第6話 ③

 天廷会館




 真白は体操教室を見学していた。

 他にすることもないので仕方なく眺めているようなものだった。

 ――黒倉さん……。

 彼女の頭の中は楓に対する心配で一杯だった。


「大変だー!」


 誰かが突然声を上げた。

 叫んだ男は急いだ様子でホールに入って来た。


「黒倉さんいるか!?」

「え? 私ですか?」


 呼び出されたのが楓の母親だったことで、真白は急いで傍に寄った。

 楓に何かあったのかと思ったからだ。


「一体どうしたんですか?」


 体操をしていた別の婦人が尋ねる。

 同じ様に何人もが集まって、同じ様に尋ねる。

 叫んだ男は急いでいたためか息を切らした所為で呼吸を整えていた。


「本部で定例会があったんだけどさ……」

「それはみんな知ってるわよ」

「実はその会議で……教主様が辞任されたらしいんだ!」


 ――……え?

 真白は驚愕した。

 いや、真白だけではない。

 この場にいる全員が、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしていた。


「そして……」


 男は楓の母親の方を見た。


「あの楓君が……次の教主になったって……」

「あら、ホント?」


 周囲が『えぇ!?』という声を上げる中、楓の母親はそこまで驚愕しなかった。

 彼女は、自分の息子が特段優秀な人間だと思い込んでいたからだ。

 だが、周りの人間は違う。

 楓のことを知らない人間はこの場にいなかったが、いきなり彼が教主になるというのは誰も予想できなかったことだ。

 皆それぞれ思い思いの反応をしていた。

 当然、中には不安視する者もいた。

 だが、真白は――。


「その話……嘘じゃ……ないですよね……?」

「え? あ、ああ……間違いない……。っていうか、どうしたんだ真白ちゃん。涙が……」


 真白は自分の意思とは無関係に目に熱いものを浮かべていた。


「黒倉さん……!」


 両手で顔を抑え、その場で膝から崩れ落ちてしまった。

 真白は、今まで誰かを信じることができなかった。

 今回も、楓を信じることが最後までできなかった。

 なのに……楓は本当に自分を救い出してくれた。

 そのことが、彼女はどうしようもなく、堪らなく、嬉しくて、悔しくて、悲しくて、幸せで……感情が溢れて仕方がなかったのだ。



 翌日 レストラン『カステイラ』




「で、何で俺はあんたと会わなきゃいけないんだ?」


 楓は、とある人物に呼び出されたのだ。

 二人きりで会いたいと言われたので、仕方なく訪れた。


「私と君の仲じゃないか。ぜひとも名前で呼んでくれ」

「……何の用だ? 黄道麟示郎」


 昨日の会議の後、彼は嬉々として楓と連絡先を交換した。

 まるで何事も無かったかのように接してくる彼に、楓は不審に思わざるを得ない。


「……違うよ」

「え?」

「私の本名は玄野武くろのたけしだ」


 楓は一瞬沈黙する。


「タケシ? あんたがタケシ!? どう見てもタケシって面じゃねぇだろ!」

「ハハハ、酷いなあ。親から貰った大事な名前なんだよ?」

「じゃあ初めからそれを名乗れよ……」

「それだと格好がつかないだろう? 宗教団体の長を務めるにはさ」

「そうかよ……」


 楓は今の会話で玄野がどういう人物なのかを理解した。

 だが、一応その確認をしようと思った。


「……あんた、一体何が目的なんだ?」

「目的? 私はただ、君が教主になれば楽しくなると思っただけよ?」


 楓は溜息を吐いた。

 予想通りの返答だったからだ。


「まさか、天廷会の教主になったのも『楽しくなると思ったから』じゃないだろうな?」

「よくわかったね、その通りだ」

「…………」


 楓は言葉を失った。

 自分が相手どろうとしていた人物は、ただの愉快犯のようなものだった。

 そう気付くと一気に肩の力が抜けていく。


「おかしいな、君と私は同類だと思っていたんだが……」

「何だと?」

「違うのかい? 君だって、面白いと思ったから真白ちゃんに協力しようと思ったんだ。同情や善意なんかでそこまでできない。君は、君の欲望に忠実だっただけなんだろう?」

「そんなことは……」

「ないと言い切れるのかい? 全く、これっぽっちも、『面白い』と思わなかったと?」

「……」


 楓は、最初に真白に協力する意思を示した時のことを思い出していた。

 確かに、自分はあの時退屈していた。

 『面白い』出来事に飛びついたのは事実だった。

 きっかけは確かにそこだった。


「……何だってあんたは俺のことに詳しい? いつの間に調べたんだ?」

「君が幹部と交流を始めたころからだね。君の学生時代の活躍は知っている。特定のゲームに関するサークルを創設したり、合コンを大体的に行うイベントを企画したり、まるで宗教活動の様に支持者を集めて、大学に冷房の温度設定に関する抗議をした話も知っている」

