第3話 ヤニ中毒の大学生と冷コー
東京都港区に存在している慶應義塾大学薬学部に通う大学二年生だ。
別に大学に行きたくて行っているわけではない。親に「大学くらい行け」と言われたので、適当に勉強し、適当に受験して、そして合格したのが慶應義塾大学の薬学部だったというだけだ。
なぜ慶應義塾大学の薬学部を選んだのかといえば、壁に全国の大学学部一覧表を貼り、ダーツが刺さったのがたまたまそこだったからだ。それ以上の理由なんてどこにも存在しない。
しかし適当に受験したのがいけなかった。おぼっちゃまばかりが通うこのエリート大学において、大吉の居場所などどこにもなかった。
慶應義塾大学といえば、天下に名高い有名私立大学。
通う学生たちは、まあ今時ガリ勉眼鏡の地味野郎というのは絶滅危惧種であるが、そこそこにお洒落で、垢抜けており、こざっぱりとした好青年ばかりである。あるいは清楚な雰囲気漂う女子大生か。ご近所の有名私立高校、聖フェリシア女学院とかいう高校出身のお嬢様も多く通っているらしい。
彼らは酒をほどほど、喫煙はほぼせず、大体は健全な大学生活を送っている。
己とは人種が違うと思ったが、だからと言って構内で浮いた存在であることを思い悩んだりクヨクヨしたりしたことは一度もない。そうした煩わしい人間関係で悩むのは性に合わない。
「大吉の居場所がどこにもない」というのは、もっと切実とした理由からだった。
大吉はタバコに火をつけて深く吸い込み、肺の中を煙で満たしてからふうーっと吐き出した。
大吉以外誰も来ていない、古ぼけた喫茶店の中に煙が充満している。これで三本目のタバコであった。
「あぁータバコ最高」
心の底からそう言った。
大吉はニコチン愛好家である。これが誰の影響なのかといえば、地元大阪に残してきた親友の影響だ。
おかげさまで大吉は高校時代にタバコに手を出し、立派な愛煙家となった。
しかし今の時代、喫煙者にとっては生きにくい世の中である。東京都心は特に。
薬学部の存在する共立キャンパスは全面禁煙であり、キャンパス周囲にもタバコを吸えるような場所は存在しない。
一時間に一本はタバコを吸わないと禁断症状に陥る大吉にとってこれは由々しき問題だった。
そんなわけで、タバコが吸えない慶應義塾大学薬学部共立キャンパスに大吉の居場所はどこにもなかった。
山のように存在する周りの飲食店も、したり顔で禁煙の紙を誇らしげに貼っている。もしくは貼ってすらいないのだ。一縷の希望をかけて「タバコ吸えますか?」と聞けば、「は? 当然禁煙ですけど、何か?」みたいな顔をされるのだ。
大吉の愛するタバコは、駅の狭苦しい喫煙ブースでしか役目を果たせない。
しかし大吉はもっとゆっくりとニコチンを味わいたかった。できればコーヒーでも飲みながら、席に座って腰を落ち着け、ゆったりした気持ちでタバコを味わいたいのである。
そんな時に見つけたのが、日本橋に存在するとある一軒の喫茶店だった。
キャンパスの存在する港区の芝公園から中央区の日本橋までは、割と近い。歩いて行ける。
大吉がタバコの吸える場所を求めてゾンビの如く都心の街中をうろついている最中、彼の中の眠れる喫煙センサーが反応した。本能の赴くままに足を向けてたどり着いた場所は、日本橋という場所にふさわしくない雑居ビルがひしめく小道だった。
そのビルの一階に存在している喫茶店こそが、大吉の探し求めていた理想郷であった。
まるで六十年前から時間が進んでいないかのような、見た目も中身も時代遅れな店の中。テーブルの上には当たり前のように灰皿が置いてある。大吉は内心で小躍りをして、いそいそとタバコを取り出し、ライターで火をつけた。店員は咎めなかった。
その日から大吉の喫茶店通いが始まった。
大学に行く前に。講義の合間を縫って。一日の終わりに。
大体一日に二回、多い時は四回ほど顔を出すようになった。
「お客様、何か追加でご注文されますか?」
「ああ、じゃあ、
「かしこまりました」
こうして接客をするのが灰色の縞猫であるというのはまあ少し気掛かりではあるが、大した問題ではない。大事なのは喫煙可かどうか。その一点のみなのだ。
大吉にとって世界とは二つに分類される。
すなわち、タバコかそれ以外か。
なので店員がねこであろうとも一向に構わない。
「お待たせいたしました、アイスコーヒーです」
「ああ」
それに、ねこ店員は大吉の発する「冷コー」という注文を聞き返したり変な顔をすることなく、「かしこまりました」と言ってアイスコーヒーを持ってきてくれる。これは非常に喜ばしい。
今までは「冷コー」と言おうものならば、「はい?」と聞き返されるか、「申し訳ありませんが、当店に置いておりません」と言われるかの二択だった。なぜ、地元大阪の新世界では通じる言葉が東京では通じないのか、大吉には意味がわからなかった。「冷コー」といえば冷たいコーヒーのことだろう。置いてないコーヒー店などあるはずがない。そんなものはもはや、コーヒー店を名乗る資格すらない。
仕方がないので「アイスコーヒー」と言うようになったのだが、「アイスコーヒー」なんて言葉、違和感以外のなにものでもなかった。なんだアイスコーヒーって。冷たいコーヒーなんだから冷コーだろうがよ。マクドナルドがマクドであるのと同じくらい、自明の理である。
そんな大吉の魂の叫びが届いたのか、ねこ店員は一度も聞き返すことなく冷たいコーヒーを持ってきてくれた。奇跡の出会いである。神は大吉に、ようやく居場所を与えたもうたのだ。
苦味の強いアイスコーヒーを味わい、タバコを思う存分に吸った大吉は、そんな風に思うのだった。
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