屠熊戦記

中野ギュメ

第1話

 そのどこから来たのかよくわからない少女は長々と講釈を述べた後に結論だと言わんばかりにこう続けた。

「要するに私達お子様は可愛くても可愛くなくても大体可愛いって言ってもらえる。一人の人間として見られているのではなく大雑把な子供というぼやけた輪郭だけを見てもらっている訳だ。じゃあぼやけた輪郭が明確になって成長した大人になって可愛いって言ってもらえなかったら、今度はなんと言ってもらうべきなんだ。」

 その質問に答えられなかった。あれから一年、ずっと返答出来ずじまいだ。


 2023年3月1日、田舎である山形県の中の更に田舎の自治体。人口一万人には程遠いそこの山中の公園に一人の異様な風体の少女が居た。

 もふもふした防寒着の上から首の位置に巻かれた無数のマフラー。大きめのフードの中には普通のモノクルにしか見えないスマートデバイスを右目にかけた幼い顔。足には見るからに体格に合っていない大きめの登山靴をゴムバンドと結束バンドで無理矢理脱げないように固定している。

 積雪が残雪になり夜の気温も氷点下にならなくなりつつある冬の終わりの寒空の下。中央公園の時計塔が午前九時の鐘を鳴らす。

 その音を遠くに聞きながら目深にフードを被って彼女は山中の公園から川を見下ろす。現在は二本の橋がかかっているが元々は一本だった。老朽化の為新しく橋が建設され、古い方は車両の重量制限がかけられた。少女が生まれる前の話だ。

 橋だけではない。この自治体には少女が生まれる前にあったのに無くなった物や無かったのに今はある物が沢山ある。

 その事実を知って気に病む必要はどこにもないはずだったのに。

<結局私は異物だったな。>

 彼女の肉声ではない。マフラーの内側に装着している発声装置からの合成音声の呟きだ。

 彼女はこの自治体が嫌いだ。大人達は合理性が無くすぐ酒に溺れて無知で愚鈍な振る舞いを披露する。子供達はというと知性の欠片も無く自分と同年代だとは思えない。

 しかしそれで良いのだ。それこそが本来人の有るべき姿であり、彼等に嫌悪感を抱いている自分こそが排斥されるべき異物。そう、彼女は信じ込もうとしていた。そうでなければ辻褄が会わない。

 そして彼女のその思考を補強する現実は実在する。

[接近する人体一つ。]

 その文字と共に電探状の生体反応の表示が右目のスマートモノクルに表示され、少女は振り向いた。

 そこに居たのは少女より数歳年上に見える少女であった。便宜上区別の為彼女をヒトグマと呼称する、とモノクルの少女は内心で呟いた。そして一瞬後に便宜上は便宜上である必要が無くなった。

 年上の少女の身体が膨れ上がり衣服ごと変色したかと思えばすぐに全身が毛だらけになった。口からは上下が噛み合わない無数の牙が乱雑に生え並び両手の指からは巨大な鋭い爪が飛び出した。目からは瞳が消滅し全体が白濁ではない純白一色へと転じた。一見熊を思わせる姿だが、熊と異なりその骨格が人間のそれと酷似している事が一目でわかる体格だった。

 故にヒトグマ。少女はそう名付けた。

 ヒトグマは凄まじい勢いで地面を蹴り、少女へと迫る。走ったのではない。一度地面を蹴っただけで十メートル以上ある両者間の距離を一瞬で詰めたのだ。超低空飛行とでも言うべきその歩法を少女は瞬きせずに目におさめ、そして次の瞬間、一体だけだったはずのヒトグマが二体に増えた。

 年上の少女同様に身体を変化させ、ヒトグマへと変化した少女は敵のヒトグマが突き出した右腕の内側に自分の左腕を当てて押しのけ、そして迫る敵の胴体中央部に右手を真正面から突き出し、爪を深々と突き刺した。即座に捻る。肉を抉る感触を右腕全体で感じながら、少女は人の声でも熊の鳴き声でもない不快な絶叫を敵のヒトグマの口から聞く。

 激痛で敵のヒトグマは即座に飛び退き、少女に背を向ける。だが少女は見逃さない。だって見逃せば本当に自分には何も残らないから。

 胸部から大量の血液を垂れ流しながら前を走るヒトグマ。そいつと同じ速度で走りながら少女はヒトグマの背中を両手の鋭い爪で何度も切り刻む。脊椎動物の急所の一つである背骨は前方よりも後方の方が身体の外部に近い。すなわち装甲代わりとなる肉が薄い。そして更に大激痛を与えれば本気で暴れまわる為、このように徐々に削って逃げる事を優先させる方が良い。それがこれまで何体ものヒトグマを屠った少女の経験則だった。

 ヒトグマが元居た場所を追い越して15メートル程移動した所で、ヒトグマは肉体の損傷に耐えきれずうつ伏せに倒れた。そしてヒトグマは年上の少女の姿へと戻り、その背中側は服ごと背骨が切り刻まれ、鮮血が地面へと染み出していた。

