さんは目を輝かせ口角が上がっていた。
でもぼくはそんなカード知らないから、黙って首を振った。
内側のページを傷つけないために、折れ線の部分をぼくの指の腹で強く押さえて、何度も往復させるのが確実だと思った。
「おい、
隣のヨシタカ兄ちゃんは、シゲお兄さんの膝に背中を押されていた。
「こっちだって見張ってるんだ、早くしてくれ」
「……ぼくできた」
シゲお兄さんは「おっ」と言って、ぼくの手元を覗きこんだ。
ぼくはヨシタカ兄ちゃんが責められてるのが、面白くなかった。
だからシゲお兄さんが見る前に、ヨシタカ兄ちゃんに渡した。
「……すげぇッ!」
ヨシタカ兄ちゃんはぼくが渡した雑誌の中を見ると、ごくりと喉を鳴らした。
「こんな短時間でキレイに切れたか? 一枚だけじゃないか?」
シゲお兄さんがぼくをみて半笑いした。
「見てみろ、全部切れてるぜ」
そう言うとヨシタカ兄ちゃんは、ぼくが切り離した雑誌のページを後ろのお兄さんたちに見せた。
シゲお兄さんと坊主頭のお兄さんは、雑誌を見ると鼻息が荒くなった。
「これはッ?!」
シゲお兄さんが別の雑誌を取った。
「これもできるか?」
坊主頭のお兄さんが、目を見開いてぼくに聞いてきた。
「これも『製本ミス』?」
「いっぱいあるんだ、頼むよ」
シゲお兄さんの後ろから、赤いシャツを着た男の人が言った。
気がつけば、ぼくのまわりには知らない男の人たちが囲んでいた。
ぼくはシゲお兄さんから渡された別の雑誌のページも、きれいに切り離した。
コツがわかったので、さっきよりも早くできた。
隣のヨシタカ兄ちゃんとシゲお兄さんは、口を開けてページを凝視していた。
知らない男の人たちは息を吞むように黙りこくり、目を皿のようにして、ぼくの手元を見ていた。
「すッ……げー! これもうギフテッドだ!」
「ギフテッド! ギフテッド!」
兄ちゃんたちが小さく騒ぐ。
「これもやってくれ」
別の雑誌を渡されて、ぼくは自慢げに切り開いて後ろを振り返った。
緑の帽子を被った顔色の悪いお兄さんがいた。
「……君は天才だ」
お兄さんはぼそっとつぶやいた。
「ああ、これはすごいね……」
おじさんの声が聞こえた。
「おたくの坊ちゃんは大層な特技があるようですね」
ぼくは後ろを見た。
さっきまでいたお兄さんたちは消えて、シゲお兄さんしかいなかった。
隣のヨシタカ兄ちゃんは、正面を見て固まっていた。
ぼくが正面に向き直ると、棚の向こう側には顔を真っ赤にしたお父さんと、メガネをかけた
「……お買い上げありがとうございます」
おじさんはぼくが『製本』した三冊を拾い上げると、お父さんに渡した。
客 百舌すえひろ @gaku_seji
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