第19話 親友とタバコと
何せ幸太がやたら人懐こい性格な上に、大吉とウマがあったからだ。
高校入学式に意気投合した二人はクラスの中心となり、盛り上げ役だった。
学園祭では、クラスの出し物であるたこ焼き屋の客引きとして女装して校内を練り歩き、そのあまりの可愛さゆえに他校の男子を骨抜きにし、たこ焼きの売り上げに貢献した。
体育祭の騎馬戦では抜群の連携プレーで次々に相手の鉢巻を奪い取り、綱引きでは積極的に声を出し、リレーでは隣のクラスの陸上部のエースとデッドヒートを繰り広げ、惜しくも優勝を逃して二位になった。
日常生活ではくだらない話で盛り上がったり、放課後にマクドでだべったり、クラスの可愛い子と一緒にカラオケに行ってみたり、そんな感じだ。
大吉の高校一年生というのは誰もが羨む健全で健康的な青春の日々だった。
変化が起きたのは高校二年生に上がったばかりの頃だった。
その頃から幸太は学校を休みがちになった。不思議に思った大吉が「お前なんで学校休むん?」と尋ねても、幸太は「ちょっと野暮用や」と言ってはぐらかすばかりだった。
でもその時、大吉は、深く考えなかったのだ。
いや、考えようとしなかった。嫌な想像が胸をよぎっても、確たる証拠を得るまでは、幸太の口から直接理由を聞くまでは、考えないようにしようと思った。
夏休みが近くなった一学期の終わり。ある日の昼休みの屋上で、大吉と幸太の二人はチャイムが鳴るまでの時間をダラダラと過ごしていた。
幸太は弁当箱の蓋を閉めると、屋上のフェンスにもたれかかった。心なしか顔色が良くない。
「幸太、お前顔色悪いけど大丈夫か。熱中症か? 校舎ん中入るか」
幸太は何も言わずに空を見上げていた。なんとなく落ち着かい沈黙だった。幸太と一緒にいて、会話が途切れて落ち着かないなんて初めてだ。大吉がソワソワしていると、しばしののちに幸太が話しかけてきた。空に向いていた顔が大吉に向けられ、その表情は思わずどきりとしてしまうほどに決意に満ちた、真剣な面持ちだった。
「なあ、
「なんや」
「俺、病気やねん」
ひゅっと大吉の喉の奥で変な音がした。見ると、幸太は顔色の悪い顔に諦めたような疲れたような、そんな表情を浮かべていた。
「もうすぐ死ぬねんて」
昼休みが終わる予鈴が鳴り響く。大吉はチャイムの音を、どこか遠くの出来事であるかのように聞いていた。耳の奥には幸太の放った「もうすぐ死ぬねんて」という言葉だけが、まるで山彦のようにいつまでも響いていた。
「なぁ、俺はもうすぐ死ぬから、やりたいことを全部やろうと思う」
「そうか。わかった。なら、やろうや」
大吉は幸太の病名や余命について深く尋ねなかった。ただ、幸太がやりたいこと全部に付き合ってやろうと思った。
高校二年生の夏。
二人はさまざまな場所に顔を出す。
大阪のディープスポット、通天閣のお膝元である新世界に入り浸り、怪しげなおっちゃんに関節技を教わったり。
難波に存在しているたこ焼き屋に片っ端から入って行って丸一日たこ焼きを食い散らかし、くいだおれ太郎と写真を撮り、グリコの前でグリコのポーズを決めたり。
学校サボってUSJに朝から乗り込んで遊び倒したり。
大阪に住んでいると意外とやらない、コテコテの大阪観光を二人で楽しんだ。楽しかった。幸太も心の底から楽しんでいたし、大吉も楽しかった。
そして秋。
幸太の病状は急速に進行し、幸太は二学期の始めから学校に全く来なくなった。
大吉はしょっちゅう幸太の見舞いに行った。
見舞いに行くといつも、幸太は病院の屋上にいる。ぼうっと空を眺めている。
すっかり痩せた幸太は、それでも大吉の顔を見ると変わらぬ笑顔を浮かべてくれる。
「幸太、こんなとこ居てええんか。体に差し障らんか。戻ったほうがいいんとちゃう?」
ついついそう聞いてしまう大吉に、幸太は苦笑を漏らした。
「お前は俺のオカンか」
「んな訳あるか」
大吉は心の底からのツッコミを入れた。
「オカンな訳あるか。俺はお前の親友や」
「そうやな」
幸太は頷いた。
「大吉っちゃんは俺の親友や。これまでもこれから先も」
「そうや。親友や」
会話が途切れる。病院の屋上を、秋の涼やかな風が吹き抜けた。
「……ありがとうな大吉っちゃん。おかげで楽しい夏を過ごせた」
「おう。やりたいこと、全部できたか」
「実は一個だけ、残っとる」