「……あの、人の恥ずかしい昔話を探るのは止めてもらえます?」


 楓は思い立ったらすぐに行動に移してしまう性格だった。

 もちろん、その行動の結果が全て良い方向に行ったわけではなかったので、彼にとっては恥ずかしい思い出だったのだ。


「私はずっと君に興味を持っていた。そして、いずれ君に教主を任せようと思っていたんだよ」

「……先に言ってくれよ」

「本当はもう少し先まで我慢してもらうつもりだったんだが……真白ちゃんに余計なことを言ってしまったのかな?」

「いや……余計なことを言ったのは俺の方だ」


 楓は今更になって、真白に掛けた自分の言葉の数々を恥じていた。

 彼女の事情を知ったとはいえ、いくら何でも出すぎた物言いをしてしまったと反省していたのだ。

 その中でも、『俺を信じろ』という言葉が彼の頭の中で反復していた。

 真白のことを思い出す度に、そんな言葉を放った自分が痛い奴だと思って仕方なくなっていたのだ。


「まあ、君の行動に免じて教主の座は明け渡そう。充分楽しんだし、私は隠居生活でも始めるとするよ」

「隠居って……爺さんじゃねぇんだから……」

「私は今年で還暦だよ」

「……は? はああああああ!?」


 名前を聞いた時以上の衝撃だった。

 玄野の見た目からはまるで想像できない年齢だった。


「わ、若作りしすぎだろ……」

「教主だからね。見た目は大事だろう?」

「そういうモンなのか……」

「君も教主になるのならせめて羽織でも着飾った方がいい。多少は威厳が出ると思うよ」

「……参考にしておく」


 楓は呆れ返ってしまっていた。

 玄野の人物像がどんどん変わっていってしまった。

 本当に快楽だけで生きていそうな人間だった。


「一つ、聞いていいか?」

「何かな?」

「……どうして、事業所への出資を取り止めようとしたんだ? そこだけは聞いておきたい」

「事業所……?」

「障害者支援センターの話だよ」

「ああ……別に、もっと割りのいい福祉法人と取引できそうだったからだが? それがどうかしたのかい?」

「……真白の兄貴がそこで働いているのにか?」

「真白ちゃんのお兄さん? センターで働いていたのかい? それが一体…………ああ、そういうことか」


 実際には真白の兄は障害者なので、センターで働いているのではなく、センターの運営する事業所に勤めている。

 玄野もすぐにそこに気付いた。


「まさか……何も知らなかったのか?」

「ああ。てっきり、お爺さんの創った天廷会を変えたくないという理由だけかと思っていたよ」

「……何だそりゃ……」


 楓は呆れを通り越して苦笑いを浮かべてしまった。

 初めからこの男と詳しく話をしていれば、全て丸く収まっていたのだ。

 完全に遠回りをしてしまっていた。

 それどころか、無駄に教主にまでさせられてしまったのだ。


「……俺達、全員損したみたいじゃねぇか……」

「私は満足だよ? 君の教主としての手腕、楽しみにしておくよ。あ、もし何か気になることがあったら私に聞くといい。力になるよ」

「よく言うぜ、この野郎」


 楓は笑った。

 玄野はただ楽しみたかっただけなのだ。

 マルチを始めたのも、きっと、折角宗教団体のトップになったんだから、試してみようと思っただけに違いない。

 信者を増やしたり、資産を潤わせようとしたのも、本当に心の底から天廷会を大きくしようとしたかっただけなのだ。

 それに気付いていれば……いや、もうそう考える必要は無い。

 ――確かに、俺はあんたと同類だ。

 ――面白いことをさせてもらうとするよ、この天廷会でな。


 楓は、これから先の天廷会の明るい未来を想像してニコリと微笑んだ。



 天廷会館 出入り口前




「よう、真白」


 楓が会館に辿り着くと、出入り口前で真白が立っているのが見えた。

 楓が声を掛けると、真白は顔全体を真っ赤にして、目をウルウルとさせた。


「黒倉さん……私……私……」

「なんか色々あってさ。俺、教主になっちまった。まあ、兄貴の事業所に関しては心配すんな。上手くやっとくからさ」

「私……私……」


 真白は、他人に本音で感謝を述べたことがなかった。

 その所為か、どうしても言葉が出て来ない。

 何を言ったらいいかわからない。


「泣くなよ」

「だって……だって……」


 真白はもう何度涙を出したかわからなくなっていた。


「……その……俺に任せて良かったろ? いや、俺は結局何もしてないんだけどさ……。まあ、全部何とかなったわけだし! よかったよな!? な!?」

「……黒倉さん……」

「あ……悪い、その……押し付けたいわけじゃないんだけど……」


 真白は、楓の懐に体を寄せた。

 涙を流す自分の顔を見せたくなかったから。

 何も言えない自分と顔を合わせてほしくなかったから。

 いや……もうわからない。

 ただ、彼女は体をゆっくり預けていた。


「だから……泣くなって」


 楓は、ただ泣くことしかできずにいる真白の頭を撫でた。

 頭のてっぺんに手を置くと、彼女と自分の背丈の違いがよく理解できる。

 楓は気恥ずかしくなり目を逸らすが、その手は優しく真白の頭を撫で続けた。

 彼女が泣き止むまで、ずっと、ずっと――。

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