 人だったのか熊だったのか、そんな事はどうでも良い。どこかで線引きが必要なのだ、と少女は人間態へと戻りながら心の中で自分にそう言い聞かせた。

 モノクルの生体反応が示したのは一つだけだったが、それは少女が明確に気付いた時の物だけだ。履歴を遡るようにアイジェスチャーで指示を出すと、少し前までは二つあった事が判明した。位置は舗装道路を越えた草だらけの斜面を下った先。既に反応が失われているという事は絶命したのだろう。履歴によるとヒトグマは最初そこに居たが、離れて少女の所に来た。そしてその直前にもう一つの生体反応が消えた。大きさから子供だっただろうに。

 弔いはしない。何故なら今の自分は人間ではないから。心中でそう呟きながら絶命した年上の少女の身元を確認しようと死体に手を伸ばしたその時、電探が上方からの生体反応の急速接近を知らせた。

[上方から生]

 遅い。

 一瞬遅れて出てきた警告文を最後まで読まずに少女はその場から飛び退いた。その直後、失われたはずの年上の少女の生体反応が復活。死体だった彼女が起き上がり、そしてヒトグマに戻った。

 初めての状況だった。

 今まではこの手段でヒトグマ達を絶命させてきた。生体反応も完全に失われた。なのにこの状況から復活しただと。

 少女の視線の乱れと異常な心拍数から彼女の心理状況を察したスマートモノクルは次から次へと現状への推測を文で表示するが、その全てを少女は無視した。何故なら、上方から降ってきた奴に目を奪われたからだ。

 そいつも異様な風体の少女であった。明らかに大人向けの大き過ぎるヘッドホンを頭に付け、袖余りの上着に上半身を埋没させ、腹部から下にフリル付きのロングスカートを舞わせている。どう見ても田舎の山形県民ではない異質な風体。

 似ても似つかぬがそれでも呟かずにはいられなかった。

<まるで私。>

 合成音声のその呟きに気付いたヘッドホンの少女は、モノクルの少女の方を見て笑ってみせながらこう告げた。

<もしかして、同類さん?>

 その言葉をモノクルの少女の脳が咀嚼し終わるのはとても遅かった。何故なら彼女の思考は混乱しきっていたからだ。

 見られた。一体いつから。上方から落下という事は木の上。監視されていた。だが落下開始まで反応は無かった。こちらが生体反応探知装置を持っていると知っていた。だとするならば敵か。ただの人間だとするならばヒトグマを見たのか。見ていないならば私と死体の少女の二人を見たのか事情を知らない奴が。通報される。警察沙汰。消すべ

 きか、と続くはずだったモノクルの少女の思考はそこで強制的に中断された。

 ヘッドホンの少女の後ろで立ち上がったヒトグマ。その腹部にヘッドホンの少女は振り向きもせずに右手を突き刺し、文字表記が困難な絶叫が響いた。

 そしてヒトグマは今度こそ絶命し、倒れて年上の少女の死体に戻った。

[警告。前方の少女は人間ではない。]

 スマートモノクルの警告文に見ればわかる、と心中で呟く余裕はモノクルの少女には無かった。

 ヒトグマを殺した。じゃあ味方なのか。変身せずに素手で殺した。いや違う。右手だけがヒトグマになってる。私が習得しようとして出来なかった部分変身。じゃあ私より長いのか。ならなんで今まで遭遇しなかった。意図は。目的は。何故今になって接触し

 そこまで考えて、モノクルの少女の脳はようやく先のヘッドホンの少女の発言を咀嚼し終えた。

<もしかして、同類さん?>

 モノクルの少女は立ち尽くした。

 自分は何を考えている。相手はヒトグマを殺した。起き上がろうとしたヒトグマを。此方の戦闘経験を知らないのであれば襲われていると思っても不思議ではない。だから助力してくれた。味方だと考えるのが自然だ。それなのに自分は彼女にどんな思考を向けた。消すべきだと思わなかったか。意図や目的を探ろうとしていなかったか。

 強烈な自己否定の念がモノクルの少女の脳内を支配する。だから彼女はヘッドホンの少女が目の前まで近付いても何も言葉を発せなかった。

 そして心配そうな顔でモノクルの少女の顔を覗き込みながら、ヘッドホンの少女が呟いた。

<大丈夫?怪我は無い?>

 その一言がモノクルの少女の思考への致命傷となった。

 お礼を言わなきゃお礼を言わなきゃお礼を言わなきゃお礼を言わなきゃお礼を言わなきゃお礼を言わなきゃ。

 だが彼女の発声装置が出した声は礼ではなかった。

 長い沈黙の後、マフラーに隠れた機械が小さく呟いた。

<ごめんなさい。>

 その直後、モノクルの少女は、ヒトグマの姿となって即座にその場から走り去った。

 何故お礼を言えなかった相手は命の恩人だ自分にとって無用な助力であっても相手はそう思っていない可能性があるなのに自分の事ばかり考えて相手を消すとか意図とか目的とか何故今まで接触してこなかったとかお前は一体今までどんな生き方をしてきたのだ。

 自分の中の自分からの不可避の口撃に胸部の痛みを覚えながらそれでも必死に逃げ続けるモノクルのの少女。

 誰も居ない無人の我が家に帰った後は玄関の施錠もせずに彼女は布団の中で一人の少女に戻り声も涙も出さずに、訳も分からず泣き散らした。

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