第8話 ①

 八月十日 天廷会館




 楓が天廷会の教主となって初めての夏。

 楓は自分なりに考えて数々のイベントを開いていた。

 講演会はもちろんのこと、縁日や特別な修行のコースを行ったりと、活動的だった。

 常に忙しいため、真白はなかなか楓との関係を深められなくなっていた。


「黒倉さん」


 真白は、流石にもう楓との接触でいちいち動揺しなくなっていた。

 だが、心臓の鼓動が速くなるのだけは直らない。


「何だ?」

「その……」


 真白は一度呼吸を整えた。


「……海……」

「海?」

「海の家なんですけど……」

「海の家? 何の話だ?」

「天廷会の系列で、とある海の家があるんですけど……」

「へぇ、初耳だな」

「そこの人出が足りていないという話をお母さんから聞いて……。もし……良ければですけど……。黒倉さん、私と二人で協力しに行きませんか?」


 もちろん建前だ。

 真白は楓と二人で海に行きたいだけだ。


「いいぜ。夏だし、海ってのも悪くないよな!」


 ――よっしゃぁ!

 真白は心の中でガッツポーズした。

 いや、しっかり腕でも小さくガッツポーズさせていた。


 実はこの話、真白の母親からのアシストだった。

 海の家を経営している人物は真白の母親と仲が良く、新しい教主と是非とも直接会いたいということから、真白に二人で行ってみるのはどうかとアドバイスしたのだ。

 真白は口元の緩みを抑えられない。

 ――これで黒倉さんと二人で海水浴……!

 ――フ……フフフ……フヘへへ。

 ――可愛い水着で絶対アピールしてみせる!

 真白は熱く燃え上がった。



 八月十六日 佑大海水浴場




「何故こうなるんですか……」


 真白は嘆いていた。


「教主様! 見て下さい! 砂浜! 砂浜!」


 朱音は砂浜を見ただけではしゃいでいた。


「楓、それじゃあ朱音ちゃんと遊んでくるねー」


 青子は朱音の手を取った。


「真白たーん! 海行こー」


 佐奈はいつもの様に真白に抱き着いた。


「じゃ、俺は仕事してるから。行っておいで、真白」


 楓は一人、海の家の作業に戻っていく。


「……何故……」



 初めは、真白と楓の二人で行く予定だった。

 しかも、人手が足りないというのは後付けの文句だったので、仕事はそんなに無く、海で遊ぶ時間は無数にあった。

 だが、真白が海の家の話をしていたところを、朱音に聞かれてしまった。


「海に……行くんですか?」

「ああ」

「私……海って実際に見たことないです。山も、川も、何も……。……楽しそうですね」

「何なら朱音も来るか?」

「ほあああ!?」


 真白は、声を上げるだけで拒絶できなかった。

 朱音の悲壮感が半端ではなかったからだ。

 そして、運悪くその瞬間に佐奈が現れた。


「真白たん海行くの!? 私も行く!」

「いいぜ、行こう行こう」

「にゃあああ!?」


 朱音が来る以上、もう佐奈を拒絶してもしなくても意味は無い。

 ただ、楓が何の気なしに軽く了承することが、彼女にとって大打撃だった。

 もちろんそんなことはないが、楓が自分と二人きりになるのを嫌がっているように感じ取られるからだ。


 青子と会ったのは海水浴場に来てからのことだ。

 同僚と遊びに来ていた彼女と、偶然顔を合わせた。


「楓? こんなところで会うなんて奇遇だね!」

「お、青子じゃん。際どい水着着てんなー」

「素直に似合ってるって言いなよー」


 笑いながら話す二人の姿に、真白は嫉妬を隠せない。

 それでも、楓と海に来られた事実には変わりない。

 何とか全員を追い払って、楓と二人きりになろうと考える真白だったが、事態は好転しなかった。


「おお、教主様。ようこそお越しくださいました」

「いえいえ。ところで……失礼ですけど、あまり流行っていないようですが……」

「ええ、そうなんですよ。実は、新しい教主様とお会いしたかったというだけで、そこまで切羽詰まってはいなかったもので……。申し訳ありません……」

「ああ、なるほどそういうことですか。お会いできて光栄です」


 楓は閑古鳥の無く海の家の様子を見て、店長と自分の一人だけで回せるのではないかと考えた。


「よし! 三人とも、俺が店長さんを手伝うから、自由に遊びに行っていいよ」

「え!? い、いや、でも……私は……」

「真白たん! それじゃあ早速着替えに行こ―」


 否定した真白を佐奈は強引に連れて行った。

 結局、真白は楓と二人きりになることはできなかった。



 着替えが終わると、三人は楓の前に現れた。

 真白にとって、一番のアピールのタイミングだった。

 だが――。


「佐奈……着やせするタイプだったんだな……」

「え!? 太ってるっていうこと!?」

「いや……胸がね」


 佐奈は楓と青子の一個下。

 しかし楓は、彼女程の大きさの胸を持つ女性は。同い年にすら会ったことはなかった。

 ビキニで胸の目立つ水着だった彼女に、つい初めに目が行ってしまった。

 その時点で、真白は劣等感を抱かざるを得ない。

 ――クソ……私だって……スタイルは悪くないのに……。

 真白は、楓は巨乳の女性がタイプだということを覚えていた。

 彼女もスレンダーなスタイルで決して悪い見た目ではなかったが、楓の好みでないことはわかりきっていた。


「朱音は……」


 佐奈から目を逸らした楓は次に朱音に目が行った。

 それも仕方がない。

 彼女が着ていたのはスクール水着だったからだ。


「ごめんなさい、私、これしか無くて……」

「そっか、いいと思うよ。機能性が優れてるからさ。初めての海なら安全性が大事だろ?」

「教主様……!」


 ――くぅ……コイツッ!

