第17話 常連と平社員とシナモンコーヒー②
山本草太はごく普通の会社員だ。この東京都中央区日本橋に無数あるオフィスビルのワンフロアを占めるオフィスに在籍する、入社一年目の平社員。
そんな草太がなぜ大手五ツ宮グループのご令嬢と知り合いになったかと言うと、きっかけはごく単純なものだった。
草太が電車の中で痴漢被害に遭っていた珪華を助け出したのだ。
珪華は草太に感謝し、二人はそこで解散した。
ところが次の日、草太の勤めるオフィスの近くでばったり珪華と出会った。どうやら珪華はオフィスの近くにある聖フェリシア女学院に通う高校生だったらしい。
珪華はこれも何かの縁だからと言って、痴漢撃退のお礼にと草太を食事に誘った。ならばと言って草太が珪華を連れて行ったのは、行きつけの店である。日本橋という整然とした街並みの一角に存在する小さなお好み焼き屋は、店の古さは別として美味さと店主の愛想の良さで草太は気に入っていた。
お好み焼き自体が初めてであるらしい珪華は、物珍しそうに草太が作るお好み焼きを見て、ひっくり返すヘラ捌きに驚いていた。
お嬢様の珪華との会話は機知に富み、なかなかに話していて楽しい。珪華は珪華で、草太のような人種が珍しいのか話を聞きたがった。助けてもらったというフィルターもかかっていたのだろう。二人が恋に落ちるのに時間はかからなかった。
が、ある程度お互いを知るようになると、草太はどんどんと自分と珪華の違いを思い知るようになっていった。
育ちが、歩んできた人生が、そして期待される将来が違う。
一介の中小企業に勤める平社員の草太と大企業のご令嬢珪華とでは、この先に進む人生が違うのだ。珪華は育ちがいいだけでなく頭もいい。輝かしい将来が約束されている彼女と、平凡なる自分が一緒にいていいわけがない。自分が一緒にいても、彼女のためにならない。
「そう思った僕は、彼女に別れを切り出したんですが……」
「珪華ちゃんが納得していない、と」
「そうなんだ」
珪華のクラスメイトだという愛の言葉に草太は頷いた。草太は須崎がおいてくれたコーヒーを飲まずに、まだシナモンスティックでかき回し続けている。硬いスティックの先端がふやけ出していた。
「珪華……五ツ宮さんが僕なんかと一緒にいても、幸せになれるはずがない。僕なんかと別れて、もっとふさわしい人と付き合うべきだ」
こうして一度口にしてしまえば、思いは止められなかった。草太は自分自身に言い聞かせるように、言葉を重ねる。
「そもそも彼女にとって僕は、違う世界を見せてくれる、ちょっと物珍しいだけの存在だったんだよ。庶民的生活を垣間見て、面白かっただけさ」
そうだ、と草太は自分を納得させるために何百回と心の中で繰り返した言い訳を口にする。
珪華は草太が見せる全てを新鮮がっていた。人でごった返す隅田川の花火大会も、屋台の綿飴も、夏に出かけた遊園地のプールも、湘南の海も、全部を珍しがっていた。
当然だろう。
珪華はそれまで、隅田川の花火大会を貸切の屋形船から見ていたし、プールといえばホテルの室内プール、海といえば海外のビーチリゾート。
要するにそういうことなのだ。
「僕と五ツ宮さんとでは、住む世界が違うんだよ」
「でも山本さんは、珪華ちゃんのこと嫌いで別れたわけじゃないんでしょ?」
「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃない」
草太は愛に辛抱強く語って聞かせる。高木が眉毛を剃った個性的な顔を歪めているのに気がつき、そちらにも視線を向けた。
「若い君たちにはまだわからないと思うけど、これは恋愛感情とは別の部分の問題なんだ。世の中、好きという気持ちだけじゃやっていけない時もある。傷口が浅いうちにさっさと別れた方が、お互いの身のためになる」
シーンとした。愛はなんと言ってあげればいいかわからなかった。高木は唇を尖らせ、不服そうな顔をしているが、何も言い返さなかった。切実に訴える草太の様子を見て、高木にしては珍しく空気を読んだのだろう。
沈黙を破ったのは意外な人物だった。
「…………何やそれ」
独特のイントネーションのある言葉が静かな店内に響き渡る。
「何やねん、それ」