「なんや」
「タバコ」
「は?」
「タバコや。俺の親父がヘビースモーカーでなぁ。憧れがあったんや。二十歳になってから思うてたけど、どうやら二十歳まで生きられそうにない」
「…………」
「悔しいなぁ。まさかこんな早くに死ぬなんて、思うておらんかったわ」
「…………俺も死にたい」
「何言うてんねん」
「幸太がいなくなるんなら、俺も死にたい。生きててもしゃあない」
「アホか。お前は生きて、この先の人生楽しく生きるんやで。俺の分まで」
「お前の分までか」
「せや」
幸太は頷いた。至極真剣な顔だった。
「俺の分までや」
冬。
幸太は静かにこの世を去った。あまりにもあっさりと。死に顔は穏やかだった。
大吉は葬式で泣かなかった。クラスメイトみんなが泣いている中、一番仲の良かった大吉は泣かなかった。
ただ、家に帰ってから部屋でうずくまって膝を抱え、一人押し殺した声で泣いた。
高校三年生。
幸太のいなくなった日々は色彩を失ったかのようだった。
大吉は別人のように口数と笑顔が減り、学校生活を淡々とこなし、時々屋上で一人で空を見上げて過ごした。
十代半ばにして親友を失った経験は、大吉の心に深く傷を残していた。
心配した両親は、「せめて大学に行ったらええんとちゃう」と言った。
この言葉は、大吉の将来を心配して出てきたのだろう。大阪人は口調が強いが人情に厚い。同じ言葉でも声音によって透けて見える親心に、まあ大学くらいは行こうかという気持ちになった。
しかしどこの大学に行って何をやりたいのか。大吉の人生において今、やりたいことなど何もない。
無気力なまま壁に全国の大学学部一覧表を貼り、ダーツを放った。刺さったのは慶應義塾大学の薬学部だった。
空いた時間は全て勉強に使った。勉強していれば余計なことを考えなくて済む。その甲斐あって合格して、入学した大学は眩しいところだった。
今の大吉にとって、同じ大学の学部に通う学生たちの姿は眩しすぎる。
高校生活の三分の一を受験勉強に費やし、念願叶って憧れの超高難関大学に合格し、夢に向かって必死に努力する姿。勉強にサークルにアルバイトに遊びにと、六年間の大学生活を謳歌しようという姿勢。貪欲に人生を楽しむその姿が、大吉にとってはたまらなく羨ましく、かつての自分と重ね、そして思わず目を背けてしまいたくなるのだ。
大学に馴染めないまま二十歳になった誕生日、大吉はタバコを買いに行った。
一本取り出し、火を付ける。口に咥えて吸い込んだ。途端に食道を通って肺が煙で満たされ、大吉は咽せた。
「ウエッッホ! ゲホッ! けっむ! マッズ!」
脳裏に幸太の顔がよぎる。タバコを吸ってみたいという些細な夢さえ叶わずに、空に還ってしまった大吉の親友。幸太の分まで生きようと思っても、今の大吉は無為に時間を消費しているだけだった。わかっていても進めない。幸太がいないと楽しくない。
「……ケムいねん、アホ」
左手に持ったタバコから独特の臭いがする煙が燻り、ワンルームの狭い天井にのぼっていく。抱えた膝に顔を埋める。人生初の喫煙は、全然旨くなどなかった。
それでも大吉は二十歳の誕生日を境に、頻繁に喫煙するようになった。
大吉がやたらにタバコを吸うのは、煙に乗せて親友の姿を思い出しているからだ。
これを吸っている時だけが唯一親友を感じられる気がして、虚しさと寂しさを紛らわすかのように、大吉はタバコに手を伸ばす。停滞した時間を過ごし続ける。
「…………幸太」
東京駅の雑音が耳に戻ってくる。忙しなく行き交う人々は、壁際にうずくまる大吉になど目もくれない。一日に百万人近くが利用するこの駅構内に、大吉の求めるたった一人の親友がいないのはなぜなのだろう。
地球上に何億の人間がいようとも、大吉の親友はもうこの世にはいないのだ。
「幸太」
呼んでも呼んでも返ってくるはずのない返事を、それでも求めてしまうのはいけないことだろうか。
大吉と青春の全てを共にし、空へとのぼった親友の声を聞きたいと願ってしまうのは、いけないことなのだろうか。
大吉の背後に誰かが立った。
「……幸太?」
そんなはずはないのに、なぜだろうか。大吉は親友の名前を呼びながら、力なく首だけを後ろに向けた。
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