第2話

<随分と慌てん坊だね、あの子。>

[はい、そうですね利用者。]

 人工声帯で喋るヘッドホンの少女の声にヘッドホンが合成音声で返答した。

 既にヒトグマだった少女の死体から剥ぎ取る物は剥ぎ取った。所持金は少なかったが比較的裕福な子に擬態したヒトグマだったらしく財布はブランド品。メルカリで売るか、と思いつつヘッドホンの少女は二本の橋がかかっている川を見下ろす。素晴らしい自治体だ。だからこそ掃除が必要。

<奴等を消して故郷を純化しよう。そして私も消えよう。>

[はい。とても素晴らしいです、利用者。]

 ヘッドホンの少女は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。自然に飲み込まれる寸前の田舎の中の田舎特有の新鮮な空気が肺を洗った。そして膝を折って両足に力を込め、そこだけヒトグマのそれに部分変身し、思いっきり脚を伸ばした。彼女の身体は山中の公園から木々の生い茂る斜面の上の宙へと勢いよく打ち出された。なんら推進装置を積まないただの落下。だが地面の後方への蹴り出しの力が強過ぎた為十分な横方向への運動エネルギーを獲得し、斜面に生えている木々の上端にぎりぎり触れずに落下し続ける。

<全てを純化してやる。綺麗さっぱり異物を一つ残らず掃除してやる。>

 ヘッドホンの少女の身体は足から徐々に上へと膨れ上がりながら剛毛に覆われ、そして彼女は空中でヒトグマに変じた。

 そうする事で全ては洗浄される。自分も、故郷も。だからそうしなければいけない。それ以外に手段は無い。

 断じて言い聞かせ等ではない、とヘッドホンの少女は自身に言い聞かせた。


 2023年3月2日。

 モノクルの少女は自分以外誰も居ない自宅の客間で目を覚ました。自室はもう自室として使っていない。お客様達が使っていた馴染みの無い部屋こそ人間でなくなった自分にはふさわしい。

 そんな事を心中で言い聞かせても心臓の拍動はまだ激しさを僅かに残している。

 何故謝った。

 謝罪というのは他者に迷惑をかけた場合にすべきと思われがちだが、正確には『他者が謝罪される場面であると認識している場合』にのみ有効なのだ。何一つ気にする事が無ければ謝罪された事に他者は困惑する。場合によっては謝罪させるような圧力を自分はかけてしまったのではないのかという罪悪感を他者に引き起こさせてしまう。

 自分は何て事をしてしまったんだと深い後悔の念で胸を痛めながらモノクルを右目にかけて少女は立ち上がる。

 最後にシャワーを浴びたのは一体いつだろう。覚えていない。どういう訳かヒトグマに変身する能力を得てから肉体の汚れどころか衣服の汚れも一つも付着しなくなっている為シャワーを浴びる必要はどこにもないのだが、浴びたい。だが両親は既にどこかに消えて水道代の支払いが可能な程の金銭を自分は所持していない。一線を越えたヒトグマだけを狩って所持金を奪う生活をしているのだから当然なのだが。

 身も心も洗い流せないまま庭へと移動し、罠にかかった狸をナイフで刺し殺す。ヒトグマになってからというもの食生活が熊のそれに近付いたのかタンパク質を多量に摂取しないと気が済まなくなった。

[現在午前7時。]

 アラーム音と共にチャットボットによる時刻通知がモノクルの左側に表示される。すぐにアイジェスチャーでそれらを消して解体した狸の肉を簡易的な焚き火台で炙る。

 自分がしている事と言えば原始人まがいの殺生と調理ぐらいなものだ、と少女は心中で自虐する。

 チャットボットによる体調管理が無ければあの時自分はあの事故で死んでいたはずだ。だから実質的に自分はあの時死んだ。名前は要らない。家も要らない。誰かの為に戦う必要も無い。でもそうやって何もかも諦めて否定し続けた人生だから何も残ってないのだ。多分これからもずっと。

 火の通りは不十分だが串の端を掴んで少女は狸肉を食べようとする。チャットボットが寄生虫等の警告文を表示するが視線でレンズ外に追いやりかぶりつく。

 口内に焼けた肉と生肉の入り混じった感触が広がっていく。美味しくないが、これでいい。不快な情報を摂取する事でその情報に対する嫌悪感で思考がいっぱいになる。忘れたい時にはこうしなければやってられない。

