第4話 上京したての女子高生とクリームソーダ①

「はぁ……」


 江藤愛えとうあいはため息をつき、うつむいた。うつむいた先の地面は、当然アスファルトだ。

 雨を跳ね返したアスファルトはツルツルとしており、生まれ育った岡山の土を踏み固めただけの道とはまるで違う。いや、地元にだってアスファルトで舗装された道くらいあったけれど。でも、なんとなくこの大都会東京の道路とは違うのだ。

 学校指定のローファーから伝わってくる無機質で均一的な感覚にはいまだに馴染めない。

 馴染めないのはアスファルトだけではなかった。

 落とした視線を上げた先に存在するのは、雨を阻むかのように林立しているビル、ビル、ビル。

 そそり立つビルたちは競うように空に向かって伸びており、この地に閉塞的な空間を作り上げていた。


 周囲を行き交う人々は皆、先を急ぐかのようにさっさと歩いているか、あるいは傘を差していない方の手でスマホをいじりながら俯いて歩いている。

 判を押したように皆が黒いスーツを着て、地面が一切見えないアスファルトで塗り固められた碁盤の目のような通りを行き交っていた。

 周囲に興味がありそうな人など存在していない。誰も彼もがあくせくしている。

 おまけにこんなに人の話し声が聞こえない場所なのに、車や電車や工事音が絶え間なく愛の耳に届き、煩わしい。


 それもまた、愛が東京に馴染めない理由の一つだった。


 地元ではもっと時間の流れがゆっくりしていた。こんな風に、人までもがコンクリートのように無機質で冷たくはなかった。そして聞こえる音といえば虫の鳴く声、風が田んぼの稲を揺らす音、畑を刈り入れるトラクターの音などで、そこにはもっと生物の息遣いが感じられたのだ。


「…………」


 東京都中央区日本橋に存在する、聖フェリシア女学院に通う高校二年生。それが江藤愛である。

 聖フェリシア女学院といえば、女子校御三家の一つに挙げられる由緒正しき高校である。

 清楚、清廉、潔白を学校理念に掲げたこの高校は偏差値の高さはもちろんのこと、通う生徒たちの振る舞いがお上品であることも有名だ。

 生徒は皆一度も染めたことのない艶やかな黒髪をしており、学校指定のブレザー制服を楚々と着こなし、そして嫌味のない薄くナチュラルな化粧をしている。


 聖フェリシア女学院は近隣の超高層タワーマンションに住まう人々の憧れの的であり、「うちの娘は聖フェリシアに通っているのよ」なんていえばご近所に鼻が高く、「俺の彼女、聖フェリシアに通ってんだよね」といえば友人に羨ましがられる、そんな高校である。

 そんな高校に、何をまかり間違ったのか、三月まで岡山の辺鄙など田舎に住んでいた愛は通うことになってしまった。


 思い返せば、父の異動がきっかけであった。

 東京本社に異動が決まった父に、当然ながら家族でついていくこととなり、愛は高校を転校することになった。

 しかし東京というのはとかく高校の数が多い。何が何だかわからないほど膨大な高校の数に、父も母も愛も目を回しながら高校案内の本を捲った。

 愛の今現在通っている高校と同レベルの偏差値の学校に絞り、その中でも校風や雰囲気などが良さげなところを探す。実際に見に行ければよかったのだが、あいにくそんな時間はなかった。


 そして目についたのが、聖フェリシア女学院である。

 謳い文句は「清らかな人物であれ」。

 HPに書かれている内容は、伝統を重んじ、学業を通じて世界を学び、日々の生活にメリハリを持たせ、より良い人生を送るための清らかな人物に育て上げる、というわかるようなわからないようなものであった。

 しかしこの時、江藤家の三人は舞い上がっていた。

 HPには西洋風の建築の学校の写真が掲載されており、教室で勉強する生徒たちの姿や、昼休みにおしゃべりしながらくつろぐ姿、放課後に部活に励む姿などありのままの学校生活が写し出されていた。

 なんておしゃれな学校なのだろう。

 場所も、東京都中央区日本橋という、これまた東京の中心ともいえる場所である。

 父の職場にも近く、何かあったら連絡も取りやすい。

 どうせ東京に行くのだ、思いっきり都会らしい高校に行こう!

