第14話 事件は突然に

 暑い真夏の夕方だった。

 喫茶店の中には、店長である須崎と、学園祭の準備がえりの愛と、涼しさを求めてやって来ていた大吉と、仕事終わりの治部良川と大吉と、システムトラブルにより上司と顧客と開発課の板挟みになり胃を悪くしてオフィスから逃げ出して来ていた竹下とが思い思いの時間を過ごしていた。

 発端は、須崎の一言だった。


「あ、しまった。レジロールがそろそろ無くなりそうだ」


 レジで釣り銭を数えていた須崎がポツリとそんなことを漏らしたのだ。店の面々にペコリと頭を下げる。


「すみませんお客さんたち。ちょっと、レジロールを買いに行って来ますね。すぐ戻りますのでそのままおくつろぎください」


 そうして買い物バッグを灰色の縞模様の前足にちょいと引っ掛けた須崎が、二本足で歩いて店を出て行こうとした。


「待て待て待て」


 立ち上がったのは治部良川である。今日も今日とて黒いニッカポッカに地下足袋を履いた治部良川は、今にも扉を開けようとしている須崎を止めた。


「はい、何でしょうか」

「何でしょうか、じゃないだろうがワレェ。買い物に行くつもりか? その出立ちでか」

「はい。何か問題でも?」

「問題しかねえだろう」


 小首を傾げる可愛らしい縞猫の須崎に治部良川は詰め寄った。


「猫が買い物バッグ片手に現れたら、店員だって困惑するだろうが」

「そうですかねぇ」

「そうに決まってらあ。なぁ?」


 ここで治部良川が店内にいる客に同意を求めてくる。大吉以外の全員が頷いた。大吉は一連のやり取りに興味なさそうに、タバコをふかしている。


「しかし、レジロールが……」

「しゃらくせえ。俺もついて行ってやるよ」


 治部良川が己を親指でぐいと指し示す。おぉ、と須崎は感動の声を漏らす。


「それは心強い」


 ここで高木が勢いよく手をあげながら「はいはいはい!」と大声を出した。


「治部神様が行くなら俺も行くっす! ねえ、大吉兄貴!」

「なんで俺を巻き込むんだ」

「行きましょうよぉ、兄貴ぃ!」

「待ってください。このメンツは非常に心配なので、私もついて行きます。どうせ今日は徹夜なんだ、後一時間戻るのが遅くなっても誰も文句言いやしないでしょう」


 竹下が慌てたように話に割って入ってきた。こうなると愛も立ち上がるしかない。


「私一人でお店で留守番なんて嫌ですよ。一緒に行きます」


 かくして、五人と一匹によるお買い物の旅が始まった。

 日本橋という、人間以外の生物にとっての死の大地を須崎が闊歩していると非常に目立ってしまうので、須崎はバッグに押し込まれていた。

 須崎は竹下が担ぐバッグの中からぴょこんと首だけを出すと、髭をピクピクさせ、ご機嫌そうにしていた。


「いやぁ、みなさん親切で私は嬉しいです。あ、レジロールは有楽町駅すぐのビッグカメラに売っているのでそこまでお願いします」

「おい、あんま顔出すなよ、怪しまれるだろ」


 治部良川は周囲を警戒しながら須崎の顔をバッグの中に戻した。チャックのあいたバッグの中から須崎の金色の目がこちらを覗く。まるで二つの満月みたいだな、と愛は思った。

 喫茶店のある日本橋から有楽町駅までは歩いて二十分ほどである。

 電車に乗ってもいいのだが、その場合地下鉄銀座線で銀座駅まで乗って五分ほど歩くか、東京駅から山手線で有楽町駅まで乗るかのどちらかになる。どちらも一駅だし、駅の中でも結構歩くし、金もかかるので歩いて行くことになった。


「あ、聖フェリシア女学院。愛サンが通ってるのってここっすよね」

「そうだよ高木くん」


 高木に言われて一行は道ゆく途中にあった聖フェリシア女学院を見上げた。

 東京都中央区という日本一地価の高いこの土地に、聖フェリシア女学院は冗談みたいな面積を抱えている。三階建ての校舎と室内プール付きの体育館、人工芝のグラウンドにテニスコートも備えており、運動設備もバッチリだ。西洋風の瀟洒な建築物は上品で、クリーム色の壁によって四方を囲まれ、正門は背丈の倍以上ある芸術的な曲線を描くアイアンアーチの扉によって外界と学校とを隔てている。