 三十分程かけてひたすら咀嚼を続けて食べ終えると、狸肉の残骸や骨を集めて複数のペットボトル製の罠の中に細かく小分けした。これを川に放り投げて魚を取る。

 こんな生活は7歳の少女である彼女は本来ならば天地がひっくり返ってもする事は無かったし、したいと思ってしている事でもない。他に思いつかなかっただけだ。

 チャットボットは提案してくれるのは極めて道徳的な案だけ。それでも事情を説明して手順を教えてくれと頭を垂れれば原始人のような生活の仕方を説いてくれる。だからこの惨状はチャットボットのせいではなく指示を仰いだ自分のせいなのだと少女は言い聞かせながら川へと歩いていき、紐で繋いだ罠達を水面に放り投げた。

 いつまでこうしていればいいのか。

 人生の出口戦略を失い、されど進み続けるしかない現状に鬱屈としながらもそれでも少女は歩き始める。ヒトグマ達を今日も狩らなければいけない。

 

 死体が見つかった。小学生の女の子だったらしい。隣町に買い物に行くと言って財布を持って家を出た後、山中の公園で無惨な姿で発見されたとの事。

 その知らせを聞いた市街地の人達は緊急会合を開いており、家から出るなと言われた子供達は事情もわからず退屈をしていた。

「で、結局誰なんだその死んだ子っていうのは。」

 スカートを履いた少女が言う。それに対しポニーテールの女の子はこう返した。

「知らない。でも家族の人達が凄い泣き叫んでいたのは聞こえたけど。」

 彼女達の会話は本来聞こえないはずだ。何故なら家の中に居るから。しかしヒトグマ由来の圧倒的聴覚を持っているモノクルの少女には痛い程よく聞こえる。部分変身の一種で聴覚だけがヒトグマになっているのだ。変わって欲しい部分は変わらず変わって欲しくない部分は変わる。まるで私の人生みたいだな、と思いながらモノクルの少女は歩道を歩き続け、そして足を止めた。

<私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない私のせいじゃない。>

 合成音声の発声装置で何度も自分に言い聞かせながら、しかし逃げる事無く彼女はその場に立ち尽くした。聞こえてきたのは遺族の物と思われる声。理解した。したくなかった。聞きたくなかった。

 心臓の鼓動が早まり、胸が締め付けられるように痛くなり、我慢の限界に達し、翻って帰ろうとしたその直後、音が聞こえた。

 水面を大きく叩く音だ。レンズの電探が示す生体反応は人間のそれより大きくヒトグマだと一目でわかる。

 即座にモノクルの少女はヒトグマへと変身し、下り坂を一気に駆け抜け、カーブで曲がらず、ガードレールを飛び越えて川面に着地した。

 凄まじい水しぶきの向こう側、彼女の視界が捉えたのは三体のヒトグマだった。

 ヒトグマは徒党を組まない。それが今までモノクルの少女が観察してきたヒトグマの習性である。

 環境変化の影響か。淘汰圧が変わったからか。昨日のヘッドホン少女との関係性は。そもそも自分の経験則でしかなかった物を信じたのが間違いだったのでは。

 自己否定を含む思考の大波に身体の反応が鈍りながらも、なんとか三体の攻撃を回避し、その背後へと着地。一体目の背中を両手の爪で抉る。しかし浅い。そして即座にそのヒトグマの背中の傷は塞がり、反射的にモノクルの少女は飛び退いた。

 やはり今までのヒトグマとは違う。こんな高い再生能力は存在しなかった。

 別種なのか。突然変異体か。

 先頭の一体が、川底を蹴ってモノクルの少女へと迫る。反応が遅れた彼女は敵の巨大な爪を腹部に受けてしまった。


 両親のあの目を覚えている。いつの頃からは忘れたが、という飾りの言葉はスマートモノクルの自動記録が消し飛ばした。そうだ、あれは自分がモノクルを初めて着用した日からだった。異物を見る怯えた目。血の繋がりのある実の娘の自分を、何故か両親はあの日を境に嫌い始めた。何故か。よくそんな事が言えるな。本当はわかっているはずだ。わかっていたから必死に謝ったのだろう。わかっていたから両親が居なくなって安心したのだろう。

 黙れ。

 何を黙れというのだ。お前にとって都合の良い状況が現状だ。喜べよ。お前は今、言い訳の余地無く正しいのだ。


 激痛がモノクルの少女の意識を現実へと引き戻す。彼女はヒトグマの姿のまま川底を削るように凄まじい勢いで後退した。そして自分を睨みつけている三体のヒトグマを睨み返す。こちらに攻撃を仕掛けてきた一体には反撃で損傷を与えた。手応えはあった。にもかかわらずにそいつには全く傷が無い。凄まじい再生能力。一体だけならばまだ良い。だが三体となると完全に勝ち目が無い。