 テンションの上がっていた江藤家の食卓ではそう結論がなされ、編入試験を受け、愛は無事に試験に合格した。


 そして三月に引っ越しを済ませ、四月から通い始め、通って一週間で愛は高校選びに失敗したと思った。

 まず、会話についていけない。

 生徒たちは皆、洗練されたハイソなお育ちである。やれどこどこのオーケストラの演奏会に行っただの、秋物の衣服の高級ブランド展示会に一足先に行ってきただの、両親と誕生日記念にシャングリラホテルのレストランでディナーをしただの、そんな話ばかりなのだ。

 愛は、もっと早くに気がつくべきであった。

 何せ皇族の方々も通うという高校である。こうなることは目に見えていたのだ。

 高校帰りに彼女らに誘われる場所は、最近オープンしたばかりの妙に値段が張るパンケーキの店だったり、皇居が見えるオープンテラスのカフェであったり、あるいはアフタヌーンティーを提供する高級ホテルのロビーだったりする。そんな場所、高校生が学校帰りに寄る場所ではない。

 愛が知っている高校生の放課後といえば、学校にある自販機でペットボトルを一本買って空いている教室でいつまでも喋っているか、市内に一軒しかないコンビニ跡地にオープンしたクレープ屋に寄ったり、もしくは地域密着の酒屋でおばちゃんが作った手作りのまんじゅうを食べたり、そんなものだ。


「あぁ……岡山の山と田んぼとあぜ道が恋しい」


 盛大なため息と共にそんな言葉が吐き出された。

 切実な本音である。

 トボトボとアスファルトの上を歩きながら、一人寂しい放課後にどう時間を潰そうかと考える。

 六月、梅雨真っ只中の頃合い。雨のせいで気分がますます落ち込む。

 東京では、雨が降っても土の匂いがしないんだなぁと思った。

 愛の地元では、雨が降ると必ず泥混じりの土の匂いと、近くの山のけぶるような緑の匂いがしたものだが。ここでするのは車の排気ガスの臭いだけだ。

 最初はテンションの上がった「ザ・東京!」といった高層ビルたちも、慣れてしまえば圧迫感のあるただの無機質な鉄筋コンクリートの塊だ。この中にどんな最先端のお店が入っていようが、愛には無関係な話である。

 何せおしゃれな店というのは、食べ物も洋服も一様に高いということを、愛は東京に来てからの二ヶ月で嫌というほど学んだ。

 おまけにここは日本橋。基本的にビジネス街で、よって立ち並ぶ店もビジネスマンをターゲットにしている。愛のような平凡なる高校生が入っていい店なんて、せいぜいスタバくらいなものである。

 それにしても。


「ケーキセットで二千五百円って、何なんだろ」


 道に溜まった水を蹴り上げながら一人愚痴をこぼす。最初にクラスメートと一緒に行った店の値段である。冗談かと思った。目玉が飛び出るその値段にぶったまげていたのは、愛だけだった。ある者は首を傾げ、ある者は意地悪そうに笑いながら愛を見ていた。

 その時、愛は知ったのだ。

 この学校には、二種類の人間がいる。

 すなわち、一般家庭とは価値観の異なる場所で育った生粋のお嬢様と、一般的な基準を知りつつもあえて愛を高級店に誘った底意地の悪いお嬢様だ。

 愛のことを笑ったお嬢様は、続けてこう言った。


『ねえ、愛ちゃん。岡山県って何があるの? 桃太郎?』


 とんでもない偏見である。つまり彼女たちにとって愛とは、見下して小馬鹿にする対象なのだ。愛は顔から火が出るくらいの恥をかいた。二千五百円もするケーキセットは、味なんて全くわからなかった。愛は大金をドブに捨てたも同然だった。