 門の前にはロータリーが存在しており、ここで学校に通うお嬢様たちは送迎されるという寸法だった。

 今は夏休みのためか、ロータリーには一台のセンチュリーしか停まっていない。

 そのセンチュリーの前では、見覚えのある愛のクラスメイトが右往左往していた。


「あれ、珪華ちゃん?」

「あっ、愛さん!!」


 クラスメイトのお嬢様高校生・五ツ宮珪華だ。珪華はホッとしたような面持ちでこちらに近づいてくると、居並ぶ面々を見渡す。


「こんなところでどうしたの?」

「実は、運転手の吉良さんがどこかに行ってしまって、困っていたんです。鍵はつけっぱなしだからすぐに戻ってくると思っていたんですけど、もう二十分は経っていて。今日はこれから大切な予定があるので、もう出発しないと間に合わないんですけど」

「なるほど、つまり運転手が必要なんだね」

「ええ」


 珪華が頷く。手にしていたスマホをしきりに確認し、ソワソワと落ち着かなさそうに周囲を見回している。本当に急いでいるのだろう。

 ここでずいと前に出てきたのは、高木であった。


「珪華サン、あんた運がいいな。運転なら任せておきな、どこでも望むところに連れて行ってやるぜ」

「高木さん……」

「困っている人を放っておけないのが、俺! こないだ奢ってもらった恩返しだ、さあ乗った乗った! いくぜ、みんな!!」


 高木はなぜかノリノリになって、大吉を除くその場にいた全員を後部座席へと押し込んだ。


「大吉の兄貴は助手席にどうぞ!」

「おい、やめろ」


 ぐいぐい押す高木により、大吉が助手席に収まると、高木は運転席に乗り込む。


「おいっ、高木ワレェ! 狭い!!」


 治部良川が叫んだ。


「高木さん、後ろは三人乗りですから、大人が四人で乗るには無理がありますよ!」


 竹下は須崎の入った鞄が潰されないように抱えながら悲痛な声を出した。


「愛さん、ごめんあそばせ、シートベルトがこちらに。あ、高木さん、行き先は港区の六本木ヒルズですわ」

「うん、珪華ちゃんって呑気だね」


 高木は「ヒュー! ギロッポン!!」とアホ丸出しの奇声を上げながらハンドルを握ってエンジンをふかす。大吉は冷静に声をかけた。


「おい、高木、お前確か十八歳って言ってなかったか。免許は」

「やだなぁ、兄貴! 持ってますよ!!」

「にしても運転経験は」

「俺ぁバイク派なんで! クルマは教習所以来っすね!!」


 車内に「ヒィイイイ!」という悲鳴が上がった。誰の悲鳴かはわからない。おそらく高木以外の全員だろう。

 高木は乗り込んだ面子の気持ちを置き去りにして、一人ノリノリで叫んだ。


「さあ、首都高っすよ! 日本橋の街並みを、高速道路の高みから見物しましょーや!!」


 しかしテンションアゲアゲの高木に反して、センチュリーはアクセルを踏み込むとギャギャギャギャ!! と嫌な音を立てて急発進した直後、その場で急に止まってしまった。エンストである。


「あれ……っかしいなぁ。もう一度」


 高木がガチャガチャと適当に車をいじる。ロータリーから出られもせずにもたついているのに、まだ挑戦するのか。二千万円の高級車を大破させ、乗客全員の命を首都高のアスファルトの上に散らすつもりか。

 その場の全員が青ざめ、治部良川が叫んだ。


「おい大吉、隣の馬鹿野郎を止めろ!!」


 大吉は超高級車、センチュリーを適当にいじる高木の耳を掴んでねじり上げた。


「一人でテンション上げてんじゃねえよ」

「いだい!!!!!」


 大吉は悶える高木の耳たぶから手を離すと、運転席へ身を乗り出した。間一髪、耳を抑えるためにハンドルを手放した高木の胸ぐらを大吉が掴み、運転席から引きずり出す。高木はうなぎのようにニュルッとした動きで大吉の膝上に乗せられた。


