第36話 承認欲求と自分の価値とほろ苦い味
新川結衣は自分のスマホと睨めっこして、ため息をついた。
二ヶ月前に一枚の写真でバズったものの、それ以降目新しいものを見つけられていない。
おまけにバズった投稿も、合成だの行ってみたけど普通のねこしかいなかっただの散々な言われようで、増えていく心無いコメントを見るたびに結衣の心は沈んでいった。
「嘘じゃないし。本当にねこが接客してたし」
そう言ったって、結衣以外の人があの喫茶店に行っても誰もねこの須崎の接客を目撃していないのだから、いないも同然の扱いだった。
「…………」
こうなったらもう一度、あのねこの喫茶店に行こう。そしてこの目で須崎の存在を確認し、写真に撮ろうではないか。いや、次は動画がいいかもしれない。動いて喋る須崎を見たら合成だなんだと騒ぐ声も減るだろうし。
そうと決まれば、善は急げ。
結衣は電車に飛び乗って日本橋に急行し、あの路地裏のうらぶれた喫茶店に向かった。
からんからんと音がして扉が開く。
「いらっしゃいませ」
するとそう声をかけて出てきたのは、そう、他ならぬ縞ねこの須崎ではないか。
結衣が前回見たのと寸分違わぬ姿の須崎は、縦縞模様の灰色のねこだ。誰がどう見てもまごうことなきねこの姿である須崎は、二本足で結衣に近づいてきて、お好きなお席へどうぞと言った。案内に従って席についた結衣は、内心でしめしめと思う。水とメニュー表を置いた須崎。
「ご注文がお決まりになりましたら……」
「あ、コーヒーゼリ―で」
結衣は遮るように言った。注文の内容なんてどうだっていい。要するに、須崎が歩いて料理を持ってくるシーンを写真と動画に収められれば良いのだ。
「かしこまりました」
と言った須崎が、今しがた持ってきたばかりのメニュー表を持って奥へと引っ込む。
テーブルの上にスマホを置いて、何気なくカメラを選択した。
と、ここで、須崎がくるりと結衣の方を振り向く。
「お客様、こちらのポスターをお読みください」
「え……へっ」
結衣は、須崎が指差した方を見た。
壁には店に不釣り合いな、極めてシンプルなポスターが掲示されている。
〈写真撮影お断り。見たものは心の中にしまっておいて下さい〉
どきりとして、思わずスマホを握っていた手が強張る。
「この店でどんなに珍しいものを見たとしても、他言は無用。私は時代の波に乗らず、ゆっくりのんびり営業したいのです」
もしかしなくても、この間のバズった騒ぎのことを言っているのか。結衣が拡散したって、気がつかれている? 焦った結衣は言い訳のような言葉を紡ぐ。
「で、でも、もしも写真のおかげでお店に人気が出たら、お客さんだってたくさん入るし、須崎さんにとってもいいことだと思わない?」
「私は店が人気出て欲しいと思っていないのですよ。来てくれるごく僅かな常連さんを大切にしたいのです」
「なんで? 大勢の人に認められて、人気者になりたいって思わないの? 須崎さんならあっという間に人気出るのに。ほら、動画とかSNSにアップしたら、あっという間に大バズりだよ、チヤホヤされちゃうよ」
「私は別に、知らない人にチヤホヤされたいと思っていませんので」
「な、なんで……?」
「だって所詮は知らない人でしょう。私は身近にいる大切な人にだけ好かれていればいいのです。画面越しの顔も名前も知らない人にまで好かれたいとは、思いません。だって虚しいと思いませんか? そういう人たちとの繋がりは結局希薄で、画面を閉じれば私のことなんて忘れてしまう。こちらが思っている以上に、相手は私に関心などないのですから」
「…………っ!」
須崎の言葉は、結衣の心を深くえぐった。
そうだ。画面越しの相手は、結衣にさしたる関心など持っていない。数万の人の目に留まったとしても、そんなものはほんの一瞬だ。画面を見て、いいねをして、閉じれば忘れ去られてしまう泡沫のような儚さ。すがりついているのは自分だけ。残るのは虚しさだけかもしれない。じゃあ私がこれまで固執していたものって一体なんだったんだろう。
呆然とする結衣の前に、コーヒーゼリーが差し出された。
「お待たせいたしました、コーヒーゼリーです」
そういえば注文したんだっけ。
結衣はスプーンを手にして、ゼリーとアイスが一度に食べられるようにすくってみる。
パクリ、口に入れるとほろ苦いゼリーと甘いバニラアイスのバランスがちょうどいい、非常に美味しい一品だった。シンプルだからこそ、素材の良さが引き立っている。
前回来た時にも食べたはずだったが、こんなに美味しかったっけ。あの時は写真投稿するのに夢中で、味わってなんていなかった。結衣にとって大切なのは料理の見た目だけで、味なんてどうだって良かった。だってそんなの、投稿する時になんの関係もないし。
久々にスマホを離して料理に向き合った気がした。
ほろ苦い味わいのコーヒーゼリー。見た目も味も素朴だけど、噛み締めるたびにゼリーは苦味が増していくし、アイスは舌の上で甘さを残して溶けていく。美味しいと素直に思い、あっという間に器が空になった。
「ごちそうさまでした……」
須崎は前回同様、会計をしてくれた。結衣はチラリと須崎を見た。
「あの……もしかして、お店に迷惑かけました? 張り紙……」
「ああ、いえいえ、迷惑というほどでは」
「でも、須崎さん見ようといろんな人が来たんじゃないですか」
「来ましたねぇ」
「……すみません」
「いえいえ。助けてくれる人がたくさんいたので。私はお客さんに恵まれています」
ねこの顔がニンマリと笑う。
結衣は出て行く時、須崎はペコリと丁寧なお辞儀をして確かに言った。
「またのご来店をお待ちしております」
「また来てもいいんですか?」
「ええ、もちろんです」
裏も表もなさそうな顔で返答された。
店を出ると雑多なざわめきが耳に届く。振り返ると扉の中に、確かに須崎の姿があった。
不思議な感覚だった。狐に化かされたような、いやでもこの場合はねこにばかされたって言ったほうがいいのかもしれない。
結衣は鞄からスマホを取り出そうとして、そしてやめた。
思えばいつからか結衣の生活はスマホに支配されていた気がする。
寝ても覚めてもちょっとした隙間時間もいつもいつもスマホを触っていた。いつしかSNSにハマって、私もこの人達みたいに有名になってチヤホヤされたいと思っていた。
何を食べるにしても何を着るにしてもウケることばかり考えていて、その他のことなんてどうでもいいって思うほどの深みにハマっていた。
「…………やーめた」
自分の足で歩いて、いろいろ見てみよう。そうしたら世界が広がるかもしれないし。
うつむいて画面ばかり見ていた視線を上げて、歩き出す。
雑多な日本橋の街に佇む一軒の喫茶店に感謝の気持ちを抱きつつ。
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