3月5日 春と頭痛と不平等


 私は頭痛持ちだ。主に偏頭痛、時々緊張性頭痛。月に少なくとも3〜5度は、痛みに顔をしかめている。

 今日も、昨晩から続く頭痛が、全くおさまらずに困っている。


 頭痛に加えて色々と不調の多い肉体で、1年を通して「今日は体調が万全!」という日はあまりない。成人する年齢になってようやく、「どうやら普通は、週のうち半分はお腹か頭が痛いなんてことはないらしい」と知ったときは、信じられない思いだった。


 時々、考えることがある。もし頭痛持ちではなかったら、私の人生はどうなっていただろうか。

 休日をずっと布団の中で過ごすということもなく、もっと小説を書けていただろうか。絶対に体調が悪くなるからと敬遠しがちな旅行にも、もっと行っていただろうか。

 考えても仕方がないことではあるが、つい考えてしまう。特に、今日のような天気の良い春の日には。

 本当は、散歩に出たかったのにな。あーあ。というふうに。



 世界というのは、そもそも不平等だ。生まれた国、人種、性別、実家の裕福さ、文化資本に恵まれているかどうか、見た目が好ましいかどうか、持病があるかどうか。皆、大なり小なりの不平等を抱えて、この世に生を受ける。

 その生まれ持った不平等をなるべくフラットにしていこうねというのが、平等大切論の根幹なのだろう。


 とはいえ、恐らくどこまでつきつめても、完璧にフラットにはならないだろうなということくらい、皆きっと気付いている。だから平等を求めながらも、私たちは結局、「自分」を生きていくしかない。



 この世界には、驚くほど多様な生きものが棲んでいる。多様ということは、つまりそれだけ不平等だということだ。スミレも、ツマグロヒョウモンも、杉も、カラスノエンドウも、ナナホシテントウも、マメアブラムシも、それぞれの不平等の中を生きている。

 何ものをも包んでくれそうな春ですら、彼らの上に平等にはふりそそがない。たったひとつの縁石をまたいだだけで、シロイヌナズナを照らす日差しの量は大きく異なる。


 不平等で当たり前。頭痛に文句を言っても仕方がない。窓の外には気持ちのよさそうな春が広がっていて、私は頭痛薬を飲んで呻いているが、私はこういう「私」と上手く付き合っていくしかないのだ。


 なお上手く付き合っていくというのは、「諦めて現状を受け入れる」という意味ではない。「不平等がなんぼのもんじゃい」精神でたくましく生きていく、という意味だ。

 私はそこまで強靭なメンタルは持っていないので、こうしてうじうじとエッセイを書いているわけだが、これもひとつの「不平等への反抗」ということで、許されたいなと思っている。


 許されたい? 誰に?


 ……縁石の陰に根を張ってしまったシロイヌナズナに。


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