「…………」


 聖フェリシア女学院の洗礼を受けた愛は、それ以来親しい友人の一人もできず、学校でも放課後でも寂しく過ごしている。青春が台無しである。

 鬱々とした雨の中、高層ビル群の間を歩いていると気持ちがどんどんと落ち込んでいく。何かパーっと美味しいものでも食べたい気分だが、どのお店も敷居が高すぎて入れない。

 こんなにたくさんのお店があるのに、愛の居場所はどこにもなかった。

 せめてマックでもあればなあと思う。

 高校生の強い味方、マクドナルドすらここには存在しないのだ。完全にアウェーだ。

 愛は学校から東京駅までの短い道のりをとぼとぼと歩いた。

 最寄駅は日本橋なのだが、乗り換えが面倒なので愛はいつも東京駅を使っている。

 なにせ東京という場所は、少し歩けば駅がある。こんなに必要? と愛は常々疑問に思っていた。ちょっと駅を作りすぎだろう。

 日本橋駅から東京駅までなんて、四百メートルくらいしかない。

 はじめて東京駅を降りて学校に行く途中、超近距離に大手町駅と日本橋駅に続く地下通路を見つけて目を丸くしたものだ。


「はぁ……」


 愛は今、日本橋駅の裏にあたるさくら通りを歩いていた。ここは界隈でも比較的小さなビル(といっても四階建て以上)が並んでいて、周囲に比べると雑多な場所である。

 アスファルトをたたきつける雨を見つめながら歩く。初めのうちは故郷とまるで異なる日本橋という場所に圧倒され、ずっと見上げていた。人も、車も、駅の数も。全てが別格だった。

 しかしいつしか、数多のビジネスマンと同じく下ばかり見るようになった。東京という場所は、人をうつむき加減にさせる魔力を持っている。高層ビルに圧迫されて、見えない手で押さえつけられて、下を見るように人間に強要しているのでは無いだろうか。


 ふと、アスファルトを見つめ続ける愛の視界の端に、立派なビルとビルの間に隠れるようにして存在する小さな道が見えた。その道は、この日本橋という場所におおよそふさわしくないように見える。理路整然とした街並みが広がる中、未だ退去に反対する住民でも住んでいるのだろうか。薄汚れた二階建ての雑居ビルが数軒、剥き出しの室外機を壁に貼り付けて建っていた。

 だが、今の愛の目にはむしろ好印象に映る。

 何もかもが立派すぎる場所にぽつんと存在する雑居ビル群は、まるで聖フェリシア女学院に紛れ込んだ愛のようだった。

 気の向くままに小道へ足を運ぶと、すぐに一軒の喫茶店に出会う。

 喫茶店は、まるで時代が止まっているかのような佇まいで存在していた。

 茶褐色の煉瓦造り風の店は、扉の上にくすんだ赤い半円形のひさしがかけられている。店横の花壇には日々草と金魚草が寄せ植えされており、雨に打たれて花びらを湿らせていた。

 ガラスのショーケースの中にはメニューのサンプルが並んでいる。

 卵とツナのミックスサンド、ケチャップのかかったオムライス、銀の皿に載ったナポリタン、エビの入ったピラフ、さくらんぼつきのクリームソーダ、チョコパフェ、コーヒー、ココア、紅茶。


「へぇ」


 愛は感心して声を漏らした。

 こうした類の喫茶店は愛の地元の繁華街にあったけれど、東京で見るのは初めてだった。

 何せこの大都会ではおしゃれカフェは山のように見かけるが、喫茶店は存在しないのだ。

 愛はまるで、絶滅危惧種の珍獣でも発見したかのような気分になった。同時に入ってみたい気持ちになる。

 よし、と愛は小さく気合を入れて扉を押し開けた。

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