 ――変化球で攻めてくるとはぁ……。

 朱音の水着は本当にそれしかないだけだったが、真白は苛立ちを増すばかり。

 最後に真白に一言言うのかと思ったその時、残念なことに青子がやって来た。


「楓―、折角だし、一緒に遊ばない? ビーチバレーの数合わせにさ」

「あー、わりぃ。俺は仕事してるから、休憩の時な。代わりに三人を連れてってくれ」

「いいの? 三人は」


 真白はそっぽを向いた。

 出来るだけ楓の傍を離れたくなかったからだ。


「真白たん行かないの? じゃあ私は真白たんと一緒―」

「あ、それじゃ……私だけでも……」


 朱音は、表情からはわかりにくいが、初めて海に来てテンションが上がっていた。

 対人関係に恐怖も持っていなかったので、一人でもあっさりと付いて行く。



 そして、全員が分かれた後、真白は佐奈と二人で浜辺に向かった。

 本来の目的を果たすことができず、半ば放心状態の彼女は、強引に連れていかれたのだ。


「真白たーん、追いかけっこしよー。愛する恋人同士の様に!」


 ――恋人……。

 真白は俯くだけだった。

 ――結局、水着も褒めてもらえなかったし……私何しに来たんだろう……。


「真白たーん」


 ――ええい! ネガティブになっても仕方ない!

 ――こうなったら徹底的に遊んでやるぁ!

 真白は完全に投げやりになっていた。

 そして、本気で浜辺を駆けだした。


「真白たん!?」


 佐奈から勢いよく逃げていく。


「よーし! 待てー、私の真白たーん!」


 二人は追いかけっこを始めたが、真白は本気で佐奈を振り切るつもりで駆け続けた。

 彼女の表情は既に『無』だった。

 心を殺して、ただ逃げ続けるだけだった。



 数分後




 朱音は運動神経に難があり、青子に誘われたビーチバレーでは思うように動けなかった。

 青子の同僚達は若い男女が混じった集団だったが、更に若い朱音に対してはかなり気を遣った様子だった。


「朱音ちゃんファイトー」

「朱音ちゃん頑張れー」


 皆が皆、朱音のことを応援していた。

 朱音は何度もボールを追って転び、転ぶたび嬌声を上げた。

 男性陣はスクール水着で動き回る朱音に見とれており、女性陣も必死に取り組む彼女を微笑ましい目で見つめていた。

 しかし、なかなか味方側の力になれずにいると、朱音は次第に曇り始める。


「ごめんなさい、こういうの初めてで……上手くできなくて……」

「気にしない、気にしない。あ、そうだ。朱音ちゃん、海で泳ぎたいんじゃない?」


 青子は、気を遣う素振りを見せないようにしながら、朱音を泳ぎに誘う。


「は、はい! 泳いでみたいです!」

「よし! じゃあ、みんなごめん。朱音ちゃん貰ってくねー」


 青子はビーチバレーを止めて朱音を浜辺に連れていく。

 周囲も朱音と青子に気を遣って、穏やかに『いってらっしゃい』と告げた。



「朱音ちゃん、海初めて?」

「は、はい! 絵とか写真で見ることはありましたけど、実物は初めてです!」

「そっかあ」


 この佑大海水浴場は、朱音や楓たちの住む前林市と、そこまで距離は離れていない。

 青子は彼女が楓や自分の近所に住んでいると予想したため、それなのに海に来たことがないという話を聞いて物珍しく思っていた。


「うわぁ……これが……海……」


 朱音は半身を海に浸けた。

 波は穏やかで、風も強くない。

 非常に過ごしやすい環境だった。


「プールと違うよね!」

「はい! 私……こんなに水に浸かるの、中学校の授業以来です……!」

「え? お風呂とかは?」

「シャワーだけなので……。水道代がもったいないから……」

「そ、そっかぁ……」


 青子は、ここでようやく朱音が貧乏だと気付く。


「私……死ぬまでこういうところ来ると思っていなかったので……本当に嬉しいです! 人と遊ぶのだって初めてのことですし……幸せ過ぎておかしくなりそう……」

「そ、そっかぁ……」


 朱音は目に涙を浮かべていた。

 流石に青子はたじろいでしまう。


「それもこれも、教主様のおかげです! やはり、天廷教は私の救いです!」

「そ、そっかぁ……」


 同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。

 青子は、彼女も信者の一人に過ぎないことを、今更ながら理解した。

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