第35話 平穏無事を噛み締めるホットココア

 翌日の日曜日も、翌週の土日も、そのまた翌週の土日も過ぎていく。

 その間に起こった事件は色々だ。

 高木がとうとうカップルで来た女子に話しかけ、相手の彼氏にキレられて、店の中であわやケンカに発展しそうになった時にはヒヤヒヤした。


「その子は俺の運命の相手なんだよ!」と言う高木は、いっそのこと清々しい。お相手の彼氏は高木の見た目に怯むことなく「彼女は僕の運命の人だ!」と言い、高木に向かってへなへなのパンチを繰り出して軽く止められ、そしてカウンターの右アッパーを高木が出そうとしたところで、大吉と治部良川に羽交い締めにして止められていた。

 カップル客に愛が平謝りする羽目になったのだが、思わぬ彼氏の反撃に感動した彼女が目をキラキラさせながら「すごーい! ますます大好きになっちゃった!!」と言ったのでことなきを得た。

 高木はこの日営業が終わった後にこっぴどく常連たちに叱られ、いつも温和な須崎にまで「店内で暴力沙汰はちょっと」と言われたので、さすがに反省したようで、次からは若干大人しくなった。


 子連れの客がしばしば現れ、無邪気に「ねこはー?」と言うものだから、その度に須崎はねこのふりをしながら店内に現れては愛想を振りまいていた。


 大吉は相変わらず女性客にモテていたし、竹下は時々「徹夜明けです」という疲れ果てたクマがくっきりの顔で店に顔を出した。


「竹下さん、徹夜しましたか? 無理しないで帰っていいですよ」

「愛さん、ご心配痛み入ります。しかしやると決めたからにはやりますよ」

「真面目ですね……」

「ですが竹下さん、ケチャップの代わりにオムライスにタバスコをかけようとしていますよ」

「えっ」


 須崎に指摘された竹下が己の手元を見ると、出来立てふわふわのオムライスに今まさにタバスコをかけようとしているところだった。


「あっ、本当だ。あぶないところでした」

「無理は禁物だぞワレェ」

「そっすよ! 今日は俺たちだけでなんとかするんで、竹下サンは帰って寝てください!」

「ううう、ありがとうございます。みなさんの優しさが心に染みる」


 竹下は「東京ってあたたかい」と言いながらその日は帰って行った。




 だんだんと常連客も働くのに慣れて手際が良くなり、同時に客足は日を追うごとに明らかに減って行った。そして新規の客は減ったのだが、前回来店した客と全く同じ人物が店に来るようになった。


「ねえあの女の子たち、ぜってえ兄貴目当てっすよ。『もう一人の男の店員さんはいますか?』って聞かれちったもん」

「…………」


 大吉は実に面倒臭そうな顔をしてから、須崎へと向き直った。


「須崎さん、俺、今日でバイト辞めます」

「わかりました。もうだいぶ店も落ち着いてきましたし、問題ないでしょう。ありがとうございます」


 須崎は二つ返事で受け入れた。


「あーあ、面倒くさ」

「兄貴は彼女作らないんすか?」

「考えたこともなかった」

「お客さんの中でタイプの子とかいなかったんすか」

「いない」

「あんだけモテんのに勿体ねえっすね」

「江藤さん、悪いけど客席の方は任せたわ」

「はい」


 高木の言葉を受け流し、大吉は須崎の手伝いに回るべく厨房の奥に行く。もう客席に出る気はないらしい。

 二ヶ月が経つ頃には須崎目当ての客も大吉目当ての客も来なくなった。季節は移ろい、既に冬である。すっかり元の静けさを取り戻した店内で須崎は全員に温かいココアを淹れ、提供してくれた。


「いやはや、皆様のおかげで店が落ち着きを取り戻しそうでよかったです」

「今度から迂闊に写真撮らせちゃダメですよ」

「ええ、肝に銘じておきます。時代の流れは早くてついていけないですねえ」

「今回みたいなことになったら、またいつでも手伝いますから言って下さいね」


 愛はふぅふぅとココアに息を吹きかけ、一口啜った。熱々のココアの上には真っ白なホイップクリームが載っていて、良い感じに溶けてココアと混じり合っている。舌の上で濃厚なココアとクリームの甘みが踊る。寒い季節になるとココアが恋しくなる。


「じゃ、これで俺たちの出番は終わりっすね。ちょっと残念っす。ね、兄貴」

「まあ、来たくなったらまた客としてくればいいんじゃねえ」

「兄貴ってそういうとこはドライですよね。俺に会えなくなるの寂しくないんすか」

「全然」

「兄貴……」

「会いたきゃ連絡すりゃええやろ」

「兄貴!」

「おい高木、お前明日から地方での仕事だぞ」

「!」


 高木は誰かの一言に一喜一憂してはオーバーなリアクションをしている。

 竹下はくたびれた顔に柔和な笑みを浮かべていた。


「何にせよ、店の平和が守られて一安心です。喫茶店の補助もなかなか面白い仕事でした。学生時代に戻ったみたいです」

「竹下さん、大学生の時はなんのバイトしていたんですか?」

「私はガソリンスタンドで働いていました」

「えぇー、ちょっと意外ですね」

「時給が良かったんですよ」


 皆でココアを啜りながら他愛もない会話をする。大吉が鞄の中をゴソゴソして、何かを取り出した。


「なあ、須崎さん。これ店に貼っといてくんない?」

「これは……ポスターですか?」

「せや」


 テーブルに置かれたポスターを皆で覗く。

 A4サイズの紙に書かれているのはかなりシンプルなもので、真ん中の丸の中にスマホのイラストがあり、斜線が引かれている。そしてイラストの下には〈写真撮影お断り。見たものは心の中にしまっておいて下さい〉と書かれている。


「気休めかもしれんけど、ないよりマシかな思って。これからも似たような客は来るやろうし、牽制や」

「大吉さん……」


 須崎は猫の瞳を潤ませて大吉を見つめ、そっとポスターを胸に抱いた。


「その気遣いが嬉しいです。ありがとうございます。早速店中に貼りましょう」

「私が貼りますよ。須崎さんの目線で貼るとかなり下の方になってしまいますし」


 竹下が立ち上がったのをきっかけに、全員で店の中の目立つ場所にポスターを貼った。


「ちょっと店の雰囲気壊れたけど、しゃあないな」

「必要防衛ですよ、大吉さん」

「ん。じゃ、俺、帰るわ。お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした」


 ココアを飲み干した大吉が店を去って行く。

 大吉が帰ったのを皮切りに、治部良川、竹下、高木も帰り支度を始め、愛もそろそろ帰ろうと残ったココアを一口に飲んだ。


「皆様ありがとうございます、またお客様としてお越しください」


 おお、ええ、と声をかけ、皆で喫茶店を去った。

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