 では後退するか。それによって失われる人命はいくつだ。敵前逃亡が許されると思っているのか。犠牲者達の遺族への謝罪はどうする。

 少しでも思考する余地を与えると否定的な思考が波となって押し寄せる。その一瞬の遅れを、敵は見逃さなかった。

 三体の内一体が大きく右腕を振り下ろした。その瞬間、そいつの右手が右腕から離れ、双方の間には無数の血管や筋繊維が細く伸び、まるで有線式であるかのような重力加速度を無視した動きでそいつの右手はモノクルの少女の眼前にまで迫った。反射的にそれを右手で弾き飛ばしたが、がら空きになった彼女の胴体に、もう一体の両肩の開口部から放たれた生体砲弾が直撃し、破裂する。

 衝撃で後方へと吹っ飛び、川の中へと落下した。起き上がった時には、既に頭上で敵の爪が振り下ろされる寸前だった。

 だが、振り下ろされなかった。突如として出現した横方向からの衝撃により、敵の身体が吹っ飛んだからだ。

[左十メートルにヒトグマの生体反応あり。]

 ヒトグマに変身した状態でも原理不明ではあるがいつもスマートモノクルの機能は稼働する。

 痛みをこらえながらモノクルの少女が立ち上がると、そこには見た事も無いヒトグマが立っていた。

 まるで鎧武者を思わせる見るからに硬そうな頑強な皮膚。右手の爪は大きく発達しており30cm近い。左手は最早左手ではなく肘から先は熊の歯が無数に連なった弯刀のようになっている。

 モノクルの少女は思わず呟いた。

<ヒトグマ、なのか。>

 その声をその何者かは聞き逃さなかった。

<ヒトグマか。いいね、それ採用。>

 それを聞いた瞬間、モノクルの少女の体力が限界に達し、ヒトグマの姿から少女の姿へと戻った。そして一瞬遅れてスマートモノクルが正体不明の四体目のヒトグマの声が以前に遭遇したヘッドホンの少女のそれであるという分析結果を伝えるが、それを視認する事は出来なかった。何故なら圧倒的な力に目を奪われていたからだ。

 ヘッドホンの少女のヒトグマは、自身に飛来する有線式の敵の右手を左腕の弯刀で弾き返して跳躍。自身の右手で敵の右手を掴み、空中で身を丸めて後方に高速回転した。するとそれに体繊維が巻き取られ敵のヒトグマの本体が空中へと持ち上がり、高速回転しているヘッドホンの少女の左腕の弯刀に吸い込まれるように接近し、そして両断された。

 両肩に開口部を持つヒトグマは地上からヘッドホンの少女を狙い撃つがヘッドホンの少女は回転しながら真下に落下。川面に激突して凄まじい水しぶきをあげたかと思うとその回転力を維持したまま敵のヒトグマへと一直線に衝突。あまりの運動エネルギーの大きさに敵の身体は耐えきれず一瞬で血肉が霧となって散った。

 血生臭い匂いがあたり一面に充満しする。赤い霧が晴れた時には倒れている最後の一体の前にヘッドホンの少女のヒトグマが立っており、敵の胸部に左腕の弯刀を突き刺した。

 三体を倒すのに5分も要していない。

 モノクルの少女は一連の流れるような討伐劇にただただ圧倒されて立ち尽くしていた。だから最後の一体がヒトグマの死体から少女の死体になっても、ヘッドホンの少女がヒトグマから少女になっても、一切動く事が出来ず、彼女が眼の前までやってきて不思議そうな顔で此方を覗き込んで初めて状況を理解した。

 この少女は以前山中の公園で出会った少女で自分を助けてくれた恩人で今再び自分を助けてくれた訳でつまり今度こそお礼を

<なんで昨日私に謝ったのかな。>

 ――先手を打たれた。

 ヘッドホンの少女の純真な質問にモノクルの少女は黙るしかなかった。だって言える訳がない。自分でもよくわからないのだから。助けてもらったのに謝った事についての説明が『よくわかりませんでした。』なんて絶対駄目だ。

 頭の中でどう返答すべきかいくら考えても答えは出ない。マフラーの合成音声は自分の声であっても自分の声ではない。自分が答えを出さなければこのまま、いや違う。

 アイジェスチャーを用いてスマートモノクルのチャットボットを呼び出し入力欄にヘッドホンの少女の質問をコピー&ペースト。改行して質問文とこれまでの経緯と説明を入力して出力した文を合成音声に読み上げさせれば――

<チャットボット抜きで話そうよ。人間の言葉でさ。>

 パススルーモードのスマートモノクルのレンズがヘッドホンの少女の手で覆われた事でチャットボットのユーザーインターフェイスが完全に闇に隠れて不可視となってしまった。自動ダークモードを設定し忘れていたのが命取りとなった。

 取り上げられた。取り上げられてしまった。

 文字通りの意味で完全に言葉を失った。

 こうしてモノクルの少女にとっての最悪の一日が始まった。心臓の鼓動は人生で一番激しくなっていた。

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