第18話 一枚のチケット
草太が帰って行って店内で、大吉は思考にふける。
大吉と高木は確かに以前、江藤と五ツ宮の後をつけているストーカーの存在を確認していた。五ツ宮もストーカーの隠れている方向をそっと見つめていたので、てっきりストーカーの正体は草太だと思っていたのだが、違ったようだった。
ならばあれは誰で、何の目的で、江藤と五ツ宮のどっちをつけていたんだ?
疑問は尽きない。
大吉は苛立ちのあまり、いつも以上のペースでタバコをスッパスパスッパスパ吸っていた。
「兄貴、なんか苛立ってます?」
「いや」
「どう見てもイライラしてそうっすけど」
「やかましい」
関西弁のまま戻らない大吉は、吸い殻を山のように築き上げているので、須崎がせっせと灰皿を取り替えている。三回目の灰皿交換の後、この微妙な空気を変えるべく愛がわざといつもよりも明るい声を出した。
「あのー、私今日、皆さんを学園祭に招待したくて! 招待券を持って来たんですよ!」
そうして鞄から取り出したのは、細長い真紅のチケットだ。表面には「聖フェリシア女学院 学園祭招待券」と書かれている。
「聖フェリシアの学園祭って招待制らしくて、一人十枚ずつチケットを渡されるんですけど。ぜひ皆さんにお越しいただきたくって」
「なんでや」
「そりゃもちろん、皆さんにはいろいろお世話になっているからですよ。皆さんの協力がなければ学園祭で喫茶店をやることもなく、私はいまだにぼっちだったでしょうから。どうぞどうぞ」
愛は一人一枚ずつチケットを渡した。大吉と、高木と、なんと須崎にも渡していた。
「はい、須崎さんどうぞ」
「どうもどうも、ご丁寧に」
「いやいやいや、ねこは入場禁止やろ」
大吉はタバコをふかしながらツッコミを入れた。
「えぇ? でも私、ぜひ須崎さんには来て欲しいんですけど」
「無理いうなや」
「じゃああれだ! 俺がカバンに入れて、コッソリ連れて行くってのはどうっすか!?」
「ダメに決まってるやろ」
「高木くん、それいいね!」
「お手数おかけします」
大吉のツッコミは無視され、愛と須崎は高木の提案に乗った。
「あとは、治部良川さんと竹下さんに渡すでしょ……あれ? チケット一枚足りないや。さっき落とした時に無くしたのかなぁ」
愛の呟きに大吉は反応した。
「落としたんか」
「そうなんですよ。でも親切そうなサラリーマンが拾ってくれました。東京って、結構いい人いるんですね、大吉さん!」
「どんな人やった」
「普通そうな人でした。草太さんにちょっと似てるかな?」
「つまりありきたりで影の薄い平凡なリーマンってことっすね」
高木の身も蓋もない説明に愛は「はい」と頷く。
「…………」
説明を聞き大吉は眉間に深く皺を寄せながら、忙しなくタバコを吸った。吸って吸って吸いまくった。尋常じゃない様子に、流石にその場の全員が大吉を諌めにかかった。
「あのう、大吉さん、流石に吸いすぎじゃないですか」
「やかましい」
「兄貴、そんなにタバコ吸ってたら、体壊しますよ」
「お前に体調の心配なんてされたくないねん」
「さっきも聞いたけど、何に苛立ってんすか?」
「お前には関係ない」
誰が何を尋ねても、大吉は口を閉ざしてタバコを吸うばかりである。
どうしよう、と愛と高木が目配せを送った。須崎が四回目の灰皿取り替えでテーブルに灰皿を置きつつ、静かに口を開いた。
「大吉さん」
「何やねん」
「大切なものができるというのは、いいことだと思いますよ」
「…………!」
大吉は目を見開き、須崎を見た。
「須崎さんに何がわかるんや」
「わかりますよ。今大吉さんは、自分自身と戦っている」
「まるで見てきたような口ぶりやな」
「少なからず同じような方には出会ってきましたから」
「あぁ? 説教か?」
「いえいえ。喫茶店の店主として、大切な常連さんへのアドバイスです」
「馬鹿にしとんのか」
「滅相もない。大吉さんのことが大切なのです」
どれだけ大吉が凄んでも、須崎は全く怯むそぶりを見せずねこの顔に穏やかな表情を浮かべ続けている。まるで道端で日向ぼっこをしている、ねこのような表情だった。
「失う悲しみを知っていればこそ、守りたいという気持ちが芽生えるのではないですか。だからこそあなたは先ほど草太さんに、あんな風に言った」
「やかましい!!」
大吉は勢いよく立ち上がった。立った拍子に椅子が倒れ、がたーんと大きな音が店内に木霊する。
「アンタに何がわかるって言うんや!!」
もうこの場所にいたくなかった。大吉はテーブルにコーヒー代を叩きつけると、荒々しく扉を開けて外へ出た。
途端に都会を吹き抜ける熱波が頬をなぶり、排気ガスの臭いが鼻をつく。耳障りな車の走る音を聞きながら、東京駅まで走った。背後から高木の「兄貴ぃ!」と呼ぶ声が聞こえてきたが、構わなかった。
無性にタバコが吸いたい。けれどもこの街で路上喫煙は許されない。心置きなく喫煙できるあの店を、大吉は今捨て去ってきた。
大吉にとって世界とは二つに分類される。
すなわち、タバコかそれ以外か。
かつての大吉は違った。タバコ以外に大切なものがたくさんあった。世界はきらきらしていたし、希望に満ち溢れていた。
「…………」
大吉は馬鹿ではない。だから、わかっている。こんな風にタバコばかり吸っているのは、ただの逃避に過ぎないのだと。
記憶の中で、もう二度と聞くことのできない親友の声が聞こえる。
わかってる。自分がこんな生活を送っていると知ったら、親友はきっと激怒するだろう。「何やってんねんお前!」と言いながらどつかれるに違いない。
それでも大吉には、前に進む勇気が出なかったのだ。
意図的に大切なものを作らないように、周囲に無関心に振舞ってきた。
大切なものができて、また失ったとしたらもう、立ち直れなくなりそうだから。
だから大切なものがすぐそばにあって、それを自ら手放そうとした草太が許せなかった。相手が生きてそこにいる以上、諦める理由なんて何もないはずだ。だから激怒した。
(もう手遅れやろ)
心のどこかで自分の声がする。わかっている。もう手遅れだ。
東京駅構内に入ると、雑多な人の声が耳に付く。全てが煩い。
構内の隅の壁に身を預けて目を瞑ると、大吉の瞼の裏に鮮やかな景色が浮かぶ。
高校の入学式の後、大吉の前に座った男は振り向き、やたら人懐こい笑みを浮かべながら言った。
『へぇ、大吉ってゆーんか。ワイは幸太! なんや二人でいたら運気上がりそうな名前のコンビやな!』
それが、大吉の唯一無二の親友である幸太との出会いだった。
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