声のする方に全員が顔を向けた。大阪弁と呼ばれるこの特徴的な言葉を放ったのは、これまでずっと無関心そうにタバコをふかしていた大吉だった。
「だ、大吉の兄貴?」
高木が呼んでも大吉の兄貴は知らん顔だった。ものすごく短くなったタバコの先端を店に備え付けられている灰皿に押し付け、ぐりぐりと火を消す。タバコは大吉の指によって圧迫され捻れて潰された。大吉が草太を見る目は据わっていた。
「住む世界が違う? アンタそれ、本気で言ってるんか? 令和の日本で? さっさと別れた方が傷口が浅い? アホちゃうんか!」
切れ味の鋭い怒涛の指摘に、草太はヒィと息を呑んだ。見た目は普通そうな青年の繰り出す言葉と表情には凄みがあり、先ほどのメンチを切ってきた高木よりも恐ろしかった。
「五ツ宮さんがお嬢様だなんて、出会った瞬間にわかることやろ! アンタはそれを承知で付き合った。けど、段々と怖くなったんやろ。このまま付き合うて、五ツ宮さんの将来を背負うのが怖くなった。だから五ツ宮さんのためを装って、別れを切り出した。ホンマは自己保身のためなのに。なっさけない男やな」
大吉青年の言葉は草太の胸にぐっさり刺さって、傷口を抉ってきた。
図星だった。草太は結局、自分が可愛かったのだ。「君のためだ」と言っておきながら、守ろうとしていたのは自分自身だった。
「でも、じゃあ、どうすればいいっていうんだ。僕とこのまま付き合って、もしも結婚したとしたら、珪華の生活水準は今と比べ物にならないくらい落ちる。向こうの親御さんだって納得しないだろう」
「そんなもん知るか。俺にわかるわけないやろ」
大吉は吐き捨てるように言った。草太を見る大吉の目は嫌悪感に満ち満ちていた。一体何がこの青年の逆鱗に触れたのか全くわからない。
「わからないって、そんな無責任な態度で人の恋愛事情に首を突っ込まないでくれよ」
「知るか。腹を割って本心でぶつかってみりゃええやろ! ぐちゃぐちゃ考えてる暇があったら、本音で語って来いやドアホ!!」
大吉は大阪弁でまくし立て続ける。勢いに圧倒された喫茶店の面々は、ただただ黙って大吉の言い分を聞いていた。
「生きてりゃ大抵のことは何とかなるんや! くだらん言い訳を並べ立てて、自分で自分の幸せを諦めんなや!!」
「だが……」
「だがもだってもないやろ! 好きなんやろ!? 一緒にいたいんやろ!?」
「は、はい! 好きで、一緒にいたいです!」
「ならその本音に従って動けばいいだけやろ!」
ハッとした。
大吉の言葉には、真理が詰め込まれていた。
そうだ。本当はわかっていたんだ。草太は諦めようとしていた。
住む世界が違うとか、珪華のためだとか何とか言って、彼女と歩む未来を諦めようとしたのだ。
本当は一緒にいたいのに。
隣で笑う時間が、何よりもかけがえのない大切な日々だったというのに。
草太は、目の前のシナモンコーヒーをぐっと飲み干した。シナモンスティックをかき回し続けたせいで、シナモンの味が非常に強い、癖のあるコーヒーだった。草太は咽せて、須崎が差し出してきたコップ一杯の水を一気飲みした。
「……ゲホ、ゲホッ! 大吉さん、僕、目が覚めたよ。珪華と話をして、それから彼女の両親に会ってくる」
会って何というかはわからない。全くの徒労に終わるかもしれない。
しかし、彼女と付き合い続ける以上、向こうの両親に認めてもらう必要があるのだ。草太は覚悟を決めた。立ち上がり店から出て行こうとし、一度足を止めて振り返る。
「大吉さん、ありがとう」
「おう、全く、ストーカーみたいな真似事するくらい好きなら、もっと正面からぶつかれや」
そこで草太は首を傾げた。
「ストーカー?」
「アンタこの前、五ツ宮さんの後つけとったやろ」
「いえ」
草太は傾げた首を戻すと今度は横に振った。
「流石に後をつけるような真似はしたことないよ」
ここで大吉は面食らった顔をしてから、隣に座る高木とそっと目配せをした。
何が何だかわからない草太と愛はキョトンとして、店員であるねこの須崎だけは何食わぬ顔で空いたコーヒーカップを片づけ始めた。
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