「あぶねえ……危うく大事故を起こすところだったぜ」

「みんな降りて、運転手さん帰ってくるの待ちましょうよ」

「ですが、もう時間がなくって……吉良さんにはいくらかけても連絡がつながらないですし。お父様もお母様も忙しいので、遅れるわけにはいかないのです」


 珪華の訴えは切実だった。一般家庭ならいざ知らず、確かに珪華のような家なら両親の忙しさも尋常ではないだろう。話を聞いた治部良川は、腕を組んで唸った後視線を隣に窮屈そうに座っている竹下へと送った。


「仕方ねえな……竹下、行け」

「へっ。わ、私ですか!?」

「他に運転できそうな奴、いるか?」

「治部良川さんは……」

「もう免許は返納した」

「大吉さんは」

「免許ない」

「…………」

「治部神様、俺にやらせてくださいよぉ」

「テメェは黙ってろ」


 懲りない高木は治部良川に一喝され、黙った。珪華は竹下をすがるように見つめる。


「竹下さん、お願いできないでしょうか」

「…………わかりましたよ、そんな目で見ないでください!」


 女子高生に頼られた竹下は覚悟を決めて車を降り、運転席へと回り込んだ。

 しっかりとシートベルトを締めた竹下は、法定速度をきっちりと守り、極めて安全かつ快適な走行をする。


「二千万、二千万……擦っただけでもローン地獄」


 竹下は顔を青ざめさせ、何やらぶつぶつ言いながら運転していた。

 さて、竹下の運転するセンチュリーはブーンと実に平和に六本木までの道のりを進み、飯倉で首都高を降りる。ここまで来れば目当ての六本木ヒルズはもう目の前である。

 人でごった返す六本木駅前を通り、そびえ立つ六本木の象徴たる六本木ヒルズ森タワーの地下にある駐車場でセンチュリーは停止した。日本橋から六本木まではおおよそ七・五キロ。時間にして二十分。永遠にも感じられる二十分だった。


「みなさま、本当にありがとうございます、助かりましたわ!」


 車を降りた珪華が深々とお辞儀をしてお礼を言う。高木が片手をあげて「いやぁ、お安い御用っすよ!」と朗らかに返事をしたので、大吉と治部良川に左右から頭を叩かれていた。


「あぁーあ、なんで俺らは六本木にいるんだよ」


 六本木ヒルズ地下駐車場を歩きながら大吉が疲れた様子で言った。愛も完全に同意である。


「有楽町にレジロール買いに行くはずだったんですよね……」

「はははは、仕方がないので電車で有楽町駅まで行きましょうか」


 竹下は須崎の入った鞄を抱えながら、から笑いを絞り出している。この短時間で竹下は十歳は老けたように見えた。


「閉店時間は二十一時なのでまだ時間はあるでしょう」


 鞄からにゅっと顔を出した須崎がのんびりと言う。爆走する車内においても落ち着き払っていた須崎の心臓は、人間よりよほど頑丈にできていそうだった。とてもねことは思えない。それとも、ねこだからこそ、感覚が人間と違うのだろうか。

 愛はスマホを取り出して時間を確認した。十九時。まだそんなものなのか。

 前を歩いていた大吉が振り向くと、愛に声をかけてきた。


「江藤さんは帰った方がいいよ」

「なんでですか?」

「まだ高校生だから、遅くなったら親御さんが心配する」

「あっ、確かに! じゃー愛チャンはここで解散っすね! お疲れーっした!」

「ここからご自宅まで帰れますか? 最寄駅はどこでしょうか」


 竹下の言葉に、あーっと愛は声を出す。


「家は高円寺で……中央線に乗りたいなあって」

「でしたらひとまず我々と有楽町まで行きましょうか」

「はい」


 ゾロゾロと地下鉄に乗り、有楽町駅で解散し、愛は先に帰ることにした。

 有楽町駅から東京駅までは線路沿いを歩けば百メートルほどだ。

 赤煉瓦の東京駅舎が見えると、愛は自分がほっとしていることに気がついた。



 後日、須崎は無事にレジロールを買えたこと、センチュリーの運転手の吉良は急な腹痛でトイレにこもっていて、業務放棄でこっぴどく珪華の父に叱られたが珪華の取りなしによってなんとか首の皮一枚つながったこと、そして高木は治部良川によって運転免許証を取り上げられ運転を禁じられたことなどが、愛に